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【試し読み】『ロスト・アイデンティティ』 クラム・ラーマン〈著〉

【試し読み】
ロスト・アイデンティティ
クラム・ラーマン〈著〉
能田 優〈訳〉

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第一部

“目には目を”というやり方は、
結局のところ世界中の目を
つぶしてしまうだけだ
――マハトマ・ガンジー


1
 おれの名前はジャヴィド・カシーム。おれはムスリム。イギリス生まれのムスリムだ。
 9・11以来、運転中に何度パトカーにとめられたと思う? 一度だけだ。理由はウィンカーをつけずに車線変更をしようとしたから。そのときの警官は快く書類上の手続きを省き、口頭注意だけですませてくれた。車内の捜索すらされなかった。マリファナの匂いは隠しようもなかったのに。これまで一度も指紋を採取されたことがないのはおれの自慢だ。
 7・7のロンドン同時爆破テロ以来、何度人種差別を受けたかといえば、一度どころじゃない。〝パキ〟と呼ばれるのも日常茶飯事だが、いちいち気にしていない。仲間内じゃ親しみをこめてパキと呼びあっている。自分たちが何者かは自分たちがいちばんよく知っている。パキという言葉は侮辱に聞こえるかもしれないが、おれたちはむしろ誇りにしている。パキには純粋、清潔という意味があるからだ。知らなかったって? なら、これを機に勉強したほうがいい。
 おれは馬鹿でもなければ世間知らずでもない。世の中で何が起きているかはよくわかっている。だからうまく立ちまわる必要があることも心得ている。わかっていないやつは〝蹴ってくれ〟と書かれたデカい看板をしょって歩いているようなものだ。口髭を生やし、パキスタンの民族服であるシャワール・カミーズを身につけてホンダを乗りまわしていたら、車もとめられるし差別も受ける。その点おれはだいじょうぶ。うまく立ちまわっている。
 同胞が辛苦に耐えながら戦っていることは知っている。心から同情もする。でも、それはおれの戦争じゃない。原因は宗教だろうが政治だろうが金だろうが、行きつくところは同じ。流血、破壊、家族崩壊。そんなことにかかわりたくはない。少なくともおれの人生はうまくいっている。最近手に入れた黒のBMW5シリーズの走り具合と同じくスムーズに進んでいる。二年落ちのモデルだが、走行距離は三万キロにも満たないし、なんといっても乗り心地が最高だ。おれの仕事は車に乗っている時間が長いから、快適さははずせない。いわば移動オフィスってわけだ。支払った金は二万ポンド。少々吹っかけられたかもしれないが、べつにかまわない。ビジネスは順調で、払えるだけの余裕はある。
 ロンドンの西、アイズルワースにあるホームベース・パーキングの隅に車をとめて客を待つ。約束の時刻は過ぎていた。いつもなら腹を立てるところだ。でもいまは、ダッシュボードの計器類を見ているだけで頬が緩んでしまう。スピーカーの音質も最高で、2Pacのラップのリズムがいつにもまして心に響く。客がやって来た。そいつの格好を見て思わずのけぞった。白い無地のシャツをスウェットパンツにたくしこみ、安物のサンダルを足に引っかけている。いかにも、ついさっき移民ボートから降りてきましたって感じだ。こういうタイプは格好の標的にされる。誰だってかかわりたくはない。
 男はきょろきょろしていた。そうだった。おれは車を、それまで乗っていたノヴァからこのBMWにかえたことを教えていなかった。ヘッドライトを点滅させて合図すると、男はこっちに気づいてにんまりした。車のまわりを一周し、カスタマイズされたタイヤのリムを見て口笛を吹く。窓をあけて、乗れ、と声をかけた。男が乗って力まかせにドアを閉めたので、思わず文句が喉もとまで出かかった。
「サラーム、ブラザー」男が言った。
「遅いぞ」
「悪い、これでも礼拝から急いで駆けつけたんだ。モスクできみを捜したんだが、考えてみたら今日は木曜日だった。きみは金曜しか来ないんだよな、ジャヴィド」男はおもしろいことでも言ったかのように大声で笑った。
 おれたちは握手をして取引を終えた。彼はハウンズロウでいちばんのドラッグを得て、おれはけっこうな額の金を得た。男は車を降りて去っていった。ああいう、信心家ぶっているやつは気にくわない。この短い取引のあいだにあの男はふたつのことでおれを怒らせた。ひとつ目、毎日モスクに行かないことを暗に非難した。やつよりモスクに行く回数が少ないからといって、信仰心が足りないとでもいうのか。髭を生やしたらムスリムになり、マリファナを栽培したらムスリムじゃなくなるのか? そんなことはない。何をしようがムスリムはムスリムだ。あいつらがアラジン・バーガーショップでハラル・バーガーを食おうが関係ない。おれはバーガーキングでワッパーを食う。それでもおれはムスリムだ。酒は飲みたいときに飲むし、悪態もつく。女と寝るしギャンブルもするしドラッグもやる。だから? 何度も言うが、それでもおれはムスリムだ。アラーを信じている。おれを批判できるのはアラーだけだ。あいつじゃない。この国の人間の誰ひとり、批判する権利はない。
 ふたつ目、おれをジャヴィドと呼んだ。誰にもそう呼ばせていないのに。母親にさえ。ドラッグの売人の名前がジャヴィドじゃサマにならない。女にもモテない。ジャヴィドなんて名前の男に電話番号を教えるか?
 頼むよ。
 おれのことはジェイと呼んでくれ。


