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【試し読み】『忘れられた少女 上・下』カリン・スローター〈著〉

『忘れられた少女 上・下』
カリン・スローター [著]
田辺千幸 [訳]

ゴミ置き場で見つかった全裸の少女。
学園一の優等生に、何が起きたのか!?
40年近く封印されてきた残酷な秘密が、新たな悲劇を呼ぶ。
新米連邦保安官補アンドレア・オリヴァー、最初の事件。
『彼女のかけら』関連作!

一九八二年四月十七日

 エミリー・ヴォーンは鏡に向かって顔をしかめた。ドレスは店で見たとおりに美しい。問題は自分の体だ。エミリーはその場でくるりと回り、さらにもう一度回って、岸に打ちあげられた死にかけの鯨のように見えない角度を探した。

 部屋の隅から祖母の声がした。「ローズ、あなたはクッキーを食べないようにしないと」

 エミリーはつかの間考えた。ローズは、世界大恐慌の最中に結核で死んだ祖母の妹だ。エミリーのミドルネームは、彼女にちなんでつけられていた。
「おばあちゃん」エミリーはお腹に手を当てて言った。「クッキーのせいじゃないと思う」

「そうなの?」祖母の唇に意味ありげな笑みが浮かぶ。「わたしにも分けてくれればよかったのに」

 エミリーは再び顔をしかめたが、すぐに笑顔を作った。祖母のロッキングチェアの前に、ぎこちなく膝をつく。祖母は子供サイズのセーターを編んでいた。その指はハチドリのように、小さな襟の上でひらひらと踊っている。ヴィクトリア朝風のワンピースの袖は、片方がまくりあげられていた。エミリーは、祖母の骨ばった手首にぐるりと残された濃い紫色の痣にそっと手を触れた。

「ぶきっちょで不格好」歌っているような祖母の言葉は、千もの言い訳のようだった。「フレディ、パパが帰ってくる前にそのドレスは着替えなきゃだめよ」

 今度は、エミリーを叔父のフレッドだと思っている。認知症というのは、家のクローゼットにずらりと並んだ骸骨のあいだをうろつくようなものだ。

 エミリーは訊いた。「クッキーを取ってきてほしい?」

「それはいい考えね」祖母は編み物を続けていたが、いまでは決して焦点を結ぶことのなくなった目が、不意にエミリーをとらえた。唇が笑みを作る。貝殻の裏側の真珠のような輝きを眺めているかのように、小首をかしげた。「なんて滑らかでつややかな肌なのかしら。とてもきれいよ」

「そういう家系なの」いまの状況をほぼ正常に認識しているらしく、祖母の目つきが変わったことにエミリーは驚いた。あたかも、雑然とした脳みそに張られた蜘蛛の巣を箒で払ったかのように、祖母がまたそこにいた。

 エミリーは祖母のしわだらけの頬に触れた。「こんにちは、おばあちゃん」

「こんにちは、かわいい子」祖母は編み物をする手を止めて、エミリーの顔を包んだ。「誕生日はいつ?」

 できるかぎりの情報を与えなくてはならないことはわかっていた。「二週間後に十八になるわ、おばあちゃん」

「二週間」祖母の笑みが広がった。「若いって素晴らしい。希望でいっぱい。あなたの人生は、まだなにも書かれていない本だね」

 エミリーは身構え、感情の波に対抗するための目に見えない砦を作った。泣きだしたりして、このひとときを台無しにするつもりはない。「おばあちゃんの本の話をして」

 祖母は顔を輝かせた。話をするのが大好きなのだ。「あなたのお父さんを身ごもったときの話はした?」

「ううん」エミリーは答えたが、その話ならもう何十回も聞いていた。「どんなふうだったの?」

「ひどかった」その言葉が重苦しいものにならないよう、祖母は笑いながら言った。「朝も夜も吐いてばかり。ベッドからほとんど出られなくて、料理もできなかった。家の中はひどい有様。外はものすごく暑くてね。髪を切りたくてたまらなかった。とても長くて腰まであったんだよ。洗ったあとは、乾かすより先に、暑さのせいでぼさぼさになった」

 祖母は『バーニス・ボブズ・ハー・ヘア』(F・スコット・フィッツジェラルドの短編 )と自分の人生を混同しているのだろうかと、エミリーは考えた。祖母はしばしば、フィッツジェラルドとヘミングウェイを思い出す。

「どれくらい短く切ったの?」

「まさか。切ったりしていないよ」祖母が言った。「あなたのおじいさんが切らせてくれなかった」

 驚きのあまり、エミリーの口があんぐりと開いた。小説ではなく、本当の話らしい。「いろいろと面倒だったんだよ。わたしの父さんは巻き添えを食ってね。母さんとふたりでわたしを擁護しに来てくれたんだけれど、あなたのおじいさんが家に入れようとしなかった」

 エミリーは、祖母の震える手を強く握り締めた。

「フロントポーチで言い争っていたのを覚えているよ。もう少しで殴り合いになりそうだったけれど、母さんが止めた。赤ん坊が生まれるまで、わたしを連れて帰って面倒を見たいって母さんが言ったんだけれど、あなたのおじいさんは断った」まるで、たったいま起きたことのように、祖母は驚いた顔になった。「あの日、連れて帰ってくれていたらわたしの人生がどれほど違っていたか、想像してみてごらん」

 エミリーにはとても想像できなかった。自分の人生が陥っている現実のことしか考えられない。エミリーも祖母と同じように、囚われてしまっていた。

「小さな羊ちゃん」祖母の節くれだった指が、こぼれそうなエミリーの涙を拭った。「悲しまないで。あなたはここを出ていく。大学に行く。あなたを愛してくれる人に出会う。あなたを大好きになる子供を産む。素敵な家で暮らすのよ」

 エミリーは胸が締めつけられるのを感じた。そんな人生を送る夢は消えた。

「わたしの宝物」祖母が言った。「これだけは信じて。生と死のベールに囚われたせいで、わたしは過去と未来の両方が見えるようになったの。あなたの未来には幸せしか見えない」

 押し寄せてくる悲しみの重さに、砦がひび割れていく。どういうことになろうと─いいことであれ、悪いことであれ、どうでもいいことであれ─彼女の未来を祖母が目にすることはない。「大好きだよ、おばあちゃん」

