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4/16発売!『ウォッチャーズ』好き必見!ディーン・クーンツ『ミステリアム』【試し読み】


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『ミステリアム』
ディーン・クーンツ[著]
松本剛史[訳]


闇よりなお昏く
火曜日、午後四時——水曜日、午後五時

1
 あの事故から三年がたったいま、メーガン・ブックマンは心身ともに健康な状態にはあるけれど、ときおり得体の知れない不安に襲われることがある。時間がどんどんなくなろうとしている、足下にいつかぽっかり穴が開いて呑み込まれてしまう、そういった不安。これは何かの予感めいたものではなく、三十歳で夫を亡くしたことの影響なのだ。あの愛は永遠に続くと、彼とともにずっと歳をとっていくのだと思っていた。なのにすべてが前触れもなく奪われてしまった。もう時間がないと、わたしに伝えてくるこの感覚─でも、これはいずれ消える。いつもそうだった。
 メーガンは一人息子の部屋のドアの前に立ち、その後ろ姿を眺めていた。いろいろな関連機器をつないだパソコンに向かい、いま興味のある何かの調べ物をしているところを。
 ウッドロウ・ブックマン、みんなからウッディと呼ばれるその少年は、十一年間生きてきたなかで一度も言葉を発したことがない。誕生後二、三年は泣き声をあげていたが、四歳になってからはそれもなくなった。笑いはするけれど、何か話しかけられたり、面白いものを見たりしたせいで笑うことはめったにない。ウッディが楽しい、面白いと感じる理由は本人の内面的なもので、母親のメーガンにもそれは計り知れない。珍しいタイプの自閉症だという診断は下っていたが、医者もどう判断したものか困っているというのが本当のところだった。
 幸いなことに、いわゆる自閉症に関連づけられるような問題行動は何もなかった。かんしゃくは起こさず、頑固にもならない。初めて見る人間には警戒心を抱き、怖がることも少なくないが、よく知っている人たちのそばにいるかぎり、触られてひるんだり、身体的接触への苦痛を訴えたりはしない。話しかけられれば集中して聞くし、控えめに見ても子どものころのメーガンに劣らず素直だった。
 学校へは通わず、家庭教師もつけていない。ウッディは独学の天才だった。四歳の誕生日からたった数カ月以内にひとりで読むことを覚え、三年後には大学レベルの本を読むまでになっていた。
 メーガンはウッディを愛していた。どうして愛せないわけがあるだろう。夫と自分の愛の結晶なのだ。ひとつの命がメーガンの内に形づくられ、心臓が鼓動を始めた。それからいままでの年月、息子の心臓はずっと、彼女のそれとシンクロして打ちつづけていると感じられた。
 しかもウッディは、クッキーのテレビCMに出てくるどんな子どもにも負けないくらい可愛らしく、この子なりに深い愛情を示してくれる。ハグやキスをされるのは受け入れる一方で、お返しのハグやキスをすることはない。でもまったく予想していないときに、手を伸ばしてメーガンの手の上に重ねたりする。彼女の漆黒の髪に触れたあと、これはママから受け継いだんだねというように、自分の髪を触ったりもする。
 なかなか視線を合わせようともしないけれど、たまに目が合ったとき、その目がうっすらと涙で光っていることがある。するといつも、自分が悲しがっていると誤解されないように、にっこりと笑みを見せてくれる。その涙はうれし涙なの、とたずねると、ウッディはうなずく。でも、なぜうれしいのか説明することはできない─説明しようとしない。
 意思を通じ合わせるのが難しいために、ふたりはメーガンが望むほど、おたがいの生きる日々を百パーセントまで分かち合うことはできず、そのことは絶えず悲しみとなってつきまとっていた。この子のことでは千回も胸を痛めてきた。でもこの子のおかげで、千回も心を癒やされもしたのだ。
 この子が健常であってくれたら、自閉症でなかったら、などと思ったことはない。もしこの子が〝普通〟だったら、いまとは別の子になってしまう。自分たちが歩んでいるのはきびしい道のりだけれど、それでも─ある意味、それだからこそ─メーガンはウッディを愛していた。
 そしていま、部屋のドアから息子の姿を見ながら、こう声をかけた。「何か困ったことはない、ウッディ? だいじょうぶ?」
 パソコンの画面にじっと意識を集中させながら、背中を向けたまま、彼は右腕をいっぱいに伸ばして上げ、天井を指さしてみせた。ずっと以前に彼女が理解した、だいじょうぶだよという、そしておそらく、〝ぼくは月の上にいるんだ、ママ〟、といったような身振りだ。
「じゃあいいわ。いま八時だから。十時には寝るのよ」
 ウッディは上げた人差し指をくるくる回してみせると、また手をキーボードに戻した。


