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【試し読み】『エクストリーム・エコノミー』第2章:ザータリ難民キャンプ

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ザータリ難民キャンプ

15歳のギャングのボス

 その目のために、人は彼をキツネと呼ぶ。地平線へ向けられたハレドの視線は、危険がないか何かいいことがないかを探して、すばやく左右に動く。彼はつねに警戒しなければならない。リーダーとして危うい集団を率いている。もし捕まれば、ハレドも仲間もヨルダンから追放され、戦時下のシリアに戻される。
 危険な暮らしにはその分、旨みもある。毎日、家に20ディナール(約28ドル)をもち帰れるのだ。専門技術をもった30歳のエンジニアがヨルダンの首都アンマンでもらえる給料のざっと2倍になる。稼ぎが大きいのは、違法だからだ。ハレドたちは密売人グループで、食料、タバコ、電子機器、医療用品などを売りさばき、世界最速で拡大しつつあるザータリ難民キャンプの境界線をこっそり出入りしている。ハレドは15歳だ。
 密売ゲームを始めてまだ日は浅い。2013年まで、ハレドは南シリアのダエルという町に暮らし、戦争前のシリアの子どもの94パーセントがそうだったように、学校に通っていた。乾いて埃っぽいヨルダンとはちがい、シリアは水源の多い緑豊かな国で、故郷ダエルはオリーブとぶどうの産地として知られていた。戦争前のダエルの人口は3万人ほど、大都市にはほど遠い穏やかな町だった。だが2011年3月、住民がバッシャール・アル・アサド大統領への抗議運動に参加したために、ダエルはその後の内戦で激しい爆撃の標的になった。住民には国境を越えて南に逃げるしか道がなかった。アチェの人たちが2004年の災害ですべてを失ったあと生活を立て直したように、彼らも難民となった場所で生活を立て直そうとしている。
 ヨルダン北部の難民キャンプにいるシリア人も、災害を生き延びたアチェの人たちも、大切な人を亡くし、財産を失い、社会と経済が破壊されるのを目の当たりにした。そのショックは大きく、残酷だった。だが、私のようにザータリにしばらく滞在してみると、アチェのときもそうだったように、ある種の楽観的な感覚と、どんな困難でも人は打ち破っていけると信じる気持ちが芽生えてくる。ザータリも極限(エクストリーム)経済の場所であり、とてつもない逆境のなかで奇跡のように経済が動いている。難民が何を失ってきたかを突きつける場所だが、創造性豊かな経済が短時間で生まれる場所でもある。新しいビジネスが次々につくられる一大ビジネス拠点となり、周辺のヨルダンの町に商品を「輸出」するほどに成功している。
 私は、この難民キャンプから得られる教訓は、津波を生き延びたアチェのそれとは、多少似てはいても種類のちがうものだと思っていた。アチェでは、駆けつけてきた外部の援助団体が海のそばには戻らないほうがいいと助言をしても、生き方を決めるのは住民であって、結局彼らは何世紀も住んできてよく知っている場所に戻ってきた。だがザータリ難民キャンプに住むシリア人家族は事情がちがう。安全を求めて逃れてきた人たちであり、外国の土地に難民として暮らす彼らは厳しい管理下に置かれている。ヨルダン当局や国際援助団体など外部の機関は、助言者ではなく統治者であり、難民の生活に大きな影響を与える決定を下すのは、彼ら自身ではなく外部の機関なのだ。死亡者の人数ならザータリのほうが少ないかもしれないが、自分が主体となって生き方を決められるかどうかで見れば、ザータリの難民のほうがはるかに多くを失っているのではないだろうか。
 どこの難民キャンプでも非公式の取引があたりまえにおこなわれるものだが、ザータリ難民キャンプは新しい店の数などの公式データを見ただけでも桁外れの勢いだということがわかった。そこで私は実際にザータリへ行き、買い物をする場所も食べるものも着るものも厳格な管理下に置かれているはずの彼らがなぜ、またどんなふうに活発な取引をおこなっているのか、確かめようと考えた。ザータリの才能豊かな起業家たちに会って、経済が破壊されたときに彼らがどうやって生活を立て直したのか、その秘訣についてインタビューを重ねるうち、ザータリ難民キャンプのシリア人が悪魔の双子のように怖れるもうひとつのキャンプがあることを知った。ふたつの難民キャンプの経済を比べることで、ちょっとした品物やサービスにしろ、人生の選択と自己の主体性にかかわるもっと重大なことにしろ、非公式な取引がいかに難民のニーズを満たすのに役立っているかを知ることができた。双子のキャンプはまた、外部機関が人にとっての経済活動の価値を理解していない場合、難民がいかに悲惨な状況に追いやられるかも浮き彫りにした。