 返事はなかった。祖母の目に蜘蛛の巣がかかり、ぼんやりしたいつもの表情に戻っていた。見知らぬ人の手を握っていると思ったのか、気まずそうに編み針を手に取り、再びセーターを編みはじめた。

 エミリーは残った涙を拭い、立ちあがった。見知らぬ人が泣いているのを見ているほど気まずいものはない。鏡が目に入ったが、これ以上自分の姿を見なくてもすでに気分は最低だった。そもそも、なにひとつ変わることはないのだから。

 エミリーが荷物を持って部屋を出たときも、祖母が顔をあげることはなかった。

 エミリーは階段まで行き、耳を澄ました。閉じた仕事部屋のドアの向こうから聞こえるのは、くぐもった母の声。父の太いバリトンの声が聞こえはしないかと意識を集中させたが、教授会からまだ戻っていないようだ。それでもエミリーは靴を脱ぎ、そろそろと階段をおりはじめた。古い家がきしむ音は、両親のいがみ合う声と同じくらい、聞き慣れたものだった。

 玄関のドアに手を伸ばしたところで、クッキーのことを思い出した。大型の古い振り子時計が五時を告げている。祖母は、欲しいと言ったことを覚えていないだろうけれど、なにかを食べさせてもらうのは六時過ぎになる。

 エミリーはドアの脇に靴を置き、小さなハンドバッグを靴のヒールに立てかけた。爪先立ちで母の仕事部屋の前を通り過ぎ、キッチンへと向かう。

「そんな格好でどこに行くつもりだ?」キッチンには、父の葉巻とすえたビールのにおいが充満していた。黒のスーツの上着が椅子の背もたれにかけられている。白いドレスシャツの袖はまくりあげられていた。カウンターには、空になったふたつの缶とその脇にまだ開けていないナッティ・ボーの缶ビールが置かれていた。

 エミリーは、缶の脇を伝う水滴を見つめた。

 父親は、学生のひとりに続きを言えと促すかのように指を鳴らした。「答えろ」

「あたしはただ─」

「ただ、なんだ?」父親はエミリーを遮って言った。「家族をあれだけ傷つけておきながら、おまえはまだ満足できないのか? おまえの母親は、キャリアでもっとも重要な週を迎えようとしているのに、その二日前にすべてを台無しにするつもりか?」

 エミリーの顔は恥ずかしさに燃えるようだった。「そんなつもりじゃ─」
「おまえがなにを考えていようが、どんなつもりだろうが、どうでもいい」父親は缶ビールのプルトップを引きちぎってシンクに投げこんだ。「部屋に戻って、その不愉快なドレスを脱いで、おれがいいと言うまで出てくるな」
「わかりました」エミリーはキャビネットを開けて、祖母に持っていくためのクッキーを取り出そうとした。〈バーガーズ〉のオレンジと白の箱に指が触れかかったところで、父親に手首をつかまれた。彼女の脳は痛みを意識するのではなく、祖母のか細い手首に残る手錠の形の痣を連想した。

 あなたはここを出ていく。大学に行く。あなたを愛してくれる人に出会う……

「パパ、あたしは─」

 父親の手に力がこもり、その痛みにエミリーは息ができなくなった。膝をつき、強く目を閉じると、父親の口臭が鼻についた。「おれはいまなんて言った?」

「パパは─」手首の骨がきしみはじめたので、エミリーはあえいだ。「ごめんなさい、あたし─」

「おれはなんて言った?」

「部屋に戻れって」

 父親の手が離れた。ほっとすると同時に、エミリーの腹の奥のほうがぎくりとした。立ちあがり、キャビネットのドアを閉める。キッチンを出た。廊下を戻った。いちばん大きな音を立てる階段のいちばん下の段に足をのせ、それから床にその足を戻した。

 きびすを返した。

 靴はハンドバッグと並んで、玄関のドアの脇に置かれたままだ。どちらも、サテンのドレスと同じ青緑色。けれどドレスはきつすぎたし、パンティストッキングは膝までしかあがらないうえ、足はひどくむくんでいたから、エミリーは靴を無視して、バッグだけを持って外に出た。

 芝生を横切って歩くエミリーのむき出しの肩を、穏やかな春の風が撫でていく。芝生が足をくすぐる。潮のにおいが遠くから漂ってくる。夏のあいだは遊歩道に観光客が群がるが、いまはまだ大西洋の水は冷たすぎるらしい。この時期のロングビル・ビーチは、フライドポテトを買うために〈スラッシャーズ〉の外に延々と並んだり、キャンディ店のショーウィンドウの色とりどりの列をまじまじと眺めたりすることは絶対にない、町の住人のものだ。

 夏。

 あとほんの数カ月。

 クレイとナードとリッキーとブレイクは卒業の準備をしている。大人としての暮らしを始める準備。この息苦しい、哀れな浜辺の町を出ていく準備。今後、彼らがエミリーについて考えることはあるだろうか? いま、考えているだろうか? 哀れだと考えているかもしれない。排他的な小さなグループから腐った存在をようやく排除できて、ほっとしているかもしれない。

 部外者であることが、以前のようにエミリーを傷つけることはもうない。自分が彼らの人生と関わり合いがなくなったことを、エミリーはようやく受け入れていた。祖母はああ言っていたけれど、エミリーがここを出ていく日は来ない。大学にも行かないし、彼女を愛してくれる人に会うこともない。ライフガードとして、反抗的な子供たちに海岸で笛を吹きならすか、あるいは〈ソルティ・ピートのソフトクリーム〉のカウンター越しに、無料サンプルを延々と渡し続ける人生が待っているだけだ。

 温かなアスファルトの上をぺたぺたと歩いて角を曲がった。家を振り返りたかったけれど、芝居がかったことはしたくない。そうする代わりに、耳に電話を押し当てて仕事部屋の中を行ったり来たりしながら、戦略を練っている母親を思い浮かべた。父親はビール缶を空にして、冷蔵庫の中の残りのビールと書斎にあるスコッチのどちらにしようかと考えているだろう。祖母は小さなセーターを編み終えて、どこの子供のために編んでいたのだろうと考えているかもしれない。

 車が近づいてきたので、エミリーは道路の中央から端に寄った。二色のシボレー・シェヴェットが通り過ぎたかと思うと、タイヤをきしらせながら止まり、鮮やかな赤いブレーキランプが点灯するのが見えた。開いた窓から大きな音楽が聞こえている。ベイ・シティ・ローラーズ。

 S─A─T─U─R─D─A─Yナイト!