2 
二年近くにわたって書きためてきた『息子による復讐─忠実に編纂された怪物的巨悪の検証』と題した文書をセーブすると、十一歳のウッディ・ブックマンはパソコンの電源を切った。部屋続きのバスルームに入り、ソニッケアーの電動歯ブラシで歯を磨く。手で磨くのは許されていない。自分ひとりで歯ブラシを持つと、まるで取り憑かれたみたいに、二十分もひたすらゴシゴシこすりつづけてしまうのだ。そんな習慣をずっと続けていたら、歯茎がすり減って移植手術をしなければならなくなる。現実に十歳のとき、左側下の三本の歯を守るために口腔手術を受けるはめになった。
 最近では、歯周病専門の歯科医たちはそうした治療のために、死体から歯茎の組織を取り、放射線を照射して滅菌したうえで使う。だからウッディの歯の三本にはすでに、知らない誰かの死んだ歯茎がかぶさっている。もうこれ以上はごめんだ。死んだ人の体組織のせいで何か妙なことが起こったりしたわけではない。提供者の人生の記憶がぱっと浮かぶとか、何かを猛烈に食べたくなるような『ウォーキング・デッド』みたいな経験はしていない。移植のせいで自分がゾンビになるなんてことはない。そんな考えは科学的にばかげている。
 ばかげた科学を信じる人たちの多さに、ウッディはなんだかいたたまれない気持ちになる。ちょっとしたことですぐ腹を立てたり、ほかの人の悪口を言ったり、動物に意地悪をする人たちにも。理由はいろいろだけれど、彼をいたたまれなくさせる人はすごく大勢いる。
 そしてウッディが自分自身のことでいたたまれないと感じるのは、ついつい自分の歯を危険な目にあわせてしまうことだ。ソニッケアーには二分間のタイマーがついている。しかも硬い毛でゴシゴシこするのではなく、音波で歯垢を除去するという触れ込みだ。もしタイマーがなかったら、ウッディの口のなかの歯茎の組織はそれこそゾンビみたいになっていただろう。
 もうひとつ、自分のことでどうにもいたたまれないのは、ときどき女の子にキスするところを想像してしまうことだ。つい最近まではそんなことが頭をよぎったりはしなかった。キスして、唾液を交換するなんて─ウェッ─気持ち悪い。そんなものに憧れるなんてどうかしてる。それに─やっぱりだめだ、どうしても止められない─もしぼくが誰か女の子にキスしていいかいと訊(き)くようなことになったとしても、口のなかの死人の歯茎のことは絶対言えない、その子はオエッって言って逃げ出すに決まってる。でも大事なことを教えないのは嘘をつくのと同じだから、そのことを考えると屈辱的な気持ちになる、だって嘘は人間のあらゆる苦しみの根源にあるものだから。屈辱という言葉は痛みをともなう恥の感覚だと定義できる、いたたまれないというよりもっと悪いものだ。
 記憶にあるかぎり昔から、ウッディは自分にもほかの人たちにも、ずっといたたまれなさを感じつづけていた。そしてそのことが、彼がしゃべらない理由のひとつでもあった。もし口をきいたりしたら、いろんな人たちに、ぼくはあなたのすることにいたたまれなくなると、そして自分のことでもいたたまれなく感じると言ってしまうだろう。どんなときもそうだ。ぼくは混乱のかたまりだ。ほんとにそのとおりだ。人はみんな、ぼくがどれほどの混乱のかたまりだとか、自分たちがどれほどの混乱のかたまりだとかいう話なんか聞きたがらない。でも大事なことを言わないのは嘘をつくのと同じだし、嘘をつくことを考えると屈辱のあまり吐きそうになってしまう。黙っていたほうが、何も言わないほうがいい。そうすればみんながこっちを好きになってくれるかもしれない。自分がどれほどいたたまれない混乱のかたまりかを話さずにいれば、みんなに気づかれずにすむかもしれない。
 特にいたたまれないと感じることのひとつは、世の中の人たちがどんなに不注意かということだ。
 歯を磨いてからベッドへ行き、ナイトテーブルのランプをつけた。暗いのは怖くない。幽霊だの吸血鬼だの狼男だの、そんなものはいやしないし、死人がこの寝室に忍び込んで歯茎の組織を奪い返しに来るなんてことは万にひとつもない。
 怪物になるのは人間だけだ。人間みんなじゃない。そのなかのほんの一部だ。パパを殺したようなやつらだ。パパは三年前に死んだけれど、誰も殺人の罪で刑務所に入れられていない。みんなが事故だと思っている。でもぼくは知っている。『息子による復讐─忠実に編纂された怪物的巨悪の検証』を最後まで書き終えたいま、パパの死に責任のある人間はみんな、法の裁きを受けることになるのだ。
 ウッディはすばらしく頭がいい。七歳のころから大学レベルの本を読んではいるけれど、そのこと自体には大した意味はないだろう。大学を出ていても、何も知らないような人たちは大勢いる。彼は腕利きのハッカーなのだ。ここ二年は、きわめて警戒厳重なコンピュータシステムに入り込んでルートキットを仕掛け、一度もセキュリティの網に引っかからずにネットワークを泳ぎまわりながら、深いデータの海をひそかにあさってきた。そして探索を続けるうちに、ダークウェブと呼ばれる奇妙な領域にまで達していた。
 ウッディはいま、眠気がさしてくるのを待ちながら、何か楽しいことを考えようとした。雑誌のグラビアで見るような女の子とキスをするところを想像して、またいたたまれない気持ちになった。別のことに頭を切り替えようとするが、どうしてもうまくいかない。これから何年かしたらいつか、やっぱり誰かの歯茎を移植した、ぼくと同じような女の子に出会えるだろうか。これまで頬やおでこにキスをされたことはあるけれど、唇にされたことはないし、誰かにお返しのキスをしたこともない。もしそんな女の子に出会えたとしたら、素敵なファーストキスになるかもしれない。