2
 その日も、おれは好きなだけ寝て適当な時間に目を覚ました。ベッドのなかで目をこする。金曜日。祈りの日。仕事を休み、身を清め、心を無垢にする日でもある。だが簡単なことではない。特に、ボリウッドのセックスシンボル、カトリーナ・カイフに見つめられていたら。どしゃ降りのなかで踊っている彼女のサリーは身体にぴったりと張りつき、曲線があらわになっている。その魅惑的な微笑みは朝から刺激が強すぎる。誘惑を振りきるように、目を彼女のポスターからマルコムXに移す。黒のスーツできめたマルコムの下には有名な言葉が書かれている。〝もし注意深く見ていなければ、新聞はあなたがたを操って、抑圧されている人間を憎み、抑圧している人間を愛するように仕向けるだろう〟うーむ。なんとも奥深い。マルコムXのことは、実はよく知らない。知っているのは彼がムスリムで、でかいことを成しとげて、モハメド・アリと友達だったってことぐらいだが、それだけでも充分すごい。彼について書かれた本も持っている。読んではいないけれど、どこかその辺にあるはずだ。映画は何回も観た。デンゼル・ワシントンのマルコムXはまさにはまり役だ。
 礼拝は午後一時からはじまる。サットン・モスクまでは一・五キロほどだが、少なくとも三十分はかかると見ておいたほうがいい。金曜日の礼拝は参加者が多く、路上は駐車スペースを確保しようとするホンダとニッサンで混みあうからだ。ベッドのなかでぐずぐずしながら携帯電話をチェックする。飢えた顧客たちからのブツを求める着信。〝悪いね。今日はだめなんだ〟これがおれからのいつもの返信。母親からのメールもあった。朝食の目玉焼きは片面焼きでいいか、と訊いている。もちろん、とかえすと、〝だったら卵買ってきて〟という返事がくる。階下のリビングルームでテレビを見ながら笑っている姿が目に浮かぶ。うちの母はいい親だ。ほかの親みたいに勉強、勉強とうるさく言わなかった。
 おれは母親と同居している。生まれたときからずっとふたりきりだ。あと二年で三十歳になるが、家を出るつもりはない。いまどきの家賃はいくらすると思う? ふざけてんのかってほど高い。それに、アジア系の人間なら親と同居するのは恥でもなんでもない。ごく普通のことだ。おれだってこの歳になるまで家にいるとは思っていなかったけれど、まあ、しょうがない。とりあえず健康には恵まれているし、ポケットには金がある。人生はそう悪くない。ドラッグの売人なんかやめてまともな職に就けだの、ぬくぬくとした環境を飛びだせだのとえらそうに言う連中もいるが、余計なお世話だ。
 父は、おれが母のお腹にいるときにバイク事故で死んだ。だから姿を見たことはないし、喪失感を覚えたこともない。最初からいないのだから当然だろう。結婚はお見合いで、一年とたたないうちに事故が起きた。母はさほどショックを受けなかったらしい。まだ父を愛しはじめていなかったから、といつか話してくれたことがあった。なんにせよ父は死んだ。それでも世界はまわりつづけ、母はおれを抱えて生きつづけるしかなかった。
 母はおれを子供扱いはしない。かといって大人扱いもしない。母にとっておれは子供と大人の中間に位置する人間なのだろう。母に男友達がいることも、夜に出かけていることも知っている。母のほうも、おれが遊び歩いていることに気づいている。だが、おれが警察の世話にならないかぎり、そして母が男を家に連れてきて父と呼ばせないかぎり、おたがい目をつぶっている。そこには、個人的なことに口出しはしないという暗黙のルールがある。
 