 バックミラーに向けられていたミスター・ウェクスラーの顔が、サイドミラーのほうを向いた。ブレーキからアクセルへ、そして再びブレーキに足を戻したらしく、ブレーキランプが点滅した。このまま行ってしまおうかどうしようか、迷っているらしい。

 車がバックしてきたので、エミリーはあとずさった。車の灰皿でマリファナ煙草がくすぶっているにおいがした。ディーンは今夜のお目付け役なのだろうと思ったが、身に着けている黒のスーツは、プロムより葬式のほうがふさわしい。

「エム」歌声に負けじと、彼は声を張りあげた。「なにをしているんだ?」

 エミリーは両手を広げ、ふわりとした青緑色のプロム用のドレスを見せつけた。「なにをしているように見える?」

 彼の視線がざっとエミリーの全身をなぞり、それから彼女が初めて彼の教室に入ってきたときと同じように、もう一度ゆっくりと見直した。彼は社会科を教えているだけでなく、陸上競技のコーチでもあったから、あの日は赤紫色のポリエステルのショートパンツと白い半袖のポロシャツという格好だった─ほかのコーチと同じように。

 共通点はそれだけだった。

 ディーン・ウェクスラーは生徒たちと六歳しか違わなかったが、だれもかなわないくらい経験を積んでいて、世慣れていた。大学に進む前、一年間バックパックを背負ってヨーロッパを旅して回った。ラテン・アメリカで村人のために井戸を掘った。ハーブティーを飲み、自分で使うマリファナを育てている。私立探偵マグナムのようなふさふさした口ひげを生やしている。市政と政府について教えることになっているが、ある授業ではDDTがいまも地下水を汚染しているという記事を紹介し、またある授業では、選挙の流れを変えるためにレーガンが大使館人質事件の件でイラン人と秘密裡に交わした取引について説明した。

 ひとことで言えば、ディーン・ウェクスラーは最高にいかした教師だとだれもが考えていた。

「エム」彼はため息をつくように、その名を繰り返した。車のギアをニュートラルに入れ、サイドブレーキを引く。エンジンが切れ、ナーイートのところで歌が途切れた。

 ディーンが車から降りた。エミリーを見おろすように立ったが、今日ばかりは、そのまなざしは優しかった。「きみは、プロムには行けないよ。みんながどう思う? きみのご両親はなんて言う?」

「そんなの、気にしないもの」語尾が上ずったのは、大いに気にしているからだ。

「きみは自分の行動の結果を考えなきゃいけない」彼は手を伸ばして、エミリーの腕をつかもうとしたが、考え直したようだ。「きみのお母さんはいま、徹底的に調べられているんだ」

「そうなの?」母親が、耳が受話器の形になってしまうくらい長い時間電話をしていることを知らないかのように、エミリーは訊き返した。「なにか問題でもあったの?」

 彼が聞き取れるほどのため息をついたのは、自分の寛大さを教えるためだ。「きみは自分の行動が、お母さんがこれまでしてきたことすべてを台無しにするかもしれないとは、考えないんだね」

 エミリーは、雲の上を漂う一羽のカモメを眺めた。きみの行動。きみの行動。きみの行動。これまでディーンが上から目線で話すのを聞いたことはあったが、それが彼女に向けられたことは一度もなかった。

「だれかがきみの写真を撮ったらどうする? 学校に記者がいたら? それがきみのお母さんにどんな影響があるのか、考えなきゃだめだ」

 ふとあることに気づいて、エミリーの口元に笑みが浮かんだ。彼は冗談を言っている。もちろん、冗談に決まっている。

「エミリー」ディーンの言葉が冗談ではないのは明らかだった。「きみは─」

 彼は言葉をあきらめ、両手を使って、エミリーの体にオーラをまとわせた。むき出しの肩、ふくよかすぎる乳房、大きく張り出した腰、青緑色のサテンは腹部の膨らみを隠しきれず、ウェストのあたりの縫い目は張り裂けそうだ。

 だから祖母は小さなセーターを編んでいた。だから父はこの四カ月、エミリーを家の外に出さなかった。だから校長はエミリーを退学させた。だからエミリーは、クレイとナードとリッキーとブレイクから遠ざけられた。

 エミリーは妊娠していた。

 ディーンはようやく言葉を取り戻した。「きみのお母さんはなんて言うだろうね?」

 エミリーは、押し寄せてきた恥ずかしさの大波を乗り切ろうとして口ごもった。それは、彼女がもはや輝かしい未来が待つ優等生の少女ではなく、自分の行いに対して大きな代償を払うことになる悪い娘だという噂が広まって以来、耐え忍んできた恥ずかしさだった。

「いつからあたしの母親のことをそんなに気にかけるようになったの? あの人は腐敗したシステムの歯車なんじゃなかったの?」

 意図した以上に鋭い口調になったが、エミリーの怒りは本物だった。ディーンは両親とまったく同じことを言う。校長と。ほかの教師たちと。牧師と。友だちだった人たちと。彼らはみんな正しくて、エミリーはいつだって、いつだって間違っているのだ。

 エミリーは彼をもっとも傷つけるだろう言葉を口にした。「あなたを信じていたのに」

 彼は鼻を鳴らした。「きみはまだ若すぎて、信じるという意味がわかっていないんだ」

 エミリーは怒りを制御しようとして、唇を噛んだ。彼がこんなくそ野郎だっていうことに、どうしていままで気づかなかったんだろう?