3 
ドロシーから死のにおいがした。
 彼女は七十六歳。朝になったら、まもなく逝ってしまうだろう。
 それはきびしい真実だ。世界は美しい場所だけれど、きびしい真実に満ちた場所でもある。
 住み込みのホスピス看護師ローザ・レオンがドロシーにつきっきりでいた。彼女が生きてきた長い人生のなかの、ほとんどの夜を過ごした寝室で。
 ローザからは生(せい)のにおいと、シャンプーのストロベリーの香り、彼女が好きなペパーミントキャンディの香りがした。
 この部屋で、ドロシーと亡き夫のアーサーは愛し合い、一粒種のジャックをもうけた。
 アーサーは会計士だった。六十七歳でこの世を去った。
 ジャックは二十八歳で戦死した。両親は息子より何十年も長く生きることになった。
 わが子に先立たれたことは、ドロシーの人生でもいちばんの悲劇だった。
 それでもジャックへの誇りを胸に、彼女は立ち直り、意義深い人生を送ってきた。
 キップはジャックにもアーサーにも会ったことはない。ふたりのことを知っているのは、ドロシーから何度も何度も話を聞かされたからだ。
 ローザは肘かけ椅子に腰かけ、ペーパーバックを読んでいた。死神がすぐそこまで来ていることも知らずに。
 そしていま、ドロシーは薬のおかげで、痛みのない眠りのなかにいた。
 彼女がひどい痛みに苦しんでいると、キップはつらくてならなかった。ドロシーと暮らしたのは三年間だけ。でも心の底から彼女を愛していた。
 理屈を超えて愛することが、キップの持って生まれた性質なのだ。
 ドロシーとの別れがやってくる前に、自分も覚悟を決めて、喪失に向き合う準備をしなくてはいけない。
 一階へ下りて専用のドアをくぐり、奥行きのあるバックポーチに出て、新鮮な空気を吸い込んだ。
 屋敷は湖から六メートルほど上のところにあった。岸辺に小さな波がひたひたと寄せ、鋭く尖った三日月がさざ波立つ水面に映ってゆらめいている。
 そよ風がふわりと、いろんなものの混じった豊かなにおいを運んできた。松や杉、暖炉から出る煙のにおい、野生の茸、木々の実、リスやアライグマ、その他あらゆるもののにおい。
 加えてキップは、絶え間なく響く不思議なつぶやき声も感じていた。つい最近になって聞こえはじめてきたもの。
 初めは耳鳴りかと思った。そういうものに悩まされる人間もいるそうだが、でもそれとはちがう。
 間断ないその奇妙な音には、ほとんど言葉まで聞き取れそうだった。西のほう、北西寄りの方角からやってくる。
 ドロシーが逝ってしまったら、探索に出て、この音の源を見つけなくては。目の前にある目的ができれば、せめてもの慰めになる。
 キップはポーチから庭に下りると、しばらく星空を見つめ、考えをめぐらした。
 ぼくはとても賢いらしいけれど─それを知っているのはドロシーだけだ─そのことにどんな意味があるのかはわからない。
 でも、みんな同じだ。ぼくよりずっと賢い、歴史上の大哲学者たちも、万人が納得できる理論を生み出せはしなかった。
 ドロシーの寝室に戻ると、まもなく彼女が目を開けた。
 ローザが小説を読んでいるのを見て、震える声で話しかけた。「ねえロージー、それをキップに読み聞かせてあげて」
 患者の気持ちに寄り添って、看護師が言った。「ディケンズはこの子の修学レベルよりも上じゃありませんか」
「いいえ、ぜんぜん。そんなことないわ。『大いなる遺産』を読んであげたら、とても楽しんでたもの。『クリスマス・キャロル』も大好きなのよ」
 キップはベッドわきに立って、ドロシーを見上げ、しっぽを振った。
 ドロシーがおいでと言うように、マットレスをぽんぽんと叩(たた)く。
 キップはベッドに飛び乗った。彼女のそばに体を横たえ、あごを腰の上にのせる。
 ドロシーが片手をキップのたくましい頭に置いて、垂れた耳を、金色の毛並みをやさしくなでた。
 憎むべき死神が戸口まで来ていても、キップの心には悲しみとともに、このうえなく甘い幸福感がすみついていた。


