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【試し読み】話題の韓国ミステリー『誘拐の日』

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誘拐の日
チョン・ヘヨン[著]
米津篤八[訳]

プロローグ
一九八九年四月二十四日

 男はまだ二十四歳だった。大人であって大人でない、そんな年齢。先に兵役を済ませてきた学生が、新入生を相手に先輩風を吹かす年齢。その一方で、親からは「もう大人なんだから。就職はどうするの?」と小言を聞かされる年齢。そんな二十四歳だった。
 軍事独裁打倒を叫んで街路で火炎瓶を投げたこともあるが、友人たちが戦闘警察(デモの鎮圧などにあたる警察の治安部隊)に連行される姿に背を向けて以来、大学の仲間たちとは縁を切った。男は何にでも耐えられると思った。妻と生まれてくる子どものためなら。
 予定外のことだったが、恋人から妊娠したと聞かされたとき、男は飛び上がるほどうれしかった。男の父親は脳卒中で倒れたうえ、全身に肝がんが転移して寝たきりとなり、家の蓄えを全部使い果たしていた。男の母親は高速道路の建設現場で作業員の食事係をしながら、借金取りを恐れて深夜に帰宅する毎日だった。そんな一家にとっては、生まれてくる子を寝かせるのがやっとの狭い地下のアパートを借りることさえ大変だったが、それでも男はうれしかった。家計が傾いてもやめなかった大学も、子どもを育てるためなら諦めてもいいと思った。罪の告白でもするように、思いつめた顔で妊娠を告白した恋人のスヨンも、男の喜ぶ顔を見てほっとため息をつき、ぽろぽろと涙をこぼした。それを見て、男は決意した。我が子には必ず自分とは違う人生を与えなくてはと。いや、そう決意したはずだった。
 耳をつんざくような突然の悲鳴に、男はハッと顔を上げて周囲を見回した。男はいま、希望病院の診察室の前にある待合室に座っていた。悲鳴は診察室とは反対側の、廊下の突き当たりの分娩室から聞こえてきた。臨月を迎えた、あるいはお腹が目立ちはじめた妊婦たちが、悲鳴に顔を曇らせ、自分のお腹をなでさすった。
 ──誰もあのことを知らないのか。
 男は大声で叫びたかった。「みんなこの病院から出ていけ、ここはまともな病院じゃない」と。花のような笑顔を見せてくれるはずだった我が子の一生と、その子を泣き笑いしながら育てる幸せを手にするはずだった女の人生と、その二人を守ることに生涯を捧げようと決意した自分の生きがいを、この病院は一瞬にして踏みにじったのだ。世界に向かって、そう叫びたかった。
 だが、男は熱い火の玉のように込み上げるものをぐっとのみ込んだ。ここでこらえなければ、すべてが台なしになってしまう。代わりに、分厚いジャンパーの上から胸元をまさぐった。固いものが手に触れる。すると火の玉はやっと少し落ち着いたようだった。
「パパの仕事場も見てみるかい?」
「うん!」
 聞き慣れた、絶対に忘れられない声だ。男は顔を上げた。院長だった。四十代前半のはずだが、二十四歳の自分よりも若く見える。顔には張りがあり、自信がみなぎっていた。ぴんと伸びた背筋に白衣がよく似合う。「パパ」と呼ぶ子どもの手を握ってさえいなければ、若い女性にもてそうだ。院長の真新しいワイシャツの白さがまぶしくて、目に突き刺さるようだった。
「部屋にお茶菓子を用意させました」
 院長の一歩後ろを歩く男性は、医事課長のヤン・テフンだった。その顔には見覚えがあったが、男が以前に会ったときとは態度も表情もいまとまったく違っていた。
 ──ここで四の五の言ってないで、法に従って決着したらどうですか。どんなに頑張っても、死んだ子が返ってくるわけじゃありませんよ。
 あのとき、ヤン・テフン課長は男に、「これ以上、自分を困らせないでくれ」と言った。ヤン・テフンに病院の外に押し出されて、冷たい歩道に転がったとき、男は誓った。よし、法で決着してやろうじゃないか。ただし、ペン先をくるくる回しているだけのお前らの法じゃなく、俺の法に従ってな。