「エミリー」彼はまだ、屈辱を与えることで自分の言うとおりにさせようとしているのか、再び悲しそうに首を振った。エミリーを気にかけてなどいない─本当には。彼女と関わりたくないと思っている。プロムで騒ぎを起こしてほしくないと思っている。「きみはずいぶん巨大になった 笑いものになるだけだ。帰るんだ」

 帰るつもりはなかった。「世界を燃やせってあなたは言った。自分でそう言ったのよ。なにもかも燃やせ。一から始めろ。なにかを作れ─」

「きみはなにも作っていないよ。お母さんの注意を引くために、ばかげたことをしようとしているだけだ」彼は腕を組んだ。腕時計を見た。「大人になるんだ、エミリー。自分勝手な時期は終わったんだよ。きみが考えなきゃいけないのは─」

「あたしはなにを考えなきゃいけないの、ディーン? あたしになにを考えさせたいの?」

「大声を出すんじゃない」

「命令しないで!」エミリーは喉の奥で打つ心臓を感じた。こぶしを握り締める。「あなたが自分で言ったのよ。あたしは子供じゃない。もうすぐ十八なの。だれかに─男たちに─命令されるのは、もううんざりなんだから」

「今度はぼくが、家父長制度の代表なのか?」

「違うの、ディーン? あなたは家父長制度の一員じゃない? あなたがしたことを父に話したら、あっという間にあの人たちは守りを固めるでしょうね」

 片方の腕から指先まで、炎が走った。両足が地面から浮き、ぐるりと向きを変えさせられ、車の横に叩きつけられた。むき出しの肩甲骨に当たる金属が熱い。冷えていくエンジンがカチリと音を立てるのが聞こえた。ディーンの手はエミリーの手首をがっちりとつかんでいる。反対の手で口を押さえている。すぐ近くまで顔を寄せているので、口ひげの細い毛に伝う汗が見えるほどだった。

 エミリーは抗った。痛い。彼は本気でエミリーを痛めつけている。

「いったいどんなたわごとを親父さんに言うつもりだ? 言ってみろ」

 エミリーの手首でなにかが砕けた。骨が歯のようにかたかた鳴っているのが感じられる。

「なにを言うつもりだ、エミリー? なにも言わない? きみはなにも言わないだろう?」

 エミリーは顔を上下させた。彼女を従わせたのが、顔を撫でるディーンの汗ばんだ手だったのか、それとも彼女の中にある生存本能のようなものだったのかはわからない。

 ディーンはゆっくりと手を放した。「なにを言うつもりだ?」

「な、なにも。父には─なにも言わない」

「それはよかった。なにも話すことなんてないんだからな」ディーンはシャツで手を拭いながら、うしろにさがった。視線を下に向けたのは、彼女の腫れた手首がもたらす結果を考えているのだろう。彼女が両親になにも話さないことはわかっていた。なにかを言っても、彼らはただ姿を隠していろという命令に逆らって外出した彼女を責めるだけだ。「本当に悪いことが起きる前に、家に帰るんだ」

 ディーンが車に乗りこめるように、エミリーは道を譲った。エンジンが一度、そしてもう一度うなってからかかった。ラジオから雑音が聞こえ、カセットテープが再び音楽を奏ではじめる。

 S─A─T─U─R……

 エミリーは腫れあがった手首を胸の前で抱え、すり減ったタイヤが空回りするのを見つめた。ディーンはゴムが焼ける煙の中に彼女を残して走り去った。不快なにおいが漂っていたが、エミリーは熱いアスファルトに裸足で立ち尽くしたまま、その場から動こうとしなかった。左の手首が鼓動に合わせてずきずきする。右手を腹部に当てた。超音波検査で見た速い脈が、彼女自身の心臓の鼓動に同調しているところを想像した。

 そうするべきだと感じたから、超音波写真は全部、バスルームの鏡に貼ってある。写真にはゆっくり大きくなっていく─目と鼻が、次に手と足の指ができた─豆の形の染みが写っていた。

 あたしはなにかを感じるべきでしょう?

 高揚する思い? 子供との絆? 畏怖や尊厳?

 彼女が感じたのは恐怖だった。怖れだった。責任の重さだった。そして最後はその責任が、彼女にはっきりしたなにかを感じさせた─目的意識。

 エミリーは、悪い親がどんなものかを知っていた。彼女は毎日─ときには一日に何度も─親が果たさなければならないもっとも大切な務めを果たすことを子供に約束した。

 その言葉を声に出して言ってみた。

「あたしはあなたを守る。だれにもあなたを傷つけさせない。あなたはどんなときも大丈夫」

 そこから町までは歩いて三十分かかった。裸足の足はまず焼けたように感じられ、それから皮がはがれたようになって、遊歩道の白い杉のデッキを歩く頃にはなにも感じなくなっていた。右側には大西洋が広がっていて、引き潮の波が砂を引っかいている。左手にある明かりを落とした店のショーウィンドウに、デラウェア湾の上をゆっくりと移動する太陽が映っていた。エミリーは、西へと進んでいく太陽がアナポリスからワシントンDC、そしてシェナンドーを通過する様を思い浮かべた─そのあいだも遊歩道をのろのろと歩き続けていた。おそらくはこれから死ぬまでずっと、歩き続けるであろう遊歩道を。

 去年のいま頃、エミリーはジョージ・ワシントン大学のフォギー・ボトム・キャンパスを訪れていた。すべてが軌道からはずれてしまう前のことだ。彼女が知っていた人生が、取り返しがつかないほど変わってしまう前。夢を見るどころか、希望を抱く権利すら失ってしまう前。

 これが人生の計画だった:卒業生の親族としての優遇制度のおかげで、エミリーがジョージ・ワシントン大学に進むことは決まっていた。学生時代をホワイトハウスとケネディ・センターにはさまれた場所で過ごす予定だった。上院議員の元でインターンとして働き、父と同じ道をたどって政治学を学ぶ。母を見習ってハーバード大学法科を出て、一流の弁護士事務所で五年働き、州判事となり、そして最後は、おそらくは、連邦判事となる。

 きみのお母さんはなんて言うだろうね?