大人6人に店1軒

 2012年の夏まで、ヨルダン北部の小さな町マフラクから東に向かうと、数百キロにわたって、ただの荒れ野しか見えなかった。10号線に乗って町を出ると、道はひたすら砂漠を走り、やがてイラク国境を抜けてバグダッドに着く。だがいまはすっかり変わった。町を出て車で10分も走れば、右手に町が──といっても模型みたいに小さいのだが──とにかく町が見えてくる。近づくと、蜃気楼ではないことがはっきりする。ただし白い家々は本当に小さい。後先考えずにつないだ電線がところどころ人の頭の近くまで垂れていて危なっかしい。周囲には有刺鉄線が張られ、ヨルダン人の警護兵が座って銃の手入れをしている。これがザータリ、行き場をなくしたおおぜいのシリア人がいまは〝ホーム〟と呼ぶ、急ごしらえの町だ。
 ザータリ難民キャンプができたのは、南シリアのダルアーがシリア内戦の勃発場所となった2012年7月のことだった。ダルアーで暮らしていた10万の人たちは、飛んでくる爆弾から逃げなければならなかった。ダルアーの中心からキャンプまでは約50キロ、健康な大人の足でも12時間はかかる。難民の多くが、ダルアーよりはるかに遠い町や村からようやくたどり着いたのだという。多くの家族が夜通し歩き、年かさの子どもは親を助けて荷物を運び、小さな妹弟を背負った。戦闘が激しくなると、毎日数千人がキャンプに着くようになり、ザータリの人口は膨れあがった。2013年の4月には20万人に到達し、世界で最も大きく、最も速く拡張していった難民キャンプとなった。
 そのころ、想定外のことが起こった。1日の新規難民が4000人ともなると、キャンプの運営機関である国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の人手がまったく足りなくなったのだ。あまりに多くの人が次々に入ってくるので、UNHCRは業務の合理化を迫られ、食料・水、健康・予防接種、警護にかかわる業務だけに集中することにした。従来の難民キャンプでは厳格に管理してきた住居の配置や店の軒数、ビジネスを許可する人数などの管理を手放したのだ。細かい管理がされなくなったことで、ザータリは無法地帯になり、小競り合いが頻発した。だが同時に、故郷で営んでいた店の縮小版をつくって、小規模でもここで経済を立て直そうと決意するシリア人が増え、非公式経済が花開くきっかけになった。
 店主たちはまず、商売をテントで始めた。その後、難民の住居用としてUNHCRが木製のトレーラーハウスを運び入れたので、それを手に入れ、横壁を切って、小さな売店をつくった。まもなく、いたるところに店ができはじめた。食料雑貨店、タバコ店、ウェディングドレスのレンタル店、小鳥を売るペット店、自転車店、10代の若者をターゲットにしたビリヤードホールまであった。ザータリにキャンプができてわずか2年後の2014年には、1400以上の店ができていた。大人6人につき店がひとつある状況で、イギリスのような経済先進国よりもザータリのほうに店があふれていた。商店は驚くほどのスピードで増え、今日(こんにち)では3000を数えるという。ほかの難民キャンプでも商売をする店はある。たとえばケニアのダガハレ難民キャンプでは、ザータリに近い規模をもち、店も1000ぐらい営まれているそうだ。ただし、ダガハレは設営から20年が経っている。ザータリにビジネスが生まれる速さとその規模はほかに類を見ない。