4 
二車線のアスファルトが黒い蛇となり、青白い月明かりに照らされたユタ州の荒地の上をうねうねとのたくっている。ほとんど何もない広大な闇のなか、ちらほら遠くに固まって見える灯火は、まるで地球外生命体の母船から下りてきた小型ポッドのようだ。
 リー・シャケットはプロボの南を出て、さらに広大な無人の地の奥へと、あえて州間高速道路一五号線は使わず、車の少ない州道を走っていく。スプリングヴィルの研究施設からできるだけ遠くまで離れたくて、矢も盾もたまらずに。
 この自分がほぼ史上最悪の悪事に加担してしまったのだとしても、あれは純粋な善意に基づいてのことだ。そういう意図のほうが、行動したことの結果よりも大事なんじゃないのか。男も女も、誰も彼もがリスクを嫌って何もしなかったら、どうして人間が洞穴暮らしから宇宙ステーションを打ち上げられるまでに進歩できたというのか。誰かが知識を求め、いかなる犠牲を払ってでも挑戦しつづけたからこそ、進歩は成し遂げられてきたのだ。
 ともかく、最後にはすべて吉と出る可能性はある。プロジェクトの最終結果はまだ出ていない。中途の段階でつまずいただけ。科学的活動に後退はつきものだ。結局のところ、錯誤から学びさえすれば、失敗は成功の素にもなりうる。
 それでもいまシャケットは、この失敗は致命的なものだという前提で行動している。
 彼がいま乗っているのが愛車のテスラでもメルセデス550SLでもないのは、いずれ当局から捜索の手が伸びるはずだからだ。いまの車は、ケイマン諸島の有限責任会社(LLC)を通じて十四万六千ドルで買った、フル装備のブラッドレッドのダッジ・デーモン。法執行機関がいくら血眼(ち まなこ)になって捜しても、リー・シャケットの名前とは絶対に結びつけられない。ナンバープレートはモンタナ州のものだ。まかりまちがってこのダッジと自分とがつながるような事態になっても、GPSは取り外してあるので、衛星から位置をつきとめられるのは防げる。
 トランクにはスーツケースが二個入れてあり、うち一個の中身は現金十万ドル。助手席後部のラッチボタン二つを押して解除すると現れる隠しコンパートメントには、百ドル札でそろえた三十万ドル。さらにいま着ているスポーツコート風の仕立てのしなやかな黒い革のジャケットの裏地には、三十六個の高品質ダイヤモンドが縫い込んである。
 これだけの財産で、残りの人生すべてをまかなおうというつもりはない。何カ月か地下にもぐり、スプリングヴィルの大惨事のほとぼりが冷めてからアメリカ国外へ脱出し、身元を三度変えながら五カ国を経由する間接的なルートでコスタリカへたどり着くまでの資金だ。コスタリカにはイアン・ストーンブリッジの名で隠れ家を用意してあるし、同じ名義のスイス国籍のパスポートも持っている。
 シャケットは、超巨大コングロマリットの傘下にある数十億ドル企業、リファイン社の最高経営責任者(CEO)だ。数十億ドル企業は数あれど、自社が苦境に陥るのを見越して新しい身元を用意し、今後数十年にわたって外国で遊んで暮らせるだけの資金を隠しておくという先見の明を持ったCEOがどれだけいるだろうか。世のほとんどのCEOよりずっと若い自分がそこまで賢明かつ慎重だったことが誇らしくなる。
 もっとも三十四歳という年齢は、二十代で起業して億万長者になる異才がざらにいるテクノロジー関連業界では、さほど若くはない。シャケットが仕える親会社の取締役会長、ドリアン・パーセルは、二十七歳で十億ドル単位の富を築いたあと、いまは三十八歳になっているが、シャケット自身の資産はやっと一億ドルだ。