「あなたの人生は終わった!」エミリーの妊娠が明らかになったとき、母はそう叫んだ。「もうだれもあなたを尊敬することはないわ!」

 この数カ月を振り返ってみると、面白いことに母の言ったとおりだった。

 エミリーは遊歩道をおりると、ビーチ・ドライブを横断して、キャンディ店とホットドックスタンドのあいだの細長い路地を進んだ。そしてついにロイヤル・コーヴ・ウェイにたどり着いた。車が何台か通り過ぎていき、なかには速度を落として、鮮やかな青緑色のドレスをまとったみすぼらしいビーチボールのような彼女を眺めていく車もあった。空気が冷たくなってきたので、エミリーは腕をこすった。こんな派手な色にするんじゃなかった。ストラップつきのものにするべきだった。大きなお腹に合うものに変えるべきだった。

 けれどエミリーはたったいままでそんなことを考えもしなかったので、大きくなった乳房はドレスの胸元からこぼれそうだったし、腰は売春宿にある時計の振り子のように揺れていた。
「やあ、いかしてるね!」ムスタングの開いた窓から、若者が叫んだ。後部座席にはその友人たち。だれかの脚が窓から突き出していた。ビールとマリファナと汗のにおいがした。

 エミリーは膨らんだ腹部を片手で支えるようにして、学校の中庭を進んだ。お腹の中で育つ子供のことを考えた。最初は現実とは思えなかった。やがて錨のように感じられてきて、最近になってようやく人間と思えるようになった。

 彼女の分身。

「エミー?」

 振り返ると、木の陰に隠れるようにしてブレイクが立っていたので驚いた。片手に煙草を持っている。意外なことに、プロム用の格好をしていた。彼女たちは小学校の頃から、ダンスやプロムは、哀れな人生の中で最高のものになるであろう夜に執着する庶民たちの見せびらかしの場だと言って、彼らを小ばかにしていた。通り過ぎていった車に乗った若者たちは白やパステルカラーに身を包んでいたが、ブレイクだけはフォーマルな黒のタキシード姿だった。

 エミリーは咳払いをした。「ここでなにをしているの?」

 ブレイクはにやりと笑った。「庶民をじきじきに嘲笑ってやるのは楽しいだろうと思ったのさ」

 エミリーはクレイとナードとリッキーの姿を捜した。彼らはいつも一緒にいるからだ。

「中にいるよ」ブレイクが言った。「リッキー以外はね。あいつは遅れてくる」

 エミリーは言うべき言葉を見つけられずにいた。ブレイクと最後に話したときのことを考えると─彼女をばかなビッチと呼んだ─ありがとうと言うのは変だ。

 エミリーはぼそりと「じゃあね」とだけ口にして、歩き出した。

「エム?」

 ビッチというくだりは正しいにしても、エミリーはばかではなかったから、足を止めることも振り返ることもなかった。

 開け放した体育館のドアから音楽が聞こえている。中庭を歩いていると、奥歯にベースが反響するのが感じられた。ありきたりで悲しすぎたが、プロム委員会は今夜のテーマを〝海辺のロマンス〟に決めたらしい。何列もの青いリボン飾りの合間に、紙で作った七色の魚が泳いでいる。この町の名はその魚にちなんでつけられたというのに、クチナガフウライは一匹もいなかったが、エミリーになにができるだろう? 彼女はもう、ここの生徒ですらないのだ。

「驚いたね」ナードが言った。「そんな格好で来るなんて、ずいぶん度胸があるな」

 ナードは、彼ならそこにいるだろうとエミリーが想像していたとおり、入り口のすぐ脇に立っていた。ブレイクと同じで黒のタキシード姿だったが、冗談でこんなものを着ているのだとわからせるために、ラペルに “I Shot J.R.” のボタンをつけていた。エバークリア(アルコール度数九五度の酒)とチェリー味のクールエイドを混ぜたものが半分入ったボトルをエミリーに勧めた。

 彼女は首を振った。「受難節にやめたの」

 ナードは大声で笑い、上着のポケットにボトルを押しこんだ。酒の重みで、すでに縫い目が裂けている。耳のうしろには手巻き煙草。エミリーはナードと初めて会ったとき、父親が言ったことを思い出した。

 あいつは刑務所行きか、ウォール・ストリートに収まるかのどちらかだろうが、順番は逆だろうな。

「で」ナードは煙草を手に取り、ライターを探している。「おまえみたいな悪い娘が、こんな楽しい場所でなにをしてるんだ?」

 エミリーは天を仰いだ。「クレイはどこ?」

「なんでだ? あいつに話でもあるのか?」ナードは眉をぴくぴくさせながら、エミリーの腹部を見つめた。

 エミリーは、彼が煙草に火をつけるまで待った。水晶の玉を撫でる魔女のように、痛めていないほうの手で腹を撫でる。「あんたに話があるとしたらどうする、ナード?」

「くそ」ナードは不安そうに、エミリーの背後に目を向けた。人が集まってきている。「面白くないよ、エミリー」

 エミリーはまた天を仰いだ。「クレイはどこ?」

「知るもんか」ナードは、駐車場に入ってきた白のストレッチリムジンに興味を引かれたふりをして、彼女に背を向けた。

 クレイはどこかステージの近くで、ほっそりした美しい少女たちに囲まれているのがわかっていたから、エミリーは体育館に入っていった。磨かれた木の床を進んでいくと、ぐっと温度がさがっているのが足の裏でわかった。建物の中も海辺のテーマで飾りつけられている。高い天井に走る垂木にたくさんの風船が浮いているのは、プロムの終わりに落とすことになっているのだろう。いくつもの大きな丸テーブルには、貝殻や鮮やかなピンク色の桃の花で作った、海がテーマのセンターピースが置かれていた。

「見て」だれかが言った。「彼女、ここでなにをしてるの?」

「びっくり」

「図太いよね」

 エミリーはまっすぐ前だけを見つめていた。バンドはステージで準備をしていて、空白を作らないようにだれかがレコードをかけたようだ。食べ物が置かれたテーブルの前を通ったときには、胃が文句を言った。パンチだということになっている、げんなりするほど甘ったるいシロップ。肉とチーズをたっぷりはさんだ、フィンガー・サンドイッチ。去年の夏の観光シーズンの売れ残りのタフィー。しなびたフライドポテトが入った金属の容器。ソーセージロール。クラブケーキ。〈バーガーズ〉のクッキーとケーキ。