 礼拝に備えて念入りにシャワーを浴びる。湯をとことん熱くし、身体についた罪をすべて洗い流す。皮膚をごしごし洗う。奔放な行為をなかったことにするために。二日酔いでモスクに行きたくなかったのでゆうべは酒こそ飲まなかったが、マリファナを吸いまくったあとBMWの後部座席でパキスタン人と白人のハーフの娘と有意義なコトをしてわが愛車に洗礼を施した。そのあいだじゅうかけていたビヨンセの曲にはうんざりだったが、女の子はその手の歌が好きだろ。女性の自立がどうのこうのってやつが。
 シャワーのなかで歯を二回磨き、口に残っている彼女の味を消す。特に舌はもげるかと思うほど強く磨いた。最後に局部を洗う。これで罪から解放されて清浄になる。
 こうして金曜日だけはおれの心のなかの悪魔が天使と入れかわるわけだが、おかげで一日じゅう罪の意識につきまとわれることになる。シャワーを出て、清潔な服を着る。ゆったりした濃紺のジーンズ、無地の黒Tシャツ。神を冒涜するような言葉やイラストがプリントされたものはご法度だ。そのことは昔からミスター・プリザによく言われていた。ミスター・プリザは雑貨屋の店主で、放課後に開かれるイスラム教勉強会の先生でもある。アフターシェーブローションは、アルコールが入っていないかをたしかめてから使う。スニーカーは脱ぎやすく、かつモスクの靴箱に置いておいても平気な古いものにする。ムスリムであろうがなかろうが、手癖の悪いやつはどこにでもいる。まえにエアジョーダンの限定モデルを履いていって、帰りは靴下のまま帰るはめになったことがあった。あんなことは二度とごめんだ。教訓からは学ぶべし。
 清潔になったし服も着た。だがこれで準備万端というわけではない。シャワーで汚れは徹底的に落としたが、まだウドゥーという浄めの行為をしていない。ウドゥーの手順はまず、手から肘を三回洗う。次に口を三回ゆすぐ。それから顔を三回洗う。さらに、濡らした手を額からうなじへとすべらせる。耳の後ろと内側の部分をきれいにする。最後に足を三回洗う。すべての動作はできるかぎり右手で行わねばならない。もしウドゥーをはじめてから礼拝が終わるまでのあいだに小便あるいは大便をしてしまった場合、ウドゥーは破られてしまうのでまたやり直さなければならない。屁をしてもウドゥーは破られる。居眠りをしたり、意識をなくしたり、出血をしたり吐いたりしても。正直いって面倒くさい。だからおれは金曜日しかやらないが、ほかの者は一日に五回も、それも毎日欠かさずにやっている。
 母にキスをしてリュックサックを背負い、外に出る。陽光がふりそそいでいるが空気はひんやりとしている。いままで乗っていたノヴァの横を通りすぎるとき、愛情をこめてルーフを叩いてやった。おれのはじめての、そして自慢の車を売るのは忍びない。BMWのトランクをあけて、マリファナと札束がつまったリュックサックを入れる。金曜日に商売はやらないが、このリュックサックはつねにそばに置くようにしている。それに金曜日はサイラスに売上金をおさめる日でもある。おれにマリファナを卸しているサイラスは金を受けとったあと、ブツの売れ残りの状況を見て補充の量を決める。エンジンをかけるとエアコンがあっというまに効いてきた。オーディオをCDからラジオに切りかえる。ラップを聴くわけにはいかない。せっかく浄化した心が不敬な言葉やわいせつな言葉に汚されてしまっては元も子もない。そうしておれはサットン・モスクに向かった。
 