ザータリ3


 経済の観点では、ザータリはうまくいっている。初期の数年は難民キャンプの就労率は65パーセントに達していて、フランスよりも高かった。UNHCRの推計によると、2015年前半の時点で、シリア難民が立ちあげた未認可ビジネスはひと月あたり合計1400万ドル近くの売上があった。外部機関の手助けはほとんどなく、むしろキャンプ内での起業を邪魔されることが多かった状況からすると、ビジネスの隆盛は当初から計画されていたことではなく、偶発的な動きが重なってそうなったようだ。だからこそ、ザータリは、解く価値のある経済のパズルなのだ。背中におぶった幼子以外にはほとんど何ももたず、夜通し歩いてキャンプに到着した彼らに、なぜこんなことができたのだろうか。私たちの暮らしにとっての経済の大切さについて、統治機関が助けるべきところとそうでないところについて、ザータリは何を教えてくれるだろう。

密売少年

 ハレドと仲間の子どもたちがザータリにとってどれほど必要とされているか、それがわかるまでには少し時間がかかった。はじめに見えてきたのは、彼らが誰と対抗しているか、だった。訪問客がキャンプに着いてすぐにすることは、治安部隊のシリア難民支援局(SRAD)を訪ねることだ。SRADのなかでは、強面の係官たちがひっきりなしにタバコを喫いながら、訪問客の許可証を検査する。彼らはキャンプの境界のパトロールもおこない、密売人の出入りを阻止しようとする。正規軍を除隊した者が多い治安部隊の彼らと、シリア人の密売少年たちとのあいだでは、毎日いたちごっこが続いている。
 この越境ゲームではザータリの地形が少年側に有利で、監視人たちにはほとんど勝ち目がない。キャンプは南北に2キロ強、東西に3キロの大きな楕円形をしている。間に合わせの住居の列を歩いていくと、やがてザータリの境界に沿って取り囲む環(リング)のような、きれいに舗装された道路に突き当たる。正門とはちがって、有刺鉄線はなく、警備兵もおらず検問もない。環状道路の外は砂漠で、ヤギを飼って暮らすアラブ系遊牧民のベドウィンのテントがいくつか見えるほかはなにもない。砂嵐のなかを歩く準備ができている人なら、たやすくザータリのなかに入れるし、そこから出ていける。
 ハレドたちにとって有利なのは、抜け穴の多いこうした境界線だけではない。ザータリは家族で逃げ込んできた者が多くいる場所なので、子どもがあちこちにいて、密売少年が溶け込みやすいのだ。キャンプは男女別になっているが、若いうちに結婚する人が多く、たくさんの子をもうける。はじめの4年間だけでザータリで6000人が生まれ、難民のうち4万5000人は18歳になっていない。なめらかに舗装された環状道路は、数少ない贅沢を感じられる場所であり、ボール遊びをするにもぴったりだ。小さい子は自由に走り回り、10代の子は自転車を乗り回している。この大集団のなかで密売少年を見つけるのは不可能に近い。
 ハレドと仲間たちの暮らしを見ていると、ほしいものがあっても手に入れられない人たちがいるときに、ルール違反ではあるが非公式なサプライチェーンが自然発生的につくられ、大きなパワーをもつことがよくわかる。密売人の存在が重要なのは、キャンプ外にある物品への巨大な需要を満たしてくれるからだ。キャンプの外縁のそばに住む、黒い服と青いヒジャブを身に着けたラーナ・フーシャンは、夕食のタッブーラ・サラダと挽肉料理のクッバを用意しながら言った。「ほしくないのに缶詰の牛肉はある。ほしいのにシャンプーはない。だからあの子たちが交換を助けてくれる」。密売少年たちが国境商人の役割を果たすのは、ザータリが一般の国々の経済と同じように輸入品と輸出品のある〝国〟と考えられるからだ。ほかの経済と同様に、ここのキャンプにもビジネスに勢いをつける経済のエンジンがある。ザータリにおけるそれは、キャンプ内にある〈タズウィード〉という巨大な店だった。

