【試し読み】『凍てついた痣』(カリン・スローター/ 〈グラント郡〉シリーズ)
凍てついた痣
カリン・スローター
田辺千幸 訳
1
サラ・リントンは、妊娠中の妹がチョコレートをかけたアイスクリームのカップを両手にひとつずつ持ち、〈デイリー・クイーン〉から出てくるのを眺めていた。風が吹いてきて、駐車場を歩いているテッサの紫色のワンピースを膝の上までめくる。テッサは、アイスクリームをこぼすことなくスカートを押さえようと悪戦苦闘していて、彼女が車に近づいてくるにつれ、悪態をつく声も次第に大きくなっていく。
サラは笑いをこらえながら、身を乗り出して車のドアを開けた。「手伝おうか?」
「けっこうよ」テッサは車に体をねじこみながら言った。座席に腰をおろし、サラにアイスクリームを手渡す。「笑うのはやめてくれる?」
テッサがサンダルを脱ぎ捨て、ダッシュボードに素足をのせるのを見て、サラは顔をしかめた。BMW三三〇iを買ってからまだ二週間にもならないのに、テッサはすでに後部座席でグーバーズ(チョコレートでコーディングしたピーナッツの菓子)を溶かし、助手席の敷物にファンタオレンジをこぼした。まもなく妊娠八カ月でなければ、首を絞めていたところだ。
「なんでこんなに長くかかったの?」サラは訊(き)いた。
「おしっこしてた」
「また?」
「〈デイリー・クイーン〉のトイレにいるのが好きだっただけ」テッサは吐き捨てるように言うと、手で顔を仰いだ。「ああもう、暑い」
サラは無言のまま、エアコンを強くした。テッサはホルモンに振り回されているだけだと医者である彼女は承知していたが、それでもテッサを箱詰めにして鍵をかけ、赤ん坊の泣き声が聞こえるまで閉じこめておくのがすべての人にとって最善の策だと思うことがたびたびあった。
「あそこは人が多すぎ」テッサはチョコレートシロップを頬張りながら言った。「まったく、みんな教会かどこかに行っていなくていいわけ?」
「そうね」
「どこもかしこも汚いんだから。駐車場を見てよ」テッサはスプーンを振り回した。「ごみをそのへんに捨てて、だれがそれを拾うのかなんて考えもしない。ごみの妖精が掃除してくれるとでも思ってるのかしら」
サラはもっともだと応じ、携帯電話で話をしていた男性から、十分も列に並んでいながら順番が来たときにまだなにを注文するか決まっていなかった女性まで、〈デイリー・クイーン〉にいたありとあらゆる人にテッサが文句をつけているあいだ、黙ってアイスクリームを食べていた。駐車場を見つめているうちに、テッサの声が遠ざかっていき、待ち受けている忙しい週のことを考えていた。
数年前、ハーツデール児童診療所の共同経営者が引退するにあたり、その権利を買い取る資金を貯(た)めるため、サラは非常勤の郡の検死官として働き始めたのだが、ここ最近は、遺体安置所での仕事のせいで診療所のスケジュールが大変なことになっている。普段は検死官としての仕事にそれほど時間を取られることはないが、先週は裁判に出廷するために丸二日も診療所を留守にしたので、今週はその埋め合わせに残業しなくてはならないだろう。
遺体安置所での仕事は徐々に診療所の時間を侵食していて、数年のうちにはどちらかを選ばなくてはならなくなることがわかっていた。そのときが来たら、選択は難しいものになるだろう。検死官の仕事はやりがいがあったし、アトランタからグラント郡に戻ってきた十三年前にどうしてもやりたかった仕事でもある。法医学が提示する問題に常に向き合っていなければ、脳が退化するような気がしていた。一方で、子供の診察はエネルギーを与えてくれたし、自分の子供が持てないことがわかっていたから子供と触れ合えなくなるのは寂しかった。どちらの仕事を選ぶべきか、サラは日々、揺れていた。一方の仕事で悪いことがあった日は、もうひとつの仕事のほうがよく見えるのだ。
「ほんとにいらつく!」テッサの金切り声にサラは我に返った。「あたしは三十四歳なの。五十歳じゃない。看護師がよくも妊婦にあんなことを言えたもんよね」
サラは妹を見つめた。「なんのこと?」
「あたしが言ったこと聞いてた?」
サラはもっともらしく答えた。「ええ、もちろん聞いていたわよ」
テッサは顔をしかめた。「ジェフリーのことを考えていたんでしょう?」
サラは驚いた。少なくともいまは、元夫のことなどまったく考えていなかった。「いいえ」
「サラ、あたしに嘘(うそ)はつかないでよ。あの看板屋の女が金曜日に署に来ていたのは、町じゅうの人間が見ているんだから」
「彼女は新しいパトカーに字を書いていたの」サラは頬がかっと熱くなるのを感じながら応じた。
テッサは不審そうな表情を浮かべた。「それって、前のときの彼の言い訳だったんじゃなかった?」
サラは答えなかった。仕事から早く帰宅して、地元の看板店の女経営者とベッドにいるジェフリーを見つけた日のことは、いまもありありと覚えている。サラがまたジェフリーとデートしていることにリントン家の人間全員が驚き、いらだっていて、だいたいにおいてサラも同じ気持ちだった。彼とはきっぱりと別れられない気がしていた。ジェフリーのこととなると、分別がどこかに消えてしまう。