 院長が目の前を過ぎて二階への階段に足をかけるまで、男は座ってうつむいていた。いま気づかれたらまずい。院長は、かわいくてしかたがないという表情で、娘を見つめている。女の子は七、八歳くらいで、まだ薄い髪をぴょんと二つ結びにして、赤いリボンをつけている。赤のダッフルコートに白いタイツ、そして童話に出てきそうな赤い靴を履いていた。色白で愛くるしいその顔からは、温かいミルクの匂いがふんわりと漂ってきそうだ。うちのナヨンもあの年ごろになれば、同じくらいかわいかったろうに。〝ナヨン〟という名前は、男が妻と頭をひねってつけたものだった。だが、子どもは自分の名前を耳にする前に息を引き取った。妻の胎内で、妻とともに─。
 自分は子どもの顔さえ知らないというのに、娘の顔に笑顔を向ける院長を見ていると、全身の臓器がよじれるようだった。男は立ち上がり、ふところに手を入れた。冷たく固い感触を確かめながら、階段を上っていく院長の背後に一気に迫った。
「あっ!」
 足音が聞こえたのか、ただ何の気なしにか、振り返ったヤン・テフンが男に気がつき、目を見開いた。その短い叫びに、院長も振り返った。その間に男はふところから取り出した刃物を握りしめた。この瞬間をどれほど想像し、待ちわびてきたことか。男は左手で刃物を握り、右手でヤン・テフンをぐいと押しのける。ヤン・テフンがいつかの男のように、階段を転がり落ちていく。男は続けて院長に駆け寄る。院長は反射的に娘を自分の背後にかばった。男は院長の胸ぐらにつかみかかり、刃物を高く振り上げた。院長の後ろの窓から差し込む日の光に、鋭い刃先がぎらりと輝く。診察室の前で順番待ちをしていた患者とその家族たちのあいだから悲鳴が上がる。
 これですべてが終わる─。しかし、男よりヤン・テフンの方が一瞬早く、その足首をつかんだ。男が気を取られた隙を逃さず、院長が力いっぱい男を突き飛ばした。階段を転がり落ちたところを、ヤン・テフンが組み伏せた。刃物はすでに男の手を離れていた。男は下敷きになったまま、うめき声を上げた。このままあっけなく終わってしまったら、胸の中で燃えさかる火の玉に焼かれて死んでしまいそうだった。
 警備員たちが駆けつけ、そのうちの一人が男の胸ぐらをつかんで引き起こした。
「おけがはありませんか?」
 階段の途中でまだ荒い息をついている院長に、ヤン・テフンが声をかけた。院長は片手で娘の目を覆い、血の気が引いた顔で動悸を鎮めようとしていた。
 警備員に取り押さえられた男は両手を背中に固定されたまま身をよじり、獣じみた奇声を発している。白目をむいたその様子は、誰が見ても正気とは思えなかった。ヤン・テフンが誰かに警察を呼ぶように告げた。
 そのとき、男の目に奇妙な光が宿った。焦点を失いかけていた目がある一点を見つめた。院長が立っている階段の向こうから看護師が降りてくる。二階にいて騒ぎを知らなかったのか、階段の途中で驚いた顔で足を止め、その場に立ちすくんだ。片手にステンレス製の四角い針捨てボックスを持っている。
 妻子を亡くして以来、男は酒をあおるばかりだった。食事も睡眠もろくにとらず、体は弱り切っていたが、その瞬間だけは自分でも不思議なほど全身に力がみなぎった。
 男は気合のような声を上げながら身をよじった。驚いた警備員たちを振り払って、一気に階段を駆け上がる。院長は壁に身を寄せて男を避けたが、武器を奪われた男が目指したのは看護師だった。彼女の手から針捨てボックスを奪うと、中にあった物を手当たり次第につかんだ。日差しが目を射る。男は院長に向かって跳びかかり、手につかんだ物を振り回した。何か熱いものが顔にはねた。
「やめろ!」
 院長の怒声が院内に響いた。男は顔を上げた。人々が悲鳴を上げながら外に飛び出していったが、不思議なことに男の耳には何も聞こえなかった。ただ金属の摩擦音のような鋭い耳鳴りがしているだけだ。
 院長が娘を抱き寄せた。うなじが切り裂かれ、傷口から流れ出る血が彼女の白い肌を染めて赤い靴の上にしたたり落ちた。男の手には血まみれの注射器が握られていた。
 男は妻と子どものためなら何でもする覚悟だった。だが、これは自分が望んでいたものではなかった。