奇妙なスーパーマーケット

〈タズウィード〉はある面ではスーパーマーケットだ。ただし、ザータリの極限(エクストリーム)経済では、金をもって店に行き、ほしいものを買うふつうのスーパーマーケットとは真逆に動く。難民キャンプに住む家族は金をもたずに〈タズウィード〉に行き、ほしくないものを買い、その日の終わりに金を払いにまた店に行く。部外者から見れば奇妙な行動の連鎖が起こっている。ここが理解できれば、ザータリの謎はかなり晴れる。
 このスーパーマーケットは個人が所有し、営業している。税金を払い、地代も払っている。3キロほど離れたキャンプの端に、もうひとつのスーパーマーケット〈セイフウェイ〉があり、こちらはUNHCRの綿密な計画のもとに建てられた店だ。スーパーマーケットがふたつあれば、難民から不当に高い金を絞り取るような独占を防止できる。食糧支援をおこなう国連の世界食糧計画(WFP)や、人権保護のセーブ・ザ・チルドレンのような援助団体にとってもこれは望ましい話だった。買う場所の選択肢が増えるので、難民にとってもいい話のはずだった。
 スーパーマーケットはふたつとも、キャンプのすぐ外を走る環状道路のそばにある。住居が密集しているのはキャンプの中央付近なので、そこから買いに行くにはかなり歩かなければならない。近くの砂漠で暮らすアラブ系遊牧民のベドウィンがピックアップトラックをもっていて、キャンプのなかで非公式な乗り合いタクシーを営業している。ベドウィンのひとりで50代のアブー・バクルがトラックを停め、婦人5人を乗せる。それで席はいっぱいになったので、私と同行者は荷台にまわり、すでに積んであった工具類や穀物袋、シリア人の6歳の少女ナシムといっしょになった。ナシムの母親は少し英語を話し、娘の名前が「さわやか」「そよ風」のような意味だと教えてくれた。
〈タズウィード〉の建物は簡素なつくりで、大きな納屋に近い。金属板で組んだ桁(けた)に金属板の壁とトタン屋根がボルトで留められている。通路を裸電球が照らすだけで、内部は薄暗い。倉庫では、アラブ首長国連邦からの輸入品、植物性食用油の巨大な缶を積んだ金色に輝く壁をはじめ、積み重ねられた売り物が内装を兼ねていた。小麦や砂糖、塩などの袋でつくった巨大な間仕切りもあちこちにあった。
 飾り気のない武骨な見た目とは裏腹に、この店には目利きの買い物客を喜ばせるさまざまな工夫がある。シリアでは茶を飲む文化が大事にされており、〈タズウィード〉には、100袋1.29ヨルダン・ディナール(約1.80ドル)のインド産や、500グラム2.40ディナールのスリランカ産アルガザリーンの茶葉などがそろっていた。豆類も10種以上から選ぶことができる。甘いハルバの塊や、タヒニというゴマのペーストなど軽食・菓子類も並ぶ。レジのそばには、チキンスープの入った小袋や、ビーフ味のポットヌードルといったちょっとした品が置いてあった。どこの国にも見られるテクニックで、金を払う直前の客の目につくようにして、もうひとつ余分に買わせようとしているのだ。