 ドリアンはスプリングヴィルでの研究を猛スピードで進めるよう急きたて、シャケットは否応なしに従った。この大プロジェクトが成功すれば、手持ちのストックオプションによって彼の資産も、数十億までは無理でも十億ドルには達する。ただしドリアンの五百億の資産も、まずまちがいなく倍増するだろう。
 どこまで不公平にできているのか。そんな思いに駆られるあまり、眠っているあいだも歯ぎしりをして、起きたときにあごが痛んだりもする。ただの億万長者など、ハイテク業界のプリンスたちに混じればゼロに等しい。やつらは口では社会的平等を唱えながら、その多くは世界でも類を見ないほど階級意識の強いエリート主義者なのだ。リー・シャケットはその仲間入りをしたいと強く願い、半面では腹の底から軽蔑してもいる。
 もしこれから生涯身を隠し、ほんの一億ドルぽっちの金で暮らしていかねばならないとしたら、ドリアンのやつを破滅させる計略を練る時間はたっぷりある。ほかに何がしたいという気にはほとんど、いやまったくならないだろう。
 最初からわかりきっていたのだ。もし何かまずいことが起これば、責めを負わされるのはこのリー・シャケットだと。ドリアン・パーセルはいつまでも手出し無用の、ハイテク革命のアイコンでありつづけるだろう。だがそれでも、そのツケを自分が支払わされているいまは、まんまとはめられた、騙された、罠(わな)にかかったと感じずにはいられない。
 宵闇のなかを運転しながら、怒りに、そして自己憐憫と不安にさいなまれると同時に、そこにはもうひとつ、彼にとっては目新しい感情もある。これはきっと悲しみだ。あのスプリングヴィル近郊の封鎖された高セキュリティの施設には、リファイン社の従業員九十二名がいて、外界との接触を断たれたまま人生最後の数時間を迎えている。ドリアンに劣らず、あいつらにも腹が立ってならない。あの天才たちの誰かひとり、もしくは何人かが不注意なまねをしでかしたせいで、彼らの命運は定まり、シャケットもこのよるべない立場に置かれることになった。それでも多少は友人もいる。彼らの監督を義務づけられたCEOに許される範囲内とはいえ、友達であることに変わりはない。友達の苦しみを思うなら、胸が痛むのは当然だ。
 シャケットはあの施設の設計段階で、万一の危機に際して研究所全体が完全封鎖された場合、自分のオフィスと直属のサポートスタッフ五人のオフィスの入った一角だけはほかの場所から九十秒後に密閉されるよう計らった。だがあのアラームが鳴り響いたとき、彼はスタッフたちにこう念を押して─「われわれは安全だ、みんなそれぞれの持ち場にとどまるように」─自分だけそっと抜け出したのだ。
 彼らには嘘を言う以外なかった。アラームが伝えていたのは近づいてくる災厄ではなく、目の前の災厄そのものだった。施設の研究員たちだけでなく、直属スタッフ五人も汚染された。シャケットもやはり汚染されていたが、生きるか死ぬかのあの状況で、彼らを騙すほど簡単におのれ自身を騙すことはできない。
 どっちにしろ、これまでも自分のミスがもたらす悪影響からはうまく逃れてきた。その幸運が今回も最後まで続いてくれるかもしれない。
 追跡の手はまもなく伸びる。法執行機関だけでなく、ドリアンの容赦ない掃討チームにも追われる身となる。あらためてスプリングヴィルの従業員たちの最期を思い─これは自分なりの慈悲と悲哀の精神だと信じながら─そして誰かが彼に不利な証言をする前に全員、あの世へ旅立ってくれるようにと願う。