第一部
誘拐

1
二〇一九年八月二十一日 水曜日

 暗闇が世界をのみ込むころ、ミョンジュンは心を決めた。決心を何日も先延ばしにしてきたが、これはやむをえない選択だ。四方はすでに絶壁で囲まれており、後戻りしようにもできない状況だった。
 胸を固い決意で満たして立ち上がったものの、ミョンジュンの脚は震えていた。この二日間、水も口にしていない。ぺたんこの腹をベルトでぎゅっと締めつける。Tシャツはどこだっけか。部屋の隅に雑巾のように丸められたパーカーがあったが、元の色が白だとわからないほど黄ばんでいた。ほこりをはたくことさえせず、パーカーに頭をつっこむ。しばらく思いにふけっていたが、まもなく頭を振ると家を出て、庭に止めてあった車に乗り込んだ。
 ミョンジュンは闇の中を走り、光に到達した。山の中腹にあるミョンジュンの家とヨンイン市内には、まるで時差があるようだった。白夜は大げさとしても、街なかの大通りは闇など存在しないみたいに明るい。彼は光の中を通って、自分がやるべきことをやるために、その場所に向かった。
 紙に書かれた住所をあらためて確認する。ここ数日、幾度も読み返していたので、いまや脳に刻みつけられた文字列のはずだが、生まれて初めて見る気がした。下唇をぎゅっと噛む。実行へのためらいは、車を走らせはじめたときに捨てた。弓から放たれた矢は、的に当たろうが当たるまいが行き着くところまで行くしかない。
 ─事前に防犯カメラの位置を確かめておくんだった。
 ヘウンはこう言っていた。その地域には防犯カメラがそう多くないので、現地に行けば死角を見つけることは難しくない。かえってそこに何度も行けば尻尾をつかまれる恐れがある、と。だが、ミョンジュンは落ち着かなかった。入学、全国体育大会のマスゲーム、大学入試……。そんなイベントのたび、ミョンジュンは事前準備を欠かさなかった。「予行演習は試行錯誤を減らしてくれる」というのが、彼のモットーだった。ならば、彼の人生がこうなったのは、どんな予行演習が足りなかったせいなのか。
 準備が全然足りないことへの気がかりを忘れようと、ミョンジュンはできるだけ脇道を走ることにした。運転しながら時々視線を上げて、路地を監視する防犯カメラの位置と方向を確認する。
 そのとき電話が鳴った。ヘウンからだ。取ろうかどうしようか迷ったが、着信音が鳴りやまないので、結局スピーカーに切り替えて電話に出た。
 ─もう家に入った?
「いや、まだ。でも、もうすぐ着く」
 視線は空へ、意識はもっと遠い暗闇の中へ向かっていた。そのせいか、車の前をさっと横切る黒い影に気づいたとき、ハンドルさばきが一瞬遅れた。猫が走り過ぎるのを横目でちらりと見て、ほうっとため息をつく。そして正面を見た瞬間、ドスン! という音とともに、何かがバンパーにぶつかって倒れた。
 ─どうしたの?
 ヘウンの声が聞こえてきた。ミョンジュンはブレーキを踏んだまま、どこかに飛び去りそうな意識を何とかつなぎ留め、わなわなと全身を震わせていた。サイドブレーキを引こうとするが、手に力が入らない。しっかりしなければ。しっかり……。やっとのことでサイドブレーキをかけ、震える手でパーカーのフードをかぶって車を降りた。少し離れた場所に、小さな体がうつぶせに倒れている。
 幸い、車のナンバーは段ボールで隠してある。あらためて周囲をうかがう。深夜の路地。道行く人もおらず、上から見下ろしている人もいないようだ。
 足早に子どもに近づく。地面に横たわった女の子の額の下から、蛇がのたうつように血が流れていた。
 二本指を首筋にあてて脈を確かめてから、仰向けに寝かせる。子どもの顔が見えた。
 ミョンジュンは目を丸くした。まぶたが小刻みに震える。これは運命かもしれない。そのまま子どもの背中に手を回して抱きかかえ、車に乗せた。電話のスピーカーからは、彼の名を呼ぶヘウンの悲鳴のような声が聞こえる。事故の音から車のドアが開閉する音まで、ヘウンにはそっくり聞こえていたはずだ。
 ─もしもし? いったいどうしたの? 事故? 何があったの?
「大丈夫だ。どうせ俺たちが誘拐するはずの子どもだったから」
 ミョンジュンは力いっぱいアクセルを踏んだ。