〈タズウィード〉に来る客の最大の特徴は現金をもっていないことだ。代わりに、クレジット(使える金額の枠)の入った電子カードを使い、精算時に、買った品物の合計額がカードのクレジットから引かれるようになっている。〈タズウィード〉の店主は、元陸軍将校の50歳のヨルダン人、アーテフ・アル・ハルディだ。気さくな彼は私たちについてくるようにと身振りで示し、倉庫の裏へまわり、店名が彫られた大きな噴水を過ぎて、彼の事務所へ行き、日々人口の変わる難民キャンプでいかに食料品の量を調整しているかを見せてくれた。パソコンの画面には、難民の人数を把握しているWFPの立てた月間計画が表示されている。ほかの難民キャンプが近くにできたことで、ザータリの過密問題はかなり緩和され、2016年には難民の数が8万人に減った。画面によると、クレジットが割り当てられる人数は7万3000人、その月の合計で約140万ディナールがカードに送られている。あとでWFPが、店で使われたクレジットに応じた額を〈タズウィード〉と〈セイフウェイ〉に補償するのだ。援助団体からの資金が難民のところでとどまらずに直接、店のオーナーに行く仕組みだ。ザータリはかなり早い段階からキャッシュレス経済だったのだ。
 店主のアーテフによると、毎月、ひとりあたり20ディナール分のクレジットが家族共同で使うカードに送られる。子どもも数に入るので、夫婦と子ども3人の家族の場合、100ディナール分を毎月受け取ることになる。店が営業を始めた当初は、長い列ができ、押し合いやら喧嘩やらがしょっちゅう起こった。新しいクレジットが入るとすぐに、みながいっせいに店に来るので、「まるで、1カ月のあいだ食べていない人たちが食料に飛びつくような騒ぎ」になってしまったそうだ。そこで、WFPに頼んでクレジットの支給日をジグザグにずらしてもらった。パソコンの画面を見ると、11月2日に9人以上の大家族にクレジットが支給され、その2日後に8人家族、その2日後に7人家族と日にちがずれていた。ひどい衝突はなくなり、毎日の客数が均された。「このシステムは人間らしく、品位と節度をもって買い物するのにいいと思うよ。買いたい品をゆっくり選べるしね」
 キャンプの住民はどちらのスーパーマーケットで買うかを選べるが、買い物の自由は電子カードシステムのもつ別の仕組みによって少し制限される。個々のカードは、5つの独立した「財布」に情報を保管している。銀行口座の資金を別の使い途に振り分けるようなものだ。厳しい砂漠の冬に備える時期になると、暖かい衣服を買うためのクレジットとして、ユニセフがひとつの「財布」に20ディナールを送る。この情報を得た店は、納入業者に上着や帽子や手袋の注文を出す。同じカードでも「財布」間でのクレジットの移動はできないので、冬用衣服のクレジットを食料に使ったり、その逆に使ったりすることはできない。
 このトップダウン式の経済設計は、よく考えられているように見える。電子的にクレジットを管理することで、当局は、毎月たとえば食料品がいくら買われるかを把握できるし、クレジットで買える品を具体的に指定することで、援助団体からの意向をそのまま反映させることができる。イスラム圏の国がどこもそうであるようにザータリ難民キャンプでは飲酒の習慣はないが、男性はよくタバコを喫う。援助団体は支援した金がタバコに使われることは喜ばないので、当局は、タバコの購入を禁止するわけではないが、電子カードのシステムを活用し、かなり少ない選択肢しか提供しないようになっている。つまり、援助団体から資金の出ない品目については、店側で品揃えを絞るのだ。「きょうはいいシャンプーが入ったよ。だけど、うちにはタバコはないよ」