 モスクの脇の駐車スペースがいくつか空いていた。一時間早く来てしまったのかと思い、時計を二度見する。いつもならこの時間のモスクの周辺はパキスタン人であふれかえり、通りには行列ができているのに、今日はひっそりとしている。
 とにかく、モスクの真ん前の狭いスペースに縦列駐車をすることにした。もっと広いところが空いていたが、みんなの目にとまる場所にこの車を置きたかった。何度かやり直してようやく車をねじこみ、エンジンを切ってからはっと気がついた。麻薬と、それを売るという不道徳な行為で稼いだ金がトランクに入っている車を神の家のこんな近くにとめるべきではなかった。
〝神よ、赦したまえ〟とつぶやきながら、ひとけがあまり感じられないモスクに入る。最初に見えたのはケヴィンという、白人のムスリムの姿だった。彼のそばにある靴箱はほとんど空だ。ケヴィンは激した様子でモスクの指導者のミスター・ハムザに食ってかかっていた。
「通報したのにこれだけですか」ケヴィンは信じられないといった口調で持っていた紙をひらひらさせた。「被害届なんか出してなんになります?」その用紙をくしゃくしゃに丸め、床に投げつけようとしたが途中でやめてミスター・ハムザにかえす。
「ブラザー・ケヴィン、われわれは気を強くもたねばならないのだ」ミスター・ハムザは礼拝のときと同じような、感情を表に出さない口調でそう言うと、丸まった用紙を広げて皺をのばして折りたたみ、上着のポケットに入れた。「いまは冷静になって神を信じるときだ。たしかにきみやみんなの言うとおり、警察はあてにならない」
「ではなぜ通報したのですか」
 ミスター・ハムザは、教徒たちからよくからかわれている子供みたいなすきっ歯を見せて微笑んだ。「犯罪が起きたら通報する。たとえ意味のないことであっても、自分たちが住むと決めた国の法律には従わねばならない。さもなくば、その辺のならず者と同じになってしまう」
 おれはスニーカーを脱いで靴箱に入れると、頭を低くしてミスター・ハムザとケヴィンの横を通りすぎ、礼拝堂に入った。
 目に飛びこんできた光景に、思わず吐きそうになった。
 何人かの教徒たちが奥の壁際にいた。その壁には二匹の豚の絵がスプレーで落書きされている。一匹の豚は口からセリフを吹きだしている。〝おれを食え。食えないならこの国から出ていけ〟 もう一匹の豚は爆弾がついたベストを着ていて、その横には〝ドッカーン〟という文字が書かれている。おれは目をそらして天を仰いだ。天井には、二カ月前に寄付金で購入した美しいシャンデリアが取りつけられているが、そこからは女性物の下着が何枚か垂れさがっている。怒りに足を震わせながら礼拝堂のなかを歩く。大型の書棚に収まっていたイスラム教の書物は床に放りなげられていて、かわりに女性や同性愛者のヌード写真集が乱雑に詰めこまれている。カーペットは剥がされ、むきだしになった床一面に卑猥な言葉が殴り書きされている。おれは堅く冷たい床の上で茫然と立ちつくした。
 いつもなら礼拝堂いっぱいに教徒が並び、一糸乱れぬ動きでアラーに向かって祈りを捧げているというのに、いまはたった十人ちょっとの者たちが静かに片付けをしている。
 そのとき、教徒のひとりの髭を生やした男が梯子をシャンデリアの下に持ってきた。しかしそばには立てかける壁がない。男は苦い顔をして首を振り、梯子を床に置いた。するともうひとりの教徒がテーブルを持ってきて、その上に椅子を置いた。それで高さが確保できた。そしてその男が椅子を押さえると、髭の男がテーブルから椅子へとおそるおそるのぼっていく。ついに下着に指が届いた。回収された下着は速やかに黒いゴミ箱に捨てられた。
 知った顔はいないかと周囲を見まわす。パルヴェスがいた。おれの家の、道路を挟んだ向かいに住んでいるやつだ。あいつほどうざくて、それでいて人のいいやつはいない。おれの幼なじみで、蚊みたいにうっとうしくまとわりつき、しょっちゅうアポなしでうちにやってくる。パルヴェスにイスラム教の話題を振ったら最後、神への崇敬だの預言者ムハンマドの言行録だのといったことを延々と語りつづけるだろう。悪いやつじゃないが、長くいっしょにいたいタイプではない。
 パルヴェスは床に膝をついてばらばらになった祈りのビーズや散らばった本を拾ったものの、それらをどうすればいいのかわからないらしく、途方に暮れている。おれは隣にしゃがんで拾うのを手伝った。パルヴェスが濡れた目でこっちを見る。ふいに、涙が目に染みて痛みを覚えた。まばたきをして痛みをこらえ、パルヴェスの肩に手を置く。
「やつら、おれたちの家を汚しやがった」パルヴェスの声は震えていた。
「パルヴェス、いったいどこのクソやろ─いや、誰がこんなことをしたんだ」おれは言葉づかいに気をつけながら訊いた。
「異教徒の仕業だよ。そいつらがやったんだ」
「でもどうやって? ここにはいつも誰かがいるだろう?」
 パルヴェスは首を振り、涙を拭った。「詳しいことはそのうちわかるさ。神の御心のままに。それによっておれたちの出方も決まる」
 おれは同意をこめてうなずいたが、何に同意しているのか自分でもよくわからなかった。

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続きは本書でお楽しみください。

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