2
二〇一九年八月二十二日 木曜日未明 誘拐から二日目

 出血しない方が危険だという話を、テレビか何かで見たことがある。血液が体外に流れ出せばいいが、体内に溜まってしまうと脳圧が上がり、脳の障害で死に至る可能性が高いというのだ。この子は出血しているから、死ぬことはないだろう。だが、顔は紙のように真っ白だった。ミョンジュンは震える手で頭を抱えた。死んでしまったのではないかと、何度も鼻の下に自分の指をあてた。そのたびに、スースーとかすかな鼻息を指に感じたが、それは自分の願望のせいかもしれない。彼は子どもの胸に耳をあて、鼓動を確認しては低くため息をついた。
 ドスン!
 子どもを車ではねたときの音が、頭の中で響いた。ミョンジュンは両手で耳をふさぎ、肩をすぼめた。目を閉じると事故の瞬間がよみがえる。彼はぶるぶると指を震わせながら目を開けた。
 あらためて子どもの顔を確かめる。チェ・ロヒ。十一歳だそうだ。やや面長で口が小さく、きりっとした印象だ。大きな目と白い肌が黒髪に映える。おかっぱ頭よりもかなり短いショートカットのせいで、一見するとかわいい男の子のようだ。当然、学校に通っているのだろう。ミョンジュンはヒエのことを思って、胸が痛くなった。学校に行くなど、夢のまた夢の自分の娘……。とにかく、もしこの子の小さな体にヒエと同じく何十本もの管や呼吸器をつけさせることになったら、自分を一生許せないだろう。
 床に置いてあった携帯電話が震えた。発信者番号を見るまでもない。この携帯は共謀者のヘウンから渡されたものだった。持ち主を追跡されないためだという。架空名義なのだろうが、あえて確かめなかった。どこで入手したのかも聞かなかった。いまは何も知りたくなかった。彼は娘のヒエのことだけを考えた。尻込みしそうになるたびに、やらねばならないと自分に言い聞かせた。
 ミョンジュンは携帯を手に中庭に出た。意識不明とはいえ、子どものそばでするような話ではない。空はまだ闇に包まれており、熱い風がミョンジュンの体にまとわりついた。
 ─どうなった?
 ヘウンの声は思いのほか冷静だった。
「まだ意識が戻らない」
 ─どうするの。だから気をつけてって何度も言ったのに。
 別に事故を起こしたくて起こしたわけじゃない。怒りが込み上げたが、ミョンジュンは唇を噛みしめてこらえた。ヒエのことだけ考えよう。ヒエのことだけを。