非公式のキャッシュフロー

 ラーナ・フーシャンの間に合わせの住居では、家族がマットの上に座り、茶とソーダを飲みながら、キャンプでの暮らしと、シリアに戻れたあとの暮らしについて話していた。突然、窓から手が2本突き出され、ラーナの膝の上に機嫌よく笑う丸々とした赤ちゃんがおろされた。一瞬ののち、同じ服を着た瓜ふたつの赤ちゃんが、ラーナの隣の膝の上へ。みなが歓声をあげた。きょとんとする双子の赤ちゃんの母親サマハーが戸口から入ってきた。サマハーはラーナの家族と昔からの友人で、ザータリに着いてまだ日が浅い。
 ラーナとサマハーは30代半ばで、高い教育を受けている。シリアにいたころ、ラーナは教師を務め、英語の学位をもつサマハーは大学で働いていた。ふたりは私に、難民キャンプでの買い物の不満を教えてくれた。小さな子どものいるふたりは、シャンプーや歯磨き粉、ウェットティッシュが必要だった。だが、必需品に思えるこうした品々は、散髪もそうだが、電子カードシステムでいつも買えるとは限らなかった。しかも、ここのスーパーマーケットで売られている品は、とくに食用油と豆類は、シリアのものより質が悪いという。彼らがいちばん苛立つのは、健康と安全に関して当局が決めた横柄なルールだ。シリア人の食生活にヨーグルトは欠かせない。子どもは毎朝、野菜といっしょに食べるし、夕食時には全員が副菜にレブネ(ヨーグルトからつくったチーズ)を食べる。シリアで暮らしていたころは、近所の女性から手作りのヨーグルトを安く分けてもらっていた。だがザータリでは衛生上の理由から禁止されているのだ。代わりに、当局は粉ミルクと粉ヨーグルトを推奨するが、ラーナたちは質が悪すぎて値段が高すぎると不満だ。
 ザータリの公式経済は、外部機関の管理下で人工的につくられたものなので、需要と供給をマッチさせるという市場の役割を充分に果たせていない。難民の切望する品が棚にないことだけが問題なのではなく、誰も買わない品が棚いっぱいに並んでいることも問題なのだ。たとえば、〈サンシャイン〉や〈サニーシー〉ブランドのマグロ缶、イタリア・コーナーに置かれたマカロニやスパゲティなどのパスタや多種多様なトマトソース類は、もともとシリア人はあまり食べない。さらに的外れなのがコーヒーだ。シリア人がふだん飲むのはアラビアコーヒーで、奮発したいときには彼らが最高だと考えているトルココーヒーを選ぶ。だが店に置いてあるのは、フレンチプレスで淹れるブラジルコーヒーなのだ。こうした品々は、援助団体の表計算シートを埋めるのには役立つだろうが、シリア難民の嗜好や望みを考慮していない。
〈タズウィード〉と〈セイフウェイ〉では、難民に喜ばれる品も売っている。ソラマメの水煮缶や、ソラマメを植物油と香辛料で調理した品は人気があるし、その場で新鮮な肉をカットして売るコーナーもある。ただし難民たちは値付けがおかしいと言う。たとえば、ロールキャベツふうに具を巻くときに使う、マルフーフという大きな緑色の野菜がある。安くて味がよくて、昔からシリア人の食卓には欠かせない品だが、〈タズウィード〉の店頭では大きなマルフーフ2玉で1ディナールする。キャンプの外では1ディナールあれば10玉買えるのに。
 ザータリ難民キャンプと外界との値段の大きな差は、探せばいくらでも見つかる。キャンプ内の粉ミルクは非常に高価で、ニュージーランドから輸入された2.25キログラム入りの大袋が9ディナールで売られている。つまりこれを買えば、電子カード1カ月分のクレジットが半分近くなくなってしまう。デルモンテの小さなトマト缶は半ディナールだが、キャンプの外では地元の農業従事者がもぎ立てのトマトを大きな袋いっぱいに詰めて、その半値で売っている。スーパーマーケットの立地もこの法外な格差を広げている。食用油の缶や、小麦や塩の袋は重いうえに、難民には高齢だったり身体が不自由だったり、子ども連れだったりする人が多い。スーパーマーケットで買い物をするということは、アブー・バクルの非公式の乗り合いタクシーか、密売をしていないときの密売少年に金を払って荷を住居まで運んでもらうということなのだ。
 だからザータリの住民はスーパーマーケットがあまり好きではなく、店主たちの品揃えの工夫が空振りになることも多い。それでも電子カードに入っている当月の食費はよそでは使えないので、住民は〈タズウィード〉か〈セイフウェイ〉に行かざるをえない。人工的な経済システムのなかで生きる難民たちは、ある程度の買い物の自由はあるが、その自由はキャンプを運営する当局が定めた枠のなかのものだった。
 だが、窮すれば通ず。〈タズウィード〉のレジの近くで、奇妙な光景を見た。買い物カゴの中身がどうもふつうではない。缶詰や茶やコーヒー、野菜、肉など、いつもどおりの買い物をしている人もいくらかはいるが、多くの人はカゴのなかに、ひとつの品だけを大量に入れている。値段が高すぎると悪口を言われる粉ミルクもなぜか、棚から飛ぶようになくなっていく。不意にザータリの謎が解けた。密売少年のハレドの儲けの大きさから、露天商の数の多さまで、すべてがカチリとはまった。これは管理された経済ではなく、現金経済なのだ。難民たちは電子カードの別の使い方を見つけていたのだ。
 当局支給の、使い勝手の悪い電子カードを現金に換える方法はシンプルだ。まず、自分の電子カードを使って9ディナールで粉ミルクの大袋を買い、密売少年に現金7ディナールで売る。密売少年はSRADの監視の目を盗んでキャンプの外に出て、車で通りかかったヨルダン人に8ディナールで売る。取引成立で、ヨルダン人は市価9ディナールの粉ミルクを1ディナール安い8ディナールで買えてハッピー、密売少年も1ディナールの儲けが出てハッピーなのだ。難民にとって重要なのは、管理された経済のなかで支給される9ディナール分のクレジットが、キャンプ内で好きに使える現金の7ディナールに化けることだ。しかもザータリには売り手のアイデアにあふれた品々が豊富にそろっている。