テッサが忠告した。「彼には気をつけなきゃだめ。居心地よくさせないことだね」
「わたしはばかじゃないから」
「姉さんは時々、ばかになるもん」
「あら、あなたもね」言葉にする前からばかみたいだと思いながら、サラは言い返した。
エアコンの機械音だけが車内に響いている。やがてテッサが口を開いた。「〝ばかって言うほうがばかなのよ〟って言わなくちゃ」
サラは笑ってごまかしたかったけれど、いらだちが勝った。「テッシー、あなたには関係ないことよ」
テッサの大きな笑い声が耳障りだった。「姉さん、そんな台詞(せりふ)が役に立ったことなんてないから。あの売女(ばいた)がトラックを降りるより早く、マーラ・シムズは受話器を握っているって」
「そんな言い方はやめて」
テッサはまたスプーンを振り回した。「それじゃあ姉さんは彼女をなんて呼んでいるの? 尻軽女?」
「なんとも呼んでない」サラは本気で言った。「変な呼び方をしないで」
「へえ、彼女にはふさわしい呼び方があると思うけどね」
「浮気をしたのはジェフリーよ。彼女はただ機に乗じただけ」
「あのね、あたしは何度も機に乗じたことがあるけど、奥さんのいる人を追いかけたことは一度もないよ」
テッサが口を閉じてくれればいいと思いながら、サラは目を閉じた。この話はしたくない。
テッサはさらに言った。「彼女は太ったって、マーラがペニー・ブロックに言ったんだって」
「どうしてあなたがペニー・ブロックと話をしたわけ?」
「彼女のキッチンの排水管が詰まったの」テッサはスプーンをなめながら答えた。大きくなった腹部が邪魔で狭い空間に入れなくなったので、家業である配管工事の仕事を父とともにするのはあきらめたものの、詰まった排水管を直すくらいならいまのテッサにもできる。
テッサが言った。「家みたいに大きくなってるって、ペニーが言ってた」
そんなつもりはなかったのに、勝利感が湧き起こってくるのをどうしようもなかった。だがすぐに、ほかの女性の腰やお尻が大きくなっていくことを喜んだ自分がうしろめたくなった。看板店の女はそれでなくてもいささか脇腹に肉がつきすぎている。
テッサが言った。「姉さん、笑ってる」
そのとおりだった。口を閉じておこうとして、頬が痛くなってきた。「もううんざり」
「いつからうんざりしてるの?」
「自分が……」サラの言葉が尻すぼみに途切れた。「自分が底抜けのばかだって感じ始めてから」
「自分は自分よ、ポパイの言いそうなことだけどね」テッサはプラスチックのスプーンで、紙のカップの内側を大仰にこすっている。今日という日が悪い方向に向かいだしたと言わんばかりに、深々とため息をついた。「姉さんの残りをくれない?」
「いや」
「あたしは妊娠してるのよ!」
「わたしのせいじゃないし」
テッサはまたカップの中身をかき集めている。さらにいらだちを募らせようというのか、足の裏で木目調のダッシュボードをこすり始めた。サラは、姉としての罪悪感がハンマーのように自分を打つのを感じていた。アイスクリームを食べることでそれに抗(あらが)おうとしたが、喉を通らなかった。
「ほら、まったく大きな赤ちゃんなんだから」サラは自分のカップをテッサに差し出した。
「ありがとう」テッサはかわいらしく礼を言った。「あとでまた買わない? でもそのときは姉さんが買いに行ってね? 豚だって思われたくないし、それに――」テッサは目をぱちぱちさせながら、愛らしく微笑(ほほえ)んだ。「カウンターの向こうにいる子を怒らせちゃったかもしれないの」
「いったいなにをしたら、怒らせたりできるの?」
テッサは無邪気そうにまばたきした。「世の中には傷つきやすい人がいるのよ」
サラは車を降りる理由ができたことにほっとしながら、ドアを開けた。八十センチほど車から離れたところで、テッサが窓を開けた。
「わかってる」サラは言った。「チョコレートを追加ね」
「そうなんだけど、ちょっと待って」テッサは携帯電話の横に垂れたアイスクリームをなめてから、窓の外に突き出した。「ジェフリーから」
サラは砂利の土手に車を進め、石が車の脇に当たる音を聞いて顔をしかめながら、パトカーとジェフリーの車のあいだに止めた。ふたり乗りのオープンカーをより大きな車に買い替えた理由はただひとつ、チャイルドシートを取りつけるためだ。テッサと自然の力のせいで、赤ん坊が生まれるより先にBMWは傷だらけになっているだろう。
「ここ?」テッサが尋ねた。
「そうよ」サラはハンドブレーキをグイッと引くと、目の前の干上がった河川敷を眺めた。一九九〇年半ば以降、ジョージア州は渇水に悩まされていて、かつては太った怠惰な蛇のように森のなかをのたくっていた大きな川は、ちょろちょろと水が流れるだけの細流になってしまっている。残っているのは乾いてひび割れた川床だけで、かつては人々がそこで釣りをしていたことをサラは覚えていたが、頭上十メートルのところにかかるコンクリートの橋がいまは場違いに見えた。
