見出し画像

子どもを「信じる」ってどういうこと?MRIの所見でドクターに言われたこと

質を目指すと量が減り、量をこなすと質が低下する。これは私のnote記事を評したもの。周りを見渡すと、毎日まいにち、相当な文字量の記事を、それでいて内容もたいへんに充実した(情報としても価値があって、その人の価値観も.含まれていてその人の人となりがわかって、最後まで読んでしまうような論理的にもわかりやすい)記事をあげてらっしゃる方はやはり一定数います。そういう記事に出会うと、まったくいったいぜんたいこの人たちは、どんな頭と心をしているんだっと思うけれど、、、仕方がありません。私はそうでないんだもの。うらやましく思う気持ちは否定しないけれど、そこを見過ぎて自分の歩みを止めてたらなんのこっちゃない。

書きながら、生きていくと決めたのだから。

てなことで、これからはひとつひとつの記事に、もう少し時間を割いてもいいのかも、と思っており、できたら2日に1回くらいのペースは維持しつつ、投稿し続けていけたらいいな。

前置きここまで。今日は掲題の通り、「子どもの未来を信じる」ってことが、具体的にどういうことなのか、私なりに感じたことを書いておきたいと思っております。そもそも、そんなことを考えたのは、今回、脊髄脂肪腫の手術にあたって撮影した、MRIの検査結果についてドクターから新たな指摘を受けたことがきっかけとなっています。

子どもの成長について、悩んでいる…
我が子の人生や将来を考えるとついつい不安になる…


そんな親御さんに、ぜひ読んでもらいたいなって思っています。

いよいよ抜糸

今日は娘の抜糸の日。初めて抜糸の瞬間を間近に見ることができました。痛みは無いようで、したがって麻酔はなしで実行。でも皮膚がひっぱられて不快感があるのでしょうね。二歳の次女は、先生が糸を切っているその間、終始泣きっぱなしの暴れん坊将軍。起き上がろうとするのを看護師さんと私あわせて3人くらいで抑え込んでなんとかこうにか処置完了。

お風呂あがりだったけれど、もう全身汗だく(親子ともども)。そんなに必死に抵抗していたのね、とある意味、感服しました。

明日、傷口の様子を見て、お風呂にはいって、それでなんともなければ、明後日いよいよ退院と相成りました!やっほーい。

今回は、過去最長で2週間近く入院していた計算になります。14日もの間には、俗世では内閣改造とかジャ〇ーズの会見やら9.11メモリアルもあったのだけれど、全然まったく、追いついていません。

なんだか、浮世を離れていた感覚があり、退院後、ちゃんと社会復帰できるかいささか、不安も残ります。まぁまた頑張るけどね!!

MRIで言われたこと

さて。無事に抜糸までたどり着いた今回の入院生活。実は先週の術後のMRI検査において、また新たに、ドクターから指摘を受けたことがありました。それは…

「通常よりも、卵胞がよく見えている。」

これだけ聞いても「…だから??」となっているのですが、どうやらこの指摘は、今回の手術の担当医である脳外科の先生によるものではなく、MRIを担当してくださった放射線科の先生が気づいてくださったこと、のようなのです。

放射線科、脳外科、小児科…改めて、さすがこども病院!と言いますか。いろいろな科に細分化されていて、かつ娘はそんな、いろーんな科の先生のチェックのもと、手術をして、いまに至るのだなぁとちょっと感動してしまった私です。

で、「卵胞の大きさ」問題。これについては、実はまだ、具体的なお話を小児外科の先生から聞けておりません。その状態で、この記事を書いています。(おっと、ここで新たな科の名前がまた出てきましたね。今回の脊髄脂肪種は脳外科の担当ですが、「鎖肛」は”小児外科”で見てもらっています。ややこいな!)

脳外科の先生からは、「ちょっと大きいと言われたのですが、それがよくあることなのかどうなのか…。いますぐ何かをしないといけないことではないとは思うんですが。」というはっきりしないお答えを頂戴していて、モヤモヤが残っています(笑)。

素人頭だと、同じ病院にいるのだから、その状態が何なのか、脳外科の先生でもわかりそうなものを…と考えてしまいがち。でも、ここが専門病院のメリットでもありデメリット。専門的であるがゆえに、ここからここはこの科、あっちからそっちはあの科!という風に、かなり細かく守備範囲が分かれてしまっているんです。

だから、今回の「卵胞ちょっとよく見える問題」が何を意味しているかは、次回、小児外科の先生から詳細を聞くまで、よくわからないまま。そんな放置プレイな今、なのです。

さぁ、何かしらの指摘を再度、受ける可能性がまた高まってきました。「再度」と書くのは、今回の脊髄脂肪種の手術も、鎖肛の治療を進める中で見つかってしまったもの、だったから。