起業率42パーセント

 エコノミストは、ある国のビジネス環境の指標として、既存会社の数に占める起業した会社の数、いわゆる「起業率」をよく参照する。ある1年で区切った場合、アメリカのそれは20~25パーセント、とくに起業が盛んな地域では40パーセントにのぼる。ザータリでは、2016年の起業率は42パーセントだった。シリア難民は、もしこのキャンプが国だとしたら、世界の起業しやすい国のトップにランクインするほど、多数のビジネスを起業してきたのだ。ザータリの起業家たちは、気さくで人づき合いがよく、仕事のこつやスキルを分け合っている。
 キャンプでビジネスをする際の第1のルールは、立地が命ということだ。キャンプの奥深くへとつうじる大通りは、UNHCRの正式名称では「市場通り1号」だが、住民は「シャンゼリゼ」と呼ぶ(キャンプを運営する各種支援団体の拠点が近くにあり、そのうちのひとつ、フランスの援助機関による病院の近くからこの大通りが始まっているためだ)。新たにキャンプに着いたばかりのシリア人や勤務時間外の援助団体の係官など、多くの客がひっきりなしに通りを歩いては、丁寧に淹れたコーヒー、散髪、ウェディングドレスのレンタル、揚げだんご (ファラフェル)、肉の直火焼き(シャワルマ)など大量の物品やサービスのなかから好きなものを選んでいる。
 キャンプに入って2、300メートル進むと、ほとんどの人がシャンゼリゼから住居地区のある東へと曲がる。公式には「市場通り2号」のこのにぎやかな通りは「サウジ・ショップ通り」と呼ばれる(ここで営業している店は、サウジアラビアが支援したトレーラーハウスを使っているからだ)。大通りに近い店は衣服やテレビ、DIYの材料、自転車など耐久消費財を売っている。サウジ・ショップ通りをさらに行くと、人の数は減り、あたりはザータリ版「郊外ショッピングセンター」になる。住居の増築に使うような金属の支柱や工具、木材などを売っている。
 ムハンマド・ジェンディがサウジ・ショップ通りにもつ衣料専門店は、ザータリの通り沿いの店のなかでも最大級だ。彼の商売のコツは、消費者のニーズを正確に収集することで、商品を仕入れるまえに友人や近隣の人たちに意見を聞いてまわる。キャンプで暮らすようになって最初のうちは住環境が厳しく、難民は誰もが過酷な冬を乗り切るために暖かい厚手の上着を求めた。だが、住環境が少しずつととのってくると、個性を表現できる衣服へのニーズが高まっていった。ジェンディはいま、男性用のカラフルな上下のトレーニングウェアやジャケット、さまざまなサイズのジーンズを売っている。女性用にも、ショールやハンドバッグ、ハイヒールなどを豊富に取りそろえている。
 サウジ・ショップ通りをもう少し進むと、ザータリ一(いち)の自転車店と聞く店が見えてきた。この店のオーナー、カシーム・アル・アーシュも、店がうまくいっているのは個人の好みに合わせたからだと言う。難民は自動車やオートバイをもつことは許されないので、キャンプ内はたくさんの自転車が走り回っている。そのなかにはオランダから寄付されたハイブランドの500台も含まれている。この寄贈自転車は人気が高く、売れば200ドルになる。ひとつ問題なのは、寄贈自転車はどれもデザインが同一で、色も黒か紺しかなく、見た目で区別できないことだ。
 そこでカシームは、客が好みに合わせて自転車を飾れるように、派手な色のスプレーやベル、刻み目のついたグリップなどを用意した。彼自身の愛車はすこぶる美しい。オートバイに似せた頑丈なつくりで、明るい黄色と赤のストライプ、反射鏡、ハンドルにはスピードメーターとタコメーターが並び、両側面に一対の排気管までついている。うしろに貼ってある大きな「VIP」マークについて尋ねると、彼は言った。「だって私はビジネスマンだからね」