「あれって死体なの?」テッサは半円を作っている男たちを指さした。
「多分ね」サラはそう答えながら、あそこは大学の敷地なのだろうかと考えていた。グラント郡は、ハーツデール、マディソン、アヴォンデールの三つの市から成っている。グラント工科大学があるハーツデールは郡にとって特に大切な場所だったから、市境の内側で起きた犯罪は最悪だと考えられていた。大学の敷地内となれば悪夢だ。
「なにがあったの?」これまでサラのこちらの仕事に興味を持ったことのないテッサだが、その口調には熱がこもっていた。
「それを見つけるのがわたしの仕事」サラは聴診器が入っているグローブボックスに手を伸ばした。隙間があまりなかったので、テッサのお腹(なか)の上に手をのせる格好になった。サラはしばしそのままでいた。
「まあ、姉さん」テッサがサラの手をつかんで言った。「姉さんのこと、すごく愛してる」
テッサが不意に涙ぐんだのでサラは笑ったが、どういうわけか自分の目頭も熱くなっているのを感じた。「わたしも愛しているわよ、テッシー」サラは妹の手を握り締めた。「車のなかにいてね。それほど長くはかからないから」
車を降りてドアを閉めたサラのところにジェフリーが近づいてきた。襟足のあたりがまだ少し濡(ぬ)れている黒い髪は、きれいにうしろに撫(な)でつけられている。アイロンがけしてある完璧な仕立てのチャコールグレーのスーツの胸ポケットには、金の警官バッジが押しこまれていた。
サラは使い古したスウェットパンツと、レーガン政権時代に白であることをあきらめたTシャツという格好だった。足元は、できるだけ労力をかけずに履いたり脱いだりできるように紐(ひも)を緩く結んだスニーカーを素足に履いている。
「めかしこんでくることはなかったんだぞ」ジェフリーは冗談を言ったが、その声が緊張していることにサラは気づいた。
「どういうことなの?」
「よくわからないんだが、ちょっと疑わしいところが――」ジェフリーは言葉を切り、車に視線を向けた。「テスを連れてきたのか?」
「たまたまあの子が一緒にいて、来たがったものだから……」いまのサラの人生の目標はテッサを満足させておくこと――少なくとも泣き言を言わせないこと――以外に理由を説明できなかったから、サラはそのあとの言葉を呑(の)みこんだ。
ジェフリーは理解したようだ。「彼女と言い争いをしたくなかったわけか」
「車にいるって約束してくれたから」そう言ったとたんに、背後で車のドアが閉まる音がした。両手を腰に当てて振り返ったが、テッサはすでに彼女をいなすように手を振っていた。
「行かないと」テッサは遠くの並木を指さした。
ジェフリーが訊いた。「歩いて家に帰るのか?」
「トイレに行きたいのよ」サラは森に向かって丘をのぼっていくテッサを眺めながら答えた。
ふたりは、籠を抱えているかのようにお腹の下で両手を組み、急斜面をのぼるテッサを見つめた。「彼女があの丘を転がっておりてくるのを見ておれが笑ったら、怒るかい?」
サラは答える代わりに、彼と一緒になって笑った。
「テッサは大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。少し運動したほうがいいんだわ」
「本当に?」ジェフリーは心配そうに繰り返した。
「大丈夫」サラは、ジェフリーがこれまで一度も妊婦の近くに一定時間以上いたことがないのを知っていた。彼はおそらく、丘の頂上の林に行き着く前にテッサが産気づくことを恐れているのだろう。妊婦がみんなそれくらい運がいいといいのだが。
サラは現場のほうへと歩きだしたが、ジェフリーがついてこないことに気づいて足を止めた。なにが始まるのかはわかっていたから、心の準備をしながら振り返った。
「今朝はずいぶん早く帰ったんだな」
「あなたは睡眠が必要だと思ったの」サラはジェフリーのほうに戻りながら、上着のポケットからラテックスの手袋を取り出した。「なにが疑わしいの?」
「おれはそんなに疲れていなかった」もしサラが今朝あのまま残っていたら、同じような言い方をしたに違いない思わせぶりな口調だった。
サラは手袋をいじりながら、言うべき言葉を探した。「犬を外に出さなきゃいけなかったの」
「今度から連れてくるといい」
サラはパトカーに鋭い視線を向けた。「あれって新しいの?」興味を引かれたふりをする。グラント郡は狭い町だ。サラは、警察署の前に止められる前から新しいパトカーのことを耳にしていた。
「数日前に来た」
「レタリングが素敵ね」サラは何気ない口調を崩さない。
「そうなんだ」彼が最近身に着けた、ほかになにを言えばいいのかわからないときに口にするいらつく台詞だった。
サラは彼にやり過ごさせるつもりはなかった。「彼女はとてもいい仕事をしたわね」