 エミリーはステージに向かっていた足を止めた。

 あたりの音は消えている。聞こえるのは、知らない人間と話してはいけないと警告するリック・スプリングフィールドの歌声だけだ。

 人々が彼女を見つめていた。ただの人たちではない。お目付け役。親たち。彼女の技巧は見事だと言った美術の教師。彼女が提出したヴァージニア・ウルフのレポートに〝感動した!〟と書いてきた英語の教師。今年の模擬裁判では、彼女を首席検事にすると約束した歴史の教師。

 あのときまでは─

 エミリーは肩をそびやかしたまま、遠洋定期船の船首のように突き出した腹部でステージに向かって進んだ。彼女はこの町で育ち、学校に通い、教会やサマーキャンプや遠足やハイキングやお泊まり会に行った。ここにいるのは彼女のクラスメイトであり、隣人であり、ガールスカウトの仲間であり、実験のパートナーであり、共に勉強した仲間であり、ナードがイタリアへの家族旅行にクレイを連れていき、リッキーとブレイクが祖父の軽食堂を手伝っているあいだ、一緒に過ごした友人たちだった。

 それがいまは─

 エミリーがなにかに感染しているかのように、かつての友人たち全員が彼女から遠ざかろうとしている。なんていう偽善者たち。彼女はただ、彼らがしているか、したいと思っていることをして、その結果、運が悪かっただけなのに。

「なんなの」だれかがつぶやいた。

「ありえない」親のひとりがいった。

 非難の声はもう彼女には刺さらない。あのクソみたいな二色のシボレーに乗ったディーン・ウェクスラーが、妊娠したことについてエミリーが感じていた恥の感情の最後のひと切れまではぎ取っていった。批判がましいろくでなしたちが間違いだと思いこんでいるせいで、間違っていることになっているだけだ。

 エミリーは彼らの声に耳を傾けることなく、お腹の子供への約束を心の中で繰り返した。

 あたしはあなたを守る。だれにもあなたを傷つけさせない。あなたはどんなときも大丈夫。

 クレイはステージにもたれていた。腕を組んで、エミリーを待っている。ブレイクとナードと同じ黒のタキシードを着ていた。いや、クレイが選んだのと同じタキシードをふたりが着ていると言うべきだろう。彼らはいつもそうだった。なんであれクレイがしたことを、ほかのふたりが真似するのだ。

 エミリーが目の前で足を止めてもクレイは無言のまま、なにか言いたげに片方の眉を吊りあげただけだった。まわりにいるのは、ばかにしているはずのチアガールたち。グループのほかのふたりはおそらく、皮肉のつもりでプロムに出ると自分に言い訳しているだろう。本当は女の子とやれるからプロムに出ているのだと、クレイだけはわかっている。

 だれもなにも言おうとはしないので、チアリーダーのロンダ・ステインが口を開いた。「彼女、ここでなにをしているわけ?」

 視線はエミリーに向いていたが、質問はクレイに対してだった。

 別のチアガールが言った。「『キャリー』をやってほしいんじゃない?」
「だれか、豚の血を持ってきた?」

「だれが王冠をかぶせるの?」

 不安げな笑いが広がったが、全員がクレイを見つめ、なにか言うのを待っていた。

 クレイは大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。それから片方の肩をさりげなくすくめてみせた。「自由世界だ」

 乾いた空気に、エミリーの喉がざらついた。今夜がどういうことになるかを考えたときは、だれもが驚くさまを想像してわくわくしていたときは、あなたの母親は高校のプロムであえてダンスをするような過激で自由奔放な女なのだと子供に話すことを考えていたときは、さぞかし気持ちが高ぶるだろうと思っていたのに、いま彼女が感じているのは疲労だった。精神的にも肉体的にも、なにひとつできる気がしない。ただきびすを返し、来た道を戻ることしかできそうになかった。

 だから、そうした。

 人々は道を空けたままだったが、雰囲気は明らかにとげとげしくなっていた。少年たちは怒りに歯を食いしばり、少女たちは彼女に背を向けた。教師や親たちは不快そうにかぶりを振っている。彼女はここでなにをしているんだ? どうしてほかの子たちの夜を邪魔するの? ふしだらな女。売女。自業自得よ。自分を何様だと思っているんだ? いずれ、どこかの若者の人生を台無しにするんだろうな。

 体育館の中がどれほど息苦しかったのかに気づいたのは、無事に外に出てからだった。ナードはもうドアの脇にはいない。ブレイクはどこか別の暗がりに姿を消した。リッキーはこういうときにいつもいるところ、つまりはどうでもいいところにいるのだろう。

「エミリー?」

 振り返ると、驚いたことにクレイがいた。彼女を追って体育館を出てきたのだ。クレイトン・モロウはだれのあとも追ったりしないのに。

 彼が訊いた。「ここでなにをしているんだ?」

「帰るのよ。あんたも友だちのところに戻れば」

「あの負け犬たちのところに?」彼の唇がめくれあがった。エミリーの背後にその視線が流れ、人間にはありえない速さで移動するなにかを追った。彼は鳥を観察するのが好きだった。だれも知らないクレイのオタク部分。彼はヘンリー・ジェイムズを読み、イーディス・ウォートンが大好きで、微積分学の上級過程で軒並みAを取っていて、フリースローがなにかは知らなくて、アメフトのボールを回転させることもできないけれど、死ぬほどかっこいいからだれもそんなことは気にしない。

 エミリーは尋ねた。「なんの用、クレイ?」

「おれを捜しにここに来たのはきみだ」

 自分を捜しに来たとクレイが考えているのが妙に感じられた。プロムではグループのだれにも会えないだろうと思っていたのだ。彼女はただ、自分を追放した学校のほかの人たちを悔しがらせたかっただけだ。さらに言えば、校長のミスター・ランパートがスティルトン署長に通報して、自分を逮捕させればいいと思っていた。そうしたら彼女を保釈しなければならないから、父親は激怒して、母は─