余談ですが、娘は生まれてすぐに鎖肛がわかり、当時の担当医にその頃「鎖肛”だけ”ってことは、まずない。9割のお子さんが、何かしらの合併を持っている。」と言われていたんです。こう言われてしまうと、なんだか恐ろしいことが待ち構えていそうで震えたのですが、9割、と言ってもその内情はいろいろらしく。「普通とは違う”かたち”や”状態”はあるけれど、経過観察でおっけー!!」という子も含んでの9割だよ、とのことでした。

鎖肛の治療の中では、おそらく普通に生まれてきたお子さんだったらしないであろうレントゲン撮影やらMRI検査やらを入念に何度も行います。だから、いろいろなことが「みえてしまう。」娘が手術することとなった脊髄脂肪種も、その「みえてしまった」もののひとつ。今回の「卵胞ちょっとよく見える」のも、新たな指摘につながるのではないかと心配をしています。

子どもの未来を不安視するときは「コレ」に陥っている

何かの病気なのかしら。
卵胞ってことは卵巣が原因やと思うんやけど、将来の妊娠とかに関係しちゃうのかしら。

またまた、不安が私の頭をもたげます。こんなとき、つまり、「子どもの未来を不安視するとき」は、冷静に分析するに、この思考に陥っていることがほとんど。つまり、今の姿ではなく、まだ見ぬ未来を勝手に決めているということ。

何かの病気やったらどうしよう。
⇒ちょっと待て。まだ何も決まっちゃいない。

卵胞ってことは卵巣が原因やと思うんやけど、将来の妊娠とかに関係しちゃったらどうしよう。
⇒これもちょっと待て。まず病気だったとしても、それがどんな症状を引き起こしていくものか、わからない。

未知なるものを、「そうである」ことのように信じ、まるでその未来がもうやってくると決めつけて、心配をするのです。

今の次女の、元気いっぱいな状態を、振り返ることもなく。手術という大きな山を一歩乗り越えて、元気に回復している彼女の生きる力を忘れて。

こんな状態になってしまう親の気持ち、これってでも、仕方がないことなのです。だって親は、子どものことが、とっても大切ですから。

それとはまた別に私の場合、生まれた時から病院や手術のお世話になり、何度も心がびくつく経験をしているから余計に、危険察知センサーが作動しやすくなっているのもあるかもしれません…。

子供のことをあれやこれやと心配するわたしたち親という生き物。でも今回に至っては、私はこういう方針で、こういう方向に心を動かしていこうと決めています。その一つ目が、子どもの生きる力を信じる、ということ。

「信じる」って、どういうことでしょう。今回の私たちの例を挙げながら考えてみたいと思います。

子どもを「信じる」ために親の私ができることと、したいこと

事実を正しく認識する

まず、正しい事実認識。これが出発点になりそうです。今、この子はどういう状況にあるのか。それを客観的かつ冷静に「みる/知る」

たらればはなるべく手放す。そのために、できうる対策について専門家にたずねる

先述のような、「〇〇だったら」などの思考は、いったん脇に置きます。正しい事実認識ができたら、(仮に何らかの病気などが判明してしまったとしても)その時点で、できうる対策についていろいろな人の意見を聞きながら決めるということが大事だと思っています。

私たちの場合なら、ドクターにたずねるってことになりますね。最悪と、最高の想定をしておいてもいい。

自分はどうありたいか決める

で、ここです。大事なのは、ここ。いろいろと正しい情報を得たうえで、できることも見極めたら、自分としての在り方を自分で決めることができたらベストだって思っています。

親として、子どもとこう向き合いたい
だけではなくて、
一人の人間として、こんな一生を歩みたい

私は、後者の方がより大事だと思っています。一人の人間として、そんな、子どもと離れた「理想の自分」みたいなものが見えてくると、その姿が自分を支えてくれるんじゃないかと思っているのです。

悩むのではなく、考える

将来のこと、わからないことを不安に思い続けることを「悩む」と言い、モヤモヤした状態に何らかの答えを出していこうとすることを「考える」ことだと、言います。子どものこと、愛しているから、何かあったらって思うと不安で心が押しつぶされそうになる。うん、それはもう痛いほどわかります。でも。

そんな、底のみえない不安から、自分を救うものがあるとするならば、

自分の在り方を、自分で決めようとすること
「よし、私はこうあるぞ」と、心をがしっとつかみ直すこと

こういう心持ちなのではないかと思っています。

正しく知り、できうる最善を考え実行し、そして自分は、いち人間としてこう生きていくと決めておく。これが延いては子どもの将来を、信じ続ける―彼らが強く生きていくであろう、自分の人生を、自分の力でよいものにしていける、と信じ続ける―ために、今の私に、必要なことなのではないかと思うのです。

さて、小児外科の先生の所見やいかに。また、書いていきますね。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?