なにも隠すことなどないと言わんばかりに、ジェフリーの視線は揺るがなかった。浮気などしていないと最後に断言したときの彼と同じ表情でなかったなら、感心したことだろう。
サラはこわばった笑みを浮かべて、繰り返した。「なにが疑わしいの?」
ジェフリーは怒ったように短く息を吐いた。「すぐにわかる」そう言って川のほうへと歩きだした。
サラはいつもの速さで歩いていたが、ジェフリーは彼女が追いつくくらいに歩調を緩めた。彼が怒っているのはわかっていたが、サラは彼の気分に振り回されるつもりはなかった。
サラは尋ねた。「学生?」
「おそらく」ジェフリーの口調はまだぶっきらぼうだ。「ポケットを調べた。身分証明書のたぐいはなかったが、川のこちら側は大学の敷地だ」
「素晴らしいわね」大学保安部の新しい責任者であるチャック・ゲインズがやってきて、彼らがしていることをあれこれと尋ねだすまで、あとどれくらいの時間があるだろうとサラは考えた。邪魔だと言ってチャックを追い払うのは簡単だが、大学を満足させておくことが、グラント郡警察署長であるジェフリーにとってもっとも重要な仕事のひとつだった。チャックはそれをだれよりもよくわかっていて、可能なかぎり自分の優位な立場を活用した。
サラは、岩に腰かけているとても魅力的な金髪女性に気づいた。隣には、遠い昔にサラの患者だった若いパトロール警察官のブラッド・スティーヴンスがいた。
「エレン・シェイファー」ジェフリーが言った。「森に向かってジョギングしていた。橋を渡ったところで、死体に気づいた」
「それはいつ?」
「一時間ほど前だ。携帯電話で通報した」
「携帯電話を持ってジョギングするの?」どうして驚いているのだろうと思いながら、サラは訊いた。退屈するのがいやで、近頃ではバスルームに行くときも携帯電話を手放せない人間が多いのだ。
「きみが死体を調べたあとで、もう一度彼女から話が聞きたい。さっきはひどく動揺していたんだ。ブラッドが彼女を落ち着かせることができるかもしれない」
「彼女は被害者を知っていたの?」
「そうは見えなかった。多分、間違ったときに間違った場所にいただけだと思う」
たいていの目撃者は同じような不運な目に遭っている。ほんの一瞬見たなにかに、その後死ぬまでつきまとわれるのだ。川床の中央にある死体を見ただけなら、彼女はそれほどの影響を受けないだろうとサラは思った。
「こっちだ」土手に近づくと、ジェフリーはサラの腕を取った。川に向かってくだりの傾斜になっている。地面には雨で削られた道ができていたが、ぬかるんでいて穴だらけだ。
このあたりの川床の幅は十二メートルはありそうだとサラは考えたが、あとでジェフリーがだれかに測らせるだろう。土ぼこりをあげながら死体を目指して歩いていくふたりの足の下の地面は乾いていて、サラはスニーカー越しに砂粒や粘土を感じることができた。十二年前であれば、すでに首まで水につかっていたところだ。
サラは真ん中あたりで足を止め、橋を見あげた。低い手すりのついたシンプルなコンクリートの橋だ。路面から数十センチ下に出っ張りがあって、そこと手すりのあいだにだれかが黒のスプレー塗料で〝死ね くろんぼ〟という文字と大きなかぎ十字の落書きをしていた。
サラは口のなかが苦くなるのを感じた。嘲るように言う。「なに、あれ」
「まったくだ」ジェフリーもサラと同じくらいむかついている。「キャンパスじゅうにあるよ」
「いつからなの?」落書きは褪(あ)せているように見えたから、数週間前に書かれたものだろう。
「わかるもんか。大学はあんなものがあることすら認めていない」
「認めれば、なにかしなくてはならなくなるからね」サラは指摘し、振り返ってテッサを捜した。「だれが書いたのか、わかっているの?」
「学生だ」再び歩きだしながら、ジェフリーは皮肉っぽく言った。「南部で田舎者や貧乏白人をからかうのは愉快だと考えている、ばかな北部人(ヤンキー)たちだろうな」
「素人の人種差別主義者は大嫌い」サラはそう言ったあと、笑顔を作ってマット・ホーガンとフランク・ウォレスに近づいた。
「やあ、サラ」マットは片手にインスタントカメラを、もう一方の手にそれで写した数枚の写真を持っていた。
ジェフリーの副官であるフランクがサラに言った。「写真を撮り終えたところだ」
「ありがとう」サラはピシッと音をたててラテックスの手袋をはめた。
被害者は橋の真下にうつ伏せに倒れていた。両腕は横に広げられ、ズボンと下着は足首のあたりで丸まっている。その体格と、背中と臀部(でんぶ)には毛がなくて滑らかなところから判断するに、おそらく二十代の若い男性だと思われた。金色の髪は襟までの長さがあり、後頭部で左右に分かれている。血が飛び散っておらず、肛門(こうもん)からなにかの組織が飛び出していなければ、眠っていると思われたかもしれない。
「なるほどね」サラは、ジェフリーの懸念を理解した。
形式的ではあったが、サラは膝をついて死んだ若者の背中に聴診器を当てた。手の下で肋骨(ろつ こつ)が動くのが感じられる。鼓動は聞こえない。