「くだらない」エミリーはつぶやいた。結局、すべては母親のためにしたことだったのかもしれない。

「エミリー? 答えろよ。どうしてここにいるんだ? おれにどうしろっていうんだ?」

 クレイが求めているのは答えではない。赦しだ。

 エミリーは彼の牧師ではない。「あそこに戻って楽しんでくれば、クレイ? チアガールたちとやって、大学に行って、いい仕事につけばいい。あんたに開かれているすべてのドアをくぐればいい。残りの人生を楽しんで」
「待てよ」クレイはエミリーの肩に手をのせ、自分のほうに向かせた。「きみはフェアじゃない」

 エミリーは彼の澄んだ青い目を見つめた。このやりとりは彼にとっては意味のないことだ─ひと筋の煙のようにいずれ彼の記憶から消えてしまう、不愉快なやりとり。二十年後、郵便受けを開けて高校の同窓会の招待状を見つけたクレイが感じる、ちょっとした不安の原因でしかないだろう。

「あたしの人生はフェアじゃないの」エミリーは言った。「あんたは大丈夫よ、クレイ。いつだって大丈夫。これからもずっと大丈夫」

 クレイは深いため息をついた。「よくいるような退屈で嫌な女にはなるなよ、エミリー。そういうのはごめんだからな」

「半分閉めたドアの向こうであんたがなにをしていたのか、スティルトン署長に知られないようにするのね、クレイトン」彼の目に浮かんだ恐怖が見えるように、エミリーは爪先立ちになった。「そうならないといいわよね」

 片手が伸びてきて、エミリーの首をつかんだ。うしろに引いたもう一方の手はこぶしを作っている。怒りに彼の目が暗くなった。「いずれ、痛い目に遭うことになるぞ、このあばずれ」

 エミリーは目をぎゅっと閉じて殴られるのを覚悟したが、不安そうな笑い声が聞こえてきただけだった。

 薄目を開けた。

 クレイは彼女をつかんでいた手を放した。人が見ているところで彼女を傷つけるようなばかな真似をする男ではない。

 あいつはホワイトハウスに行くだろう、初めてクレイを見たとき、父親はそう言った。ロープの先で揺れることにならなければな。

 彼に首をつかまれたとき、エミリーはバッグを落としていた。クレイはそれを拾うと、サテン地の脇についた泥を拭った。いかにも礼儀正しく、彼女に差し出す。

 エミリーはひったくるようにして彼の手からバッグを奪い取った。

 エミリーが歩き出しても、今回はクレイはあとを追ってこなかった。パステルカラーのふわりとしたスカートに身を包んだプロムの参加者たちが通り過ぎていく。そのほとんどは足を止めて、ぽかんとした顔でエミリーを眺めるだけだったが、一時期バンドで一緒に練習をしたことのあるメロディ・ブリッケルだけは温かい笑みを向けてくれて、それはありがたかった。

 エミリーは信号が変わるのを待った。今度は声をかけられることはなかったが、大勢の少年を乗せた一台の車がわざとらしくのろのろと通り過ぎていった。

「あたしはあなたを守る」エミリーは彼女の中で育つ小さな同乗者に向かって言った。「だれにもあなたを傷つけさせない。あなたはどんなときも大丈夫」

 ようやく信号が変わった。傾きかけた太陽が、横断歩道の向こうに長い影を作っている。ひとりで町にいても居心地が悪いと思ったことはなかったけれど、いまは腕に鳥肌が立っていた。もう一度キャンディ店とホットドックスタンドのあいだの路地を歩くのが不安だった。長く歩いたせいで足が痛んだ。クレイにつかまれた首が痛かった。手首がまだずきずきしているのは、折れているか、あるいはひどい捻挫をしているかだろう。ここに来るべきではなかった。家に残り、夕食の合図のベルが鳴るまで祖母のそばにいるべきだった。

「エミー?」ホットドックスタンドの暗い入り口からヴァンパイアのように現れたのは、ブレイクだった。「大丈夫?」

 エミリーは虚勢にひびが入るのを感じた。大丈夫かと彼女に訊いてくれる人はもういない。「帰らなくちゃ」

「エム─」ブレイクは簡単に帰らせてはくれないようだ。「おれはただ─本当に大丈夫? だって、きみがここにいるのは変だ。おれたちみんなここにいるのは変だけど、とりわけきみは、だってその、靴。なくなっているじゃないか」

 ふたりは揃ってエミリーの裸足の足を見た。

 エミリーはぷっと吹き出し、その笑い声は自由の鐘のように彼女の全身に鳴り響いた。あまりに笑いすぎて、お腹が痛くなるほどだった。体をふたつ折りにして笑った。

「エミー?」ブレイクが片手を彼女の肩に置いた。頭がどうかしたのかと思ったらしい。「きみの親に連絡するか、それとも─」

「だめ」エミリーは涙を拭いながら、体を起こした。「ごめん。自分が、文字どおり裸足で妊娠している(女性は家庭に入り、多くの子供を産むべきだという概念を表す表現のひとつ)ってことに、たったいま気づいたの」

 ブレイクは仕方なさそうに笑った。「それって、わざと?」

「ううん。そうかも?」

 エミリーには本当にわからなかった。潜在意識が妙なことをさせたのかもしれない。赤ん坊が彼女のホルモンをコントロールしているのかもしれない。三つめの選択肢─彼女はとんでもなくいかれている─は歓迎できないものだったから、そのどちらであっても受け入れるのは簡単だった。

「ごめん」ブレイクは言ったが、彼は同じ過ちを幾度となく繰り返したから、謝罪の言葉はいつも空々しく聞こえた。「おれが前に言ったこと。前っていうか、ずっと前。言っちゃいけなかった……その、あんなことを言ったのは……」

 彼がなにを言っているのか、エミリーにはよくわかっていた。「トイレに流すべきだって言ったこと?」

 もう何カ月も前、ブレイクがその言葉を口にしたときにエミリーがぎょっとしたように、ブレイクはぎくりとした。

「あれは─そうだ」彼は言った。「あれは、言っちゃいけないことだった」
「そうだね、言うべきじゃなかった」エミリーは喉が締めつけられるのを感じた。自分で決めたことではなかったからだ。決めたのは両親だった。「あたしはもう─」

「どこかで話を─」

「痛い!」エミリーは彼につかまれた手首を振りほどいた。でこぼこした歩道に足を取られた。倒れながらブレイクのタキシードの上着に手を伸ばしたが、なすすべもなくアスファルトに尾骨を打ちつけた。痛みは耐えがたかった。体を横向きにした。脚のあいだを液体が伝うのを感じた。