「しかたないだろう。このままやるしかない。とりあえず電話を切るよ。子どもの意識が戻り次第、家族に連絡する」
 ヘウンに何か言われる前に、電話を切った。疲れていた。片手で髪をかき上げる。これまでの惨めな人生を思って深いため息がこぼれた。どうしてこんなことに……。いや、考えるのはよそう。いまは何も─。そして部屋に戻ろうとした瞬間。
 澄んだ瞳がこちらを見ていた。
「あっ!」
 思わず声を出して後ずさりした。いつの間に起きたのか、いや、いつ扉を開けたのか、子どもが隙間から顔をのぞかせている。その丸く大きな瞳を見て、ミョンジュンは恐ろしくなった。
 何から話せばいいのか。この子にいまの状況をどう説明すればいいのか。いや、まずは体の具合を確かめるべきだろうか。頭が混乱したミョンジュンは、次の瞬間、しまったと思った。子どもに顔を見られてしまった。
「誰なの?」
 子どもに質問された瞬間、全身から血の気が引くようだった。いまやるべきことは何か。顔を隠そうか。それとも子どもに目隠しをしようか。まるで風呂場にいきなり男が入ってきて上と下のどちらを隠すか迷う女性のように、いま何をどうすべきかわからず、ミョンジュンはうろたえた。
 子どもの澄んだ目にじっと見つめられて、ミョンジュンはまた後ずさりした。だが、誘拐の初心者にもひらめきの瞬間は訪れる。ズボンのポケットの膨らみが目に入った。やはり、備えあれば憂いなしだ。
 何か問題が起きたとき、例えば子どもが逃げようとした場合などに備えて、最後の手段として、きれいに巻いたナイロン紐をズボンのポケットに忍ばせておいたのだった。ミョンジュンはポケットに手を入れて紐を握りしめると、それをサッと取り出して背中に隠した。素早い動きだったので、何をしているのか見えなかったはずだ。
「その紐は何?」
 見えていた。
「ああ、これか? 洗濯物を干そうと思って」
 言葉とは裏腹に、ミョンジュンは紐をぽいっと放り投げた。子どもが目をそらさずにじっと見つめてくる。自分の質問にちゃんと答えるよう促しているかのようだった。ミョンジュンは足元に落ちた紐のかたまりに、ちらりと目をやった。相手は子どもなので、一抹の罪悪感があるのは確かだ。可能なかぎり人道的にやるべきだとわかっていても、誘拐は誘拐だ。監禁したり縛り上げたりすることは避けられないだろう。
「つまり、俺が誰かというと……」
 ミョンジュンがそろりそろりと紐に手を伸ばす。そのとき、子どもが口を開いた。
「私は誰?」