聴診器を首にかけて死体を調べ、わかったことを並べていく。「強制された肛門性交の場合に生じるような傷は見られない。打撲や裂傷はない」彼の両手と手首に視線を移す。左腕は妙な具合に曲げられていて、前腕にピンク色の醜い傷痕が見えた。その形状からして、四カ月から六カ月前にできた傷のようだ。「縛られてはいなかった」
ほかに怪我(けが)をしていないかどうかを確かめるため、サラは若者が着ている濃い緑色のTシャツをまくりあげた。脊椎のいちばん下に長いひっかき傷がある。皮膚がめくれているが、出血するほどではなかった。
「なんだろう?」ジェフリーが訊いた。
サラはなにも答えなかったが、そのひっかき傷はどこか妙に感じられた。
横に動かそうとして右脚を持ちあげたところで、足首から先がついてきていないことに気づき、サラの手が止まった。ズボンの裾から手を入れて足首の骨から脛骨(けいこつ)、腓骨(ひこつ)と探っていく。オートミールが詰まった風船を握っているようだった。反対の脚も確認したが、同じ状態だ。ただ骨が折れているだけでなく、粉砕されている。
車のドアが閉まる音が数回聞こえ、ジェフリーが小声で「くそっ」とつぶやいた。
数秒後、チャック・ゲインズが斜面に足を取られないようにしながら土手をおりてきた。
黄褐色の警備員の制服は胸のあたりがきつそうだ。サラは小学校の頃からチャックを知っていて、当時、彼女の身長から成績のよさ、赤い髪まで、あらゆることを情け容赦なくからかっていた彼を校庭で見かけたときと同じように、いまもまた不快感を覚えていた。
チャックの隣には、その華奢(きゃしゃ)な体格には少なくとも二サイズは大きい同じ制服を着たレナ・アダムズがいた。ズボンがずり落ちないようにベルトで止め、アビエーターのサングラスをかけ、つばの広い野球帽に髪をたくしこんだその姿は、かっこつけて父親の服を借りてきた幼い男の子のようだ。土手で足を踏み外し、ずるずると下まで尻で滑り落ちてきたものだから、なおさらそう見えた。
助け起こそうとしたフランクを、ジェフリーが厳しい表情で制した。レナは七カ月前まで警察官――彼らの仲間――だった。ジェフリーは辞めたレナを許しておらず、自分の部下たちが彼女を許すことも認めないと決めていた。
「くそ」チャックの最後の数歩は駆け足になった。涼しい日だったにもかかわらず、唇の上にうっすらと汗をかいていたし、土手をおりてきたせいで顔は赤らんでいる。よく筋肉のついた体つきだが、なぜか不健康そうな印象を受けた。いつも汗をかいていて、薄い脂肪の層のせいで皮膚が膨張しているように見えた。顔は月のように丸く、目は少しばかり大きすぎる。それがステロイドのせいなのか、それとも下手なウェイト・トレーニングのせいなのかはわからなかったが、いまにも心臓発作を起こしそうだとサラは思った。
チャックは「やあ、赤毛」と言いながら、サラに向かっていやらしくウィンクをしてから、ぽってりした手をジェフリーに差し出した。「元気かい、署長?」
「チャック」ジェフリーは渋々彼の手を握った。レナに一瞥(いちべつ)をくれてから、被害者に視線を戻す。「一時間ほど前に通報があった。サラはたったいま来たところだ」
サラは言った。「こんにちは、レナ」
レナは小さくうなずいたが、濃いサングラスの下の表情は読み取れなかった。ふたりのそのやりとりをジェフリーが面白く思っていないことは明らかで、ほかにだれもいなかったなら、彼がすべきことをサラが教えてやっていただろう。
チャックは自分の権限を知らしめるかのように、両手を打ち合わせた。「どういうことなんだ、ドク?」
「おそらく自殺」サラは、〝ドク〟と呼ぶのはやめてくれといったい何度チャックに頼んだだろうと思いながら言った。〝赤毛〟と呼ぶのはやめてほしいと頼んだ回数には及ばないだろうが。
「そうなのか?」チャックは首を伸ばして死体を眺めた。「楽しんでいたように見えないか?」死体の下半身を示す。「おれにはそう見えるぞ」
サラは無言でしゃがみこんだ。どうやってこの男に耐えてきたのだろうと思いながら、もう一度レナに目を向ける。レナは一年前のいま頃妹を亡くし、その後捜査中に恐ろしい目に遭った。レナ・アダムズを嫌いな理由ならいくらでも思いつくが、だれであれ、チャック・ゲインズと一緒に働くのは気の毒だ。
チャックは、だれも自分に注意を払っていないことに気づいたらしい。もう一度手を打つと、命令をくだした。「アダムズ、周辺を調べろ。なにか見つかるかもしれない」
驚いたことにレナは黙って従い、下流へと歩きだした。
サラは手で陽射しを遮りながら、橋を見あげた。「フランク、あの上に行って、書き置きかなにかを探してもらえる?」
「書き置き?」チャックが繰り返した。