 赤ちゃん。

「エミリー!」ブレイクは彼女の傍らに膝をついた。「大丈夫?」

「あっちへ行って!」エミリーは叫んだが、立ちあがるためには彼の手助けが必要だった。倒れた拍子にバッグを押しつぶしていた。サテンは裂けていた。「ブレイク、お願いだからどこかに行ってよ。あんたは事態を悪くするだけ! どうしていつもいつも事態を悪くするのよ?」

 彼が傷ついたのがわかったが、いまはそれどころではなかった。激しい転倒で赤ん坊が傷つくさまざまな可能性が頭を駆けめぐっていた。

 ブレイクが言った。「そんなつもりじゃ─」

「あんたは、そんなつもりじゃなかったのよね!」エミリーは叫んだ。いまでも噂を広めているのは彼だ。リッキーをあんなに非情にしたのは彼だ。「あんたはいつだってそんなつもりじゃないんだよね? あんたのせいだったことはないし、あんたがなにかを台無しにしたことはないし、責任があったことだって一度もない。でも、知っている? これってあんたのせいだから。望みどおりになったでしょう? なにもかも全部、あんたのせいよ」

「エミリー─」

 エミリーはふらつき、キャンディ店の角にもたれて体を支えた。ブレイクがなにか言ったのが聞こえたものの、耳の中は甲高い悲鳴でいっぱいだった。

 あれはあたしの赤ちゃん? 助けてって叫んでいるの?

「エミー?」

 エミリーはブレイクを押しのけ、よろめきながら路地を進んだ。腿の内側を熱い液体が伝い落ちていく。ざらざらした煉瓦に手のひらを押し当てて、膝をつきそうになるのをこらえた。すすり泣きに喉がつまる。口を開けて、息を吸った。塩の味がする空気が肺を焼く。遊歩道に反射した日光のせいでなにも見えない。日の当たらないところまであとずさり、路地の突き当たりの壁にもたれた。

 通りに目を向けた。ブレイクはいなくなっている。だれも見ていない。

 エミリーはドレスをたくしあげ、痛む腕でサテン地を抱えこんだ。怪我をしていないほうの手を脚のあいだに伸ばす。血を見ることを覚悟したけれど、指にはなにもついていなかった。頭をさげて、手のにおいを嗅いだ。

「なんだ」

 彼女は失禁していた。

 エミリーはまた笑ったが、今度は涙混じりだった。安堵のあまり、膝ががくがくする。地面に座りこむと、ドレスが煉瓦に引っかかった。尾骨が痛んだが、かまわなかった。自分が失禁していたことが、うれしくてたまらない。両脚のあいだに血が流れているのだろうと思ったときに頭に浮かんだ恐ろしい考えが、バスルームの鏡に貼ったどんな超音波写真よりもはっきりと教えてくれていた。

 その瞬間、エミリーは赤ん坊が無事でいてほしいと心から思った。義務ではなく。子供は彼女が背負うべき責任というだけではない。彼女が与えられることのなかった愛をだれかに与えるチャンスなのだ。

 恥ずかしくて、屈辱的で、無力だったこの数カ月で初めて、エミリー・ヴォーンはこの赤ん坊を愛していると心の底から思った。

「女の子のようですね」いちばん最近の検診で、医者はそう言った。

 そのときは、単なる過程としてその知らせを受け取ったエミリーだったが、彼女の感情をずっと押し込めていたダムは、いま決壊した。

 あたしの娘。

 彼女の小さな、大切な幼い娘。

 エミリーは手で口を押さえた。安堵のあまりすっかり力が抜けてしまったので、冷たい地面にすでに座っていなければ、倒れこんでいただろう。膝に顔を寄せた。大きな涙が頬を伝った。口が開いたが声は出ない。胸が愛であふれていて、言葉にすることができなかった。お腹に手を当てて、小さな手が押し返しているさまを想像した。その愛しい指先にキスができる日のことを思うと、心臓が飛び出しそうになった。赤ん坊にはひとりひとり母親だけがわかる特別なにおいがあるのだと、祖母が言っていた。エミリーはそのにおいを知りたかった。夜中に目を覚まし、彼女の体内で育った美しい少女の速い呼吸を聞きたかった。

 計画を立てなければいけない。

 二週間後には十八歳になる。その二カ月後には、母になる。仕事を見つけよう。両親の家を出よう。祖母はわかってくれる。わからないことは忘れるだろう。ディーン・ウェクスラーは、ひとつ正しいことを言った。エミリーは大人にならなければいけない。いまは、自分のこと以外にも考えなくてはいけないことがある。ロングビル・ビーチを離れなくてはいけない。ほかの人に考えてもらうのではなく、自分で将来の計画を立てなくてはいけない。なにより大事なのは、エミリーが手に入れられなかったものすべてを赤ん坊に与えることだ。

 優しさ。理解。安心。

 エミリーは目を閉じた。自分の体の中で、楽しげに浮かんでいる赤ん坊を想像した。大きく息を吸って、いつもの呪文を唱えはじめた。今回は義務からではなく、愛から出た言葉だった。

「あたしはあなたを守る─」

 パキンという大きな音にエミリーは目を開けた。

 黒い革靴と黒いソックスと黒いズボンの裾が見えた。顔をあげた。バットが空を切り、太陽が揺らめいた。

 エミリーの心臓がぎゅっと縮こまった。唐突に、どうしようもなく、恐怖に包まれた。

 自分のためではなく、赤ん坊のために。

 エミリーは両手で腹を抱え、脚を引き寄せ、体を丸めて横向きに倒れた。あと一瞬を、あとひと息を、エミリーは必死で求めた。小さな娘への最後の言葉が嘘にならないように。

 いつもだれかが彼女たちを傷つけようとする。

 彼女たちが安全だったことはなかった。
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続きは本書でお楽しみください。

『忘れられた少女』はドラマ化で話題の『彼女のかけら』関連作です。
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20カ国以上でランキング1位を獲得したNetflixドラマ原作
『彼女のかけら 上・下』


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