【訳者あとがき全文公開】2019年女性小説賞受賞作『結婚という物語』(タヤリ・ジョーンズ著、加藤洋子訳)
『結婚という物語』訳者あとがき
あなたは待てますか?
結婚生活わずか一年半、夫が無実の罪で懲役十二年の刑を言い渡され、離れ離れの生活がつづいたら、あなたは待てますか?
本書が読者に突き付けてくるのはその問いかけだ。黒人カップルの物語だが、ここで描かれるのは人種差別ではなく結婚そのもの。だから、差別する側の白人は登場しない。作者タヤリ・ジョーンズは、インタビューで本作を書くきっかけとなったのは、アトランタのモールで耳にしたカップルの諍いだった、と述べている。女性のほうが言い放った言葉。「ロイ、逆の立場だったら、あなたは七年も待てないだろうと、自分でもわかってるんでしょ」ここから作者はイメージを膨らませ、『結婚という物語(原題An American Marriage)』を書き上げた。
結婚は長い年月をかけて積み上げてゆくものだ。わずか一年半では土台すら出来上がっていない。それなのに女は待つことを強いられ、周囲や社会から無言の圧力がかかる。夫は無実の罪で収監され、待っている妻よりもはるかに辛い思いをしているのだ。待ってあたりまえ、待てない女は身勝手、ひとり暮らしの淋しさをほかの男で埋めるなんて言語道断。だが、立場が逆転すれば、ひたすら待った男は大いに称賛され、たとえ待てなくても仕方ないと思われる。おそらくどの国にもあてはまる社会通念だろう。そういう意味でも、妻セレスチャルの母親が娘に言った言葉は重い。「(あなたは)頭は切れるけど衝動的で、ちょっとばかり身勝手。でも、女は身勝手なぐらいでちょうどいいの。そうじゃなきゃ、世の中に踏みつけにされるもの」
物語の構成としては、夫のロイ、妻のセレスチャル、それにセレスチャルの幼馴染のアンドレの三人の視点で描かれている。ひとつのエピソードに三つの視点から光が当てられることで、物語は重層的かつ深くなる。また、若い夫婦がやり取りする手紙が重要な意味をもち、少しずつすれ違ってゆく二人の気持ちが手に取るようにわかる。セレスチャルの葛藤を描いた物語でもあり、揺れ動く心が緻密に繊細に紡がれる。オプラ・ウィンフリーが本書に寄せた賛辞、「タヤリのたくさんある才能のひとつが、言葉で魂に直接語りかけられること」は言い得て妙だ。私事だが、訳していて魂が震えるのを何度も経験した。
著者のタヤリ・ジョーンズはこれまでに長編小説を四冊上梓している。セレスチャルとおなじアトランタの裕福な黒人中流家庭に生まれ育ち、スペルマン・カレッジ、アイオワ大学、アリゾナ州立大学を卒業、現在はコーネル大学のプロフェッサー=アト=ラージ(日本でいうと客員教授だろうか)として世界中から集まった様々な分野の俊英二十一人の一人として一年のうち一定期間教壇に立ち、エモリー大学ではクリエイティブ・ライティングを教えている。
ハーバード大学ラドクリフ研究所の特別研究員として〝大量拘禁〟をテーマに研究を行い、当初は小説にまとめるつもりだったそうだ。アメリカの刑務所がパンク寸前だというニュースはわれわれも聞き知っており、とりわけ黒人が黒人という理由だけで不当に収監されていることは、いまだに根深い人種差別の一例だろう。ロイの物語として、ここにそれがきっちり描かれている。
さらに四人の父親が登場し、これもまた読みどころのひとつとなっている。個性がまったく異なる四人の黒人男性が吐く台詞が、皮肉の効いたクスッと笑えるものだったり、心にじんわり染み込む人生訓だったりで、物語に彩りを添えている。
本書は二〇一八年にアメリカで出版されると、すぐにニューヨークタイムズのベストセラーリストに躍り出て、オプラ・ウィンフリーのブッククラブのお薦め本に選ばれ、バラク・オバマ元大統領が〝この夏に読むべき小説のリスト〟に加えたことでも話題となった。また、アメリカの権威ある文学賞のひとつ、『全米図書賞』の候補となり、イギリスの権威ある文学賞のひとつ、女性作家(国籍不問)が英語で書いた創作長編小説に贈られる『女性小説賞』(企業スポンサーの名をとってオレンジ賞、ベイリーズ賞と呼ばれた時代もあったが、いまは複数のスポンサー制のもとで運営されている)を受賞した。
最後に嬉しいニュースを。オプラ・ウィンフリーが権利を買い取り映画化が進められているそうで、愉しみに待ちたいと思う。
二〇二一年、冬と春の境のころ
加藤洋子
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