 ザータリへ来た難民はこの場所に順応しなければならず、そのためもあって、故郷にいたときの職業と何かしら関係のある仕事を選ぶことが多い。衣料店主のムハンマド・ジェンディは、シリアでは小さなスーパーマーケットを経営していたそうで、衣料品についてはほとんど知らなかったが、小売業の知識はあった。自転車店主のカシーム・アル・アーシュはもともと機械の技術者で、難民キャンプには自動車がないところに目をつけた。はじめは電気技師として住居に照明をつけたり修繕したりしたのち、自転車業に切り替えた。近隣の起業家ターリク・ダーラも自分のスキルをちがう業種に生かしたひとりだ。故郷で住宅を設計していた彼はいま、キャンプ大手の建具屋を経営しつつ、大工仕事も請け負っている。
 だが商売の風向きが厳しく、ダーラはこの選択をちょっと後悔している。問題は、彼の商品が長持ちしすぎることだ。難民の生活は厳しく、金の余裕はないため、みな家具をとても大事に使う。ひとたびベッドや食器棚などを買えば、もうダーラの出番はなくなるのだ。「何度も買いに来てくれるように工夫すべきだとはわかっているが」。ムハンマド・ジェンディもうなずく。ジェンディは需要が増えるように売る服のスタイルや色を大胆に変えている。
 欧米のMBAコースでは、起業を目指す学生たちが自動車製造に加えて飛行機のエンジンを売り、それらの保守サービスでも稼いでいるロールスロイス社の成功事例や、最近とくに注目されている音楽、衣服、食料などのサブスクリプションモデルについて学んでいるが、シリアの起業家たちはMBAで教わるようなことをすでに、顧客をリピートさせる現場の知恵として実行している。私と話をしながらも、カシームは顧客の古びた自転車のライトをハンダづけで修理していた。ここが自転車ビジネスのおいしいところだ。自転車が1台売れれば、修理に来る将来の客も同時に確保したことになる。
 ザータリの起業家たちはコストに敏感なうえ、事業環境にも恵まれている面がある。というのも、電力は往々にして主電線からの非公式な分岐で手に入るし(つまりは盗電だ)税金も取られないからだ。ザータリは、運命の流れでそうなったとはいえ、結果的に中国のような国が経済振興策として設置する経済特区的なものによく似ている。長期の持続性を求めていない場合、経済拠点を効果的に立ちあげるには、新規参入の壁を低くし、起業コストをできるだけ抑えることが大事なのだ。いったんスタートすれば、ザータリの店主たちは、いかに効率よくビジネスをまわすかを各自で追求する。たとえば、ハサン・アル・アルシのベーカリーが成功した秘訣は規模の経済だという。木の実を包んで焼いた小さなペストリー「クナーファ」の人気が高いと見るや、クナーファとそれに似た品を大量につくり、コストダウンを図る。焼きあがれば、本店で売るだけでなく、従業員がトレイに載せてキャンプ内の離れた場所にある4つの支店へと運んでいく。故郷シリアの味のものはよく売れるので、まもなく彼は5つ目の支店を出す予定だ。このハブ・アンド・スポーク方式は、ウーバーの創業者トラビス・カラニックがいままさに追求している「ダークキッチン」(別名「クラウドキッチン」)モデルそのものだ。



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