サラはジェフリーに向かって言った。「彼は橋から飛び降りたんだと思う。そして足から着地した。靴底の模様が泥に残っているのがわかるでしょう? その衝撃でズボンがずり落ちて、脚の骨のほとんどが折れた」サラはジーンズのうしろのタグを見てサイズを確かめた。「ぶかぶかだし、あの高さから落ちたときの衝撃はかなりのものよ。出血は腸がちぎれたせいだと思う。直腸の一部が裏返しになって肛門から押し出されているのが見えるでしょう?」
チャックが低く口笛を吹いたので、サラはなにかを考える間もなく彼に視線を向けた。橋の下の人種差別的な言葉を読む彼の唇が動いている。彼は露骨な笑みを浮かべて、サラに訊いた。「妹は元気か?」
ジェフリーの顎に力が入り、ぐっと歯を噛(か)みしめたのがわかった。テッサの子供の父親であるデヴォン・ロックウッドは黒人だ。
「元気よ、チャック」サラは挑発に乗るまいとした。「どうしてそんなことを訊くの?」
チャックは、自分が橋を見ていることをサラに気づかせようとして、再び笑った。
高校生の頃から彼が少しも変わっていないことに愕然(がくぜん)としながら、サラはチャックを見つめ続けた。
「腕の傷だが」ジェフリーが口をはさんだ。「最近のもののようだ」
サラは無理やり被害者の腕に視線を移したが、怒りで喉が詰まったようになっていた。「ええ」
「ええ?」ジェフリーは明らかに別のことを尋ねている。
「ええ」サラはその言葉で、自分のことは自分で始末をつけると彼に伝えた。気持ちを落ち着けるように大きく息を吸ってから答える。「おそらく意図的に橈骨(とうこつ)動脈を切ったんだと思う。病院に運ばれたはず」
チャックは突然、レナの動きに興味を抱いたようだ。「アダムズ!」声を張りあげる。「あっちを調べろ」レナが向かっていたのとは反対方向の橋の向こう側を指さした。
サラは死んだ若者の腰に両手を当て、ジェフリーに頼んだ。「ひっくり返すのを手伝ってもらえる?」
ジェフリーが手袋をつけるのを待つあいだ、サラは森のほうに視線を向け、テッサの姿を捜した。見当たらない。今回ばかりは、テッサが車に戻っていたことに感謝した。
「いいぞ」ジェフリーは若者の肩に手を当てた。
サラが合図を出し、ふたりはできるかぎりそっと死体を仰向けにした。
「ファック」チャックの声が三オクターブほど高くなった。まるで死体がいきなり燃えあがったかのように、あわててあとずさる。ジェフリーは恐怖そのものの表情を浮かべ、さっと立ちあがった。マットはえずくような音をたてながら、背を向けた。
「なるほどね」それ以外に言葉が見つからず、サラはつぶやいた。
被害者のペニスの裏側は皮がほとんどはがれてしまっている。十センチほどの皮膚が亀頭からだらりと垂れさがり、ペニスにはダンベル型のピアスがジグザグ状に並んでいた。
サラは骨盤近くにしゃがみこみ、損傷部分を調べた。皮膚を伸ばして正しい位置に戻し、組織がはがれてしまったぎざぎざの断面を確認していると、だれかが歯と歯のあいだから息を吸いこむ音が聞こえた。
最初に口を開いたのはジェフリーだった。「いったいそいつはなんだ?」
「ボディピアスよ。フレナム・ラダーって呼ばれている」サラは金属のスタッドを示した。「これはかなりの重さがある。衝撃で皮膚が引っ張られて、靴下みたいに脱げたのね」
「ファック」チャックは損傷部分をまじまじと見つめながら再び言った。
ジェフリーは信じられないような顔をしている。「自分でやったんだろうか?」
サラは肩をすくめた。性器ピアスがグラント郡で当たり前のことだとは言えないが、ピアスが原因の感染症は診療所でそれなりに診ていたから、この手のことが行われているのは承知していた。
「なんて、こった」マットは背を向けたまま、泥を蹴った。
サラは若者の鼻につけられた細い金の輪のピアスを示した。「ここの皮膚は厚いから、はずれなかったのね。眉は……」サラは地面を見まわし、死体が落ちたあたりの粘土に刺さっていた金の輪を見つけた。「落下の衝撃で留め金がはずれたんでしょう」
ジェフリーは胸を指さした。「あれは?」
ふたつに裂けた右の乳首から五センチほど下まで、細い血の筋ができている。サラはおそらくここだろうと考え、ジーンズのウエスト部分を引っ張りおろした。ファスナーとジョージアナボクサーの下着のあいだに、三つめの金の輪が引っかかっていた。「乳首ピアス」サラは輪をつまみあげた。「これを入れる袋はある?」
ジェフリーは紙製の小さな証拠保全袋を取り出して開き、嫌悪感も露(あら)わに尋ねた。「これだけか?」
「おそらく違う」
サラは親指と人差し指を若者の顎に当て、力を入れて口を開けさせた。切らないように注意しながら、指を慎重に口のなかへと差しこんでいく。
「舌にもピアスがあったはず」舌に触れながらジェフリーに告げる。「先がふたつに割れている。解剖台にのせればわかるけれど、舌のピアスは喉の奥でしょうね」
サラは手袋をはずしてしゃがみ、ピアスをしている箇所ではなく彼の全身を眺めた。鼻から滴ったものと口のまわりに溜(た)まった血の跡がなければ、見た目は普通の若者だ。滑らかな顎に赤みがかった金色のヤギひげを蓄えていて、細長いもみあげは輪郭に沿って伸びる多色の毛糸のようだ。