5
 ローザ・レオンが自分用のサンドウィッチを作りに一階へ下りていき、キップはドロシーとふたりきりになった。
 ランプの光は抑えられ、暗い影は静かな水面のようになめらかで、窓の向こうの大きな松の木が月明かりを浴びて銀色に見えた。
 ドロシーが口を開いた。「わたしが死んだら、あなたがローザと暮らせるよう手配してあるわ。彼女ならあなたを大切にしてくれる」
 了解のしるしに、キップはしっぽで三度、マットレスをぱたぱたとはたいた。三度は、イエス、わかったという意味。一度はたくのは、ノー、それはちがう、よくないという意味だ。
 でも実際の運命は、キップをローザとの暮らしにではなく、もっと遠くまで連れていくことになるだろう。
 それでもいま、ドロシーを悲しませる必要はない。
「ねえ坊や、あなたはほんとうに、かけがえのない贈り物だったわ。息子のジャックにも、愛(いと)しいアーサーにも負けないくらいの」
 キップは老婦人の腰にのせていた頭を持ち上げ、彼女の青白い手をなめた。いつも体をなでて、食べ物を出してくれた手を。
「あなたがどこから来たのか、いっしょにその謎を解き明かせられたらよかったのにね」
 キップが長いため息を吐いて、同意の気持ちを伝える。
「でもね、結局、わたしたちはみんな同じところからくるの。あらゆるものをつくり出す、心のなかから生まれるのよ」
 時間がまだ残されているうちに、もっともっとたくさんのことを、このひとに言いたい。
 知能はなんらかの手段で人間レベルにまで高められているとはいえ、キップに話すための発声器官はない。音は出せるけれど、言葉にはならない。
 ドロシーは意思を伝え合う巧妙な仕掛けを考案してくれたが、あれがあるのは一階の部屋だった。いまの彼女に階段を下りる力はない。
 でも、もういい。ほんとうに言いたいことは、キップはこれまでぜんぶ言ってきた。あなたを愛してる。あなたがいなくなったらつらくてたまらない。あなたのことを決して忘れない。
「ほら坊や。わたしにあなたの目を見せて」
 キップは体の位置を変え、頭を彼女の胸にのせて、愛情に満ちたそのまなざしと目を合わせた。
「あなたの目と心はあなたの犬種と同じ、混じりけのない黄金(ゴールデン)よ」
 彼女の目は青く澄み、限りなく深かった。

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続きは4/16発売の本書でお楽しみください。

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DEVOTED
by Dean Koontz
Copyright © 2020 by the Koontz Living Trust

Japanese translation rights arranged with the Koontz Living Trust c/o InkWell management,
LLC, New York, through Tuttle-Mori Agency, Inc., Tokyo

All characters in this book are fictitious.
Any resemblance to actual persons, living or dead,
is purely coincidental.

Published by K.K. HarperCollins Japan, 2021

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