「記憶がまったくないだって?」
 驚いたミョンジュンの声が部屋に響いた。動揺を隠せず、しきりにあごに手をやったり髪をかきむしったりを繰り返す。そういえば事故で子どもが倒れたとき、何かが強くぶつかった音を聞いた気がした。そのときに脳が損傷したに違いない。
 記憶喪失の当事者はといえば、何事もなかったように床の上に寝転がっていた。部屋の隅にあった孫の手が珍しいのか、それを握っていろいろな角度からじっと見ている。不安になっているのはミョンジュンの方だった。この想定外の状況が一世一代の今回の誘拐にどんな影響を及ぼすのか、頭の中で計算してみた。しかし想定外の問題というのは、想像することすら不可能なことだ。彼は考えを整理できなかった。
 落ち着かずに狭い部屋の中をうろうろ歩き回っていたミョンジュンは、ロヒの前に座り込んだ。
「本当に記憶がないのか? 一つも?」
「うん。いったい、どうなってるの」
 抑揚が変だった。炊飯器の音声ガイドのような声だ。いや、むしろ炊飯器の声の方が自然な気もする。ミョンジュンはポケットの中の小さなメモをいじっていた。親指の爪ほどの大きさにきちんと折りたたまれたその紙には、ヘウンの字で子どもの名前と年齢、住所が書かれていた。十一歳だというが……。大人よりも生意気な口の利き方だ。最近の十一歳はこんな話し方をするのだろうか。ヒエもあと二年もしたら、こんなふうにしゃべるのだろうか。想像もつかなかった。
「誰」
 イントネーションが不明瞭だったが、誰なのかと聞いているのだろう。自分をじっと見つめるロヒを見ながら、その問いが誰のことを指しているのか気になった。
「お前のこと?」
「違う。お前」
「俺? 俺は……」
 自分のことをどう説明すればいいのだろう。誘拐犯だと言うわけにもいかないし。どう説明すれば、家族から金を受け取るまで監禁したり縛ったりすることなく、可能なかぎり人道的な誘拐犯でいられるのだろうか。そんなことを考えながらも、ふと「待てよ」と思った。いくら自分が誘拐犯でも、こんな口の利き方はないだろう。思い直したミョンジュンは言った。
「おい、〝お前〟はないだろう」
「いまそれが重要なの?」
 確かにそうだ。いま重要なのは、言葉づかいなんかじゃない。
「まあ、そうだな。俺は……」
「パパ?」
「え?」
 ミョンジュンの肩がびくっと震えた。一方のロヒは「はぁ?」と言って首をかしげている。記憶を失っていても、どうも違う、という強い違和感を持ったのかもしれない。そういえば、昔ヒエといっしょに見ていた荒唐無稽なTVドラマでも、記憶喪失になった主人公が親を探しながらこんな反応をしていた。ロヒはなんだか疑わしいという目つきでミョンジュンを見た。
「やっぱり違う……。なんかピンと来ないし」
「そうだよ。パパだってば!」
 ほとんど反射的に口から飛び出した言葉だったが、もしかするとチャンスかもしれないと思ったのも事実だった。父親ということにしておけば、こちらの言うことを聞いて、おとなしくしてくれるだろう。助けを求めて逃げ出さないよう、縛りつけておく必要もなくなる。いちばんの難題は、子どもの親に電話して脅迫することだが、子どもをうまくだませば、声を録音して聞かせることもできるはずだ。
「私の名前は何?」
 ミョンジュンはうろたえた。
「チェ……。いや、キム・ヒエだ!」
 ミョンジュンの口から、思わずヒエの名が飛び出した。何か怪しんでいるのか、ロヒは大きな目でミョンジュンの様子をうかがっている。その目に見透かされている気がして、ミョンジュンは目を合わせられなかった。しかし、そんなわけはない。ロヒは記憶を失っており、何よりもただの子どもだ。気後れしてしまうのは、自分が罪を犯したからだ。〝悪事を働くと足がしびれる〟ということわざがあるが、それは本当だった。
 信頼してもらわないと。ミョンジュンは精いっぱいロヒの目を正面から見つめた……見つめようとした……。だが、結局は目をそらしてしまった。心臓の鼓動が速くなり、深呼吸した。こんな調子では、捕まって刑務所に入るより先に心臓麻痺で死んでしまいそうだ。
 と、突然。ミョンジュンの首に向けて、ぬっと孫の手が突き出された。ミョンジュンは目を見開いた。ロヒが手に孫の手を持ち、ミョンジュンの喉に狙いを定めている。驚いて首をそらしたので避けられたが、そうでなければ喉元を突かれていたかもしれない。まあ、孫の手なら死ぬことはないだろうが。
 孫の手に狙われたまま、しばしの静寂が流れた。ロヒは目を光らせている。こいつ、本当に記憶喪失なのか。何か知っているんじゃないだろうか。沈黙が流れる部屋の中で、ミョンジュンが生唾を飲み込む音だけが大きく響いた。ロヒが口を開いた。
「ご飯」
 誘拐犯ミョンジュンに下された、人質からの最初の命令だった。

続きは本書でお楽しみください。


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