もっとよく見ようとして一歩前に出たチャックの口が、あんぐりと開いた。「くそっ。こいつは――くそっ……」彼は自分の頭を叩(たた)いた。「名前は思い出せない。母親が大学で働いている」
それを聞いたジェフリーが肩を落としたのがわかった。これで事態は十倍ほどもややこしくなった。
橋の上からフランクが叫んだ。「書き置きがあった」
探してほしいとフランクに頼んだのは自分だったにもかかわらず、それを聞いてサラは驚いた。これまで自殺はたくさん見てきたが、この現場はなにかがおかしい感じがする。
心のなかを見通しているかのように、ジェフリーはサラをじっと見つめていた。「飛び降りたとやっぱり考えている?」
サラはその質問をはぐらかした。「そう見えるでしょう?」
ジェフリーは一拍の間を置いてから告げた。「周辺を徹底的に調べよう」
チャックが手伝おうと声をあげたが、ジェフリーはさらりとそれをいなした。「チャック、きみはマットとここに残って、若者の顔の写真を撮ってくれないか? 死体を発見した女性に見せたい」
「えーと……」チャックは断る理由を探しているようだ。ここに残りたくないのではなく、ジェフリーから命令されるのがいやなのだ。
ジェフリーはようやくこちらに向き直ったマットに合図を送った。「写真を撮れ」
マットはぎくしゃくとうなずいたが、被害者を見ることなくどうやって写真を撮るのだろうとサラは考えた。一方のチャックは死体から目を離すことができずにいる。死体を見るのはおそらくこれが初めてなのだろう。彼の人となりはよくわかっていたから、サラはその態度に驚きはしなかった。その顔に浮かんだ様々な表情は、映画を観(み)ていた人間のもののようだ。
「ほら」ジェフリーが手を貸してサラを立たせた。
「カルロスにはもう連絡してある」遺体安置所の助手のことだ。「すぐに来るはずよ。解剖すれば、もっと詳しいことがわかる」
「そうか」ジェフリーはマットに告げた。「顔がはっきりわかるようにするんだ。フランクがおりてきたら、車まで来るように言ってくれ」
マットはまだあまり口がきけないのか、敬礼しただけだった。
サラはポケットに聴診器を押しこむと、ジェフリーと並んで川床を歩きだした。テッサがいることを確かめたくて、車を見あげた。日光が斜めに当たっているせいで、フロントガラスはきらきら光る鏡のようになっている。
チャックに声が聞こえない距離まで離れたところで、ジェフリーが訊いた。「なにを黙っていた?」
自分が感じたことをどう言葉にすればいいのかわからず、サラはためらった。「なにかおかしい気がするの」
「チャックのせいじゃないのか」
「違う。チャックはいやな奴(やつ)よ。三十年前から知っている」
ジェフリーは笑った。「それなら、なんだ?」
サラは地面に横たわる若者を振り返り、それからもう一度橋を見あげた。「背中のひっかき傷。どうしてあんなところについたの?」
「橋の手すりでこすったとか?」
「どうやって? 手すりはそんなに高くない。おそらく彼はあそこに座って、足を外側に出した」
「手すりの下に出っ張りがある」ジェフリーが指摘した。「落ちるときに、あそこにこすったのかもしれない」
サラは橋を見つめたまま、その状況を想像しようとした。「ばかみたいに聞こえるのはわかっているけれど、もしわたしが飛び降りるとしたら、途中でどこかにぶつかったりしたくない。手すりの上に立って、出っ張りから遠ざかるようにジャンプするわ。なんにもぶつからないように」
「出っ張りまでじりじりとおりたのかもしれない。そのときに、橋のどこかで背中をこすったのかも」
「皮膚を探してみて」サラは言ったが、どういうわけかなにも見つからないことがわかっていた。
「足から着地したというのはどうなんだ?」
「あなたが思うほど珍しくはないのよ」
「彼は目的があってしたんだと思うか?」
「飛び降りたこと?」
「あれだ」ジェフリーは自分の下半身を示した。
「ピアス? しばらく前にしたみたいね。きれいに治っているから」
ジェフリーは顔をしかめた。「なんだってあんなことをするんだろう?」
「性感が高まると言われている」
ジェフリーは懐疑的だった。「男の?」
「女もね」サラは答えたものの、考えただけで身震いした。
サラはテッサの姿が見えることを祈りながら、もう一度車に目を向けた。そのあたりの様子はよく見える。ブラッド・スティーヴンスと発見者以外、そこにはだれもいなかった。
ジェフリーが言った。「テッサはどこだ?」
「わかるはずないでしょう」サラはいらだって答えた。テッサを連れてくるのではなく、家に連れて帰るべきだったのだ。
「ブラッド」ジェフリーは車に向かって歩きながら、呼びかけた。「テッサは丘から戻ってきたか?」
「いいえ、サー」ブラッドが答えた。
サラは丸くなって寝ているテッサがそこにいることを期待しながら、後部座席をのぞきこんだ。車は空だった。
ジェフリーが言った。「サラ?」
「大丈夫」テッサはおそらく一度戻ってきたけれど、また丘をあがらなくてはならなくなったのだろうとサラは思った。この数週間、赤ん坊はテッサの膀胱(ぼうこう)の上でタップダンスを踊っている。
ジェフリーが提案した。「おれが捜しに行こうか?」
「きっとどこかに座りこんで、休憩しているんだと思う」
「本当に?」
サラは手を振って彼を黙らせると、テッサと同じ道をたどって丘をのぼり始めた。大学の学生は、町の一方の端から端まで通じている森のなかの道をよくジョギングしている。東に一・五キロほど行けば、児童診療所がある。西に進めば高速道路で、北に行けば町の反対側、リントン家の近くに出る。テッサがだれにも告げないまま歩いて家に帰っていたら、殺してやるとサラは心に決めた。
勾配は思っていたよりも急だったので、サラは丘をのぼりきったところで足を止めて呼吸を整えた。あたりには落ち葉のようにごみやビールの空き缶が散乱している。駐車スペースを振り返ると、ジェフリーが死体を発見した女性に話を聞いていた。ブラッド・スティーヴンスが手を振ったのでサラも手を振り返しながら、丘をのぼったわたしが息を切らしたのだから、テッサはぜいぜいあえいだはずだと考えた。再び丘をおりる前に息を整える必要があっただろう。野生の動物に出くわしたかもしれない。陣痛が始まったのかもしれない。そう考えたサラは森のなかの踏み慣らされた道を歩き始めた。数メートル進んだところであたりを見まわし、妹の存在を示すものを探す。
「テス?」怒るまいとしながら妹の名を呼ぶ。おそらくテスは歩きまわっているうちに、時間が過ぎるのを忘れてしまったのだろう。数カ月前、手首がむくんで金属製のバンドができなくなってから、彼女は腕時計をつけるのをやめている。
サラは森の奥深くへと進み、さらに声を張りあげた。「テッサ?」
天気のいい日だったにもかかわらず、からませて遊んでいる子供の指のような高い木の枝が光をほとんど遮断していたので、森のなかは暗い。それでもサラは、そうすることでもっとよく見えるとでもいうように、手で目の上にひさしを作った。
「テス?」サラはもう一度呼びかけ、二十数えるまで待った。
返事はない。
風が頭上の木の葉をざわめかせ、サラはうなじがぞわりとするのを感じた。むき出しの腕をこすりながら、さらに数歩進んだ。五メートルほど先で、道が枝分かれしていた。どちらに行くべきだろう? 両方ともよく使われているようだったし、土の上にテニスシューズの靴跡が重なり合って残されているのがわかった。膝をついて、うねのあるZ字形の靴跡のなかにテッサのサンダルの平坦(へいたん)な跡はないかと目を凝らしていると、背後で物音がした。
サラはぎくりとした。「テス?」だがそれはアライグマで、サラが驚いたのと同じくらい、サラを見て驚いていた。数秒間見つめ合ったあと、アライグマは森の奥へと逃げこんでいった。
サラは立ちあがり、両手についた土を払った。分かれ道を右へと歩きだしたものの、すぐに枝分かれしているところまで戻り、どちらの道を選んだのかを示す矢印を靴のかかとで土の上に描いた。描き終えたとたんにばかみたいな気持ちになったが、無駄な用心だったとテッサを車に乗せて帰るときに笑えばいい。
「テス?」さらに進みながら、低く伸びている枝から小枝を折った。「テス?」再び呼びかけ、足を止めて待ったが、やはり返事はない。
前方で小道がわずかにカーブし、再び枝分かれしているのが見えた。ジェフリーを呼びに行こうかどうしようかと迷ったが、やめた。そんなことを考えた自分にあきれながらも、心の奥底では恐怖を抑えつけることができずにいた。
サラはテッサの名前を呼びながら進んだ。分かれ道までやってくると、また目の上に手でひさしを作って、両方を眺めた。小道はカーブを描きながら双方向に遠ざかっていて、右に伸びる道は二十五メートルほど先で鋭く曲がっている。このあたりの森はいっそう暗く、なにかを見るためには目を凝らす必要があった。左の道に印をつけようとしたところで、目に映った映像が脳に届くまで時間がかかったみたいに、頭のなかでなにかが点滅した。右の道に視線を向けると、急カーブの直前に妙な形の石が見えた。サラは数歩そちらに進み、その石がテッサのサンダルであることに気づくと、駆けだした。
「テッサ!」拾いあげたサンダルを胸に押し当て、半狂乱で妹の姿を捜す。めまいがして、サンダルを取り落とした。ずっと抑えつけていた不安が一気に満開の恐怖となって襲ってきて、喉が締めつけられた。前方の開けた空間に、片手をお腹に当て、もう一方の手を横に伸ばした格好でテッサが仰向けに倒れている。頭は妙な角度に曲がり、唇はわずかに開き、目は閉じていた。
「嘘――」サラは妹に駆け寄った。
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続きは本書でお楽しみください。