感想「こころ」著:夏目漱石
こんにちは。はりまろんAです。
本の感想第2弾、お次は夏目漱石の「こころ」です。
「こころ」と言えば、教科書に載ってた記憶があるな~、だけどどんな話かほとんど覚えていないな…??ならば読まねば!という、半ば義務感にかられて軽い気持ちで読み始めました。結果、おうち時間が非常に有意義になりました。
それではよろしくどうぞ~
①ものがたりの概要
主人公の「私」は、当時大学生だった。夏休みに鎌倉の友達から遊びに誘われ、しばらく鎌倉に居た。「私」が鎌倉の海水浴場に行ったとき、海水浴場に居たある人になぜか惹かれ、毎日その人について行くようになり、そのうちよく話をするようになった。この「鎌倉の海水浴場で気になった人」が作中で「先生」と私から呼ばれている人だ。
その「先生」は、妻と2人で仲良く暮らしていた。世間とのかかわりを極力持たず、これといった仕事もしておらず、静かに暮らしており、月に一度、一人で誰かのお墓参りに行っていた。
「私」は、この「先生」が定期的に必ず一人で誰かのお墓参りに行っている理由や、「先生」が自分や自身の妻を含む人間全般を信用していない理由、「先生」が精力的に本を読み勉強しているのに外で仕事をしてそれを活かさない理由を知りたがった。
「先生」は、「私」がそれを知ることについてはじめは拒否したが、「私」と「先生」の仲が深まるにつれ、少しずつ理由を話す意欲を出し始める。
そのタイミングで、「私」の実父が体調を崩したと電報が入り、「私」は実家に様子を見に行くことになった。1か月ほどして「私」が実家から帰ってきたら、その様々な理由を話そう、と「先生」と「私」は約束し、「私」は実家に帰った。
1か月が経っても、尚父親の体調は悪く、なんならいつ亡くなるのかが分からない状態となり「私」は実家での滞在を伸ばした。その間、「先生」に手紙を出したりした。だが、待てど暮らせど返信は返ってこなかった。
それからしばらくして、父親の体調がぐんと悪くなった。実家には親族が集まり、父親の体調がひどくなっては集まり、落ち着いては自室にもどり、を繰り返す。その時に「先生」からの手紙が届き、内容を読んだ「私」は実家を飛び出し「先生」のもとへ向かう。
その手紙には、「私」が「先生」について知りたかったこととそのいきさつ(「先生」と「友人K」と「お嬢さん」との出来事)、そして「あなたがこの手紙を読むころには私はこの世にいないでしょう。」という内容が書かれていた。
②感想(個人的な感動ポイント)
感動ポイントがたっくさんある。物語的にもそうだけど、細かい部分で好きだと思った部分を挙げます。(同じこと思ってる人の意見を検索するの面白いね。)
②-1 人名に固有名詞が使われていない
なんだそんなこと?と思うかもしれないが、
作中の登場人物名を挙げてみると
「私」「先生」「友人K」「お嬢さん(妻)、(静)」「お嬢さんの母」「下女」「私の母」「私の父」「私の兄」「私の妹」「私の妹の夫」
と、固有名詞が先生とKしかない。(作中で、先生が妻の名前を呼ぶときに「おい、静」と呼ぶが、静の文字が出てきたのは一度だけなのでノーカンとさせてほしい。)
なぜ固有名詞を使わなかったのだろう。固有名詞を極力使わない様にすることで、先生とKを目立たせるためだろうか。物語の邪魔になるのを防いだのだろうか。登場人物はそれほど多くないから、純粋に名前をつけるのは無駄だと思ったのだろうか。「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」でもそうなのだろうか?くぅ、読んで調べたい、けれども手元に本がない。
雑談だが、はりまろんは、漫画でも小説でも、物語中の人名を覚えるのが苦手で、「あの蝶の羽織を着てる、毒で戦う剣士で黒髪のかわいい人」とか言ってしまう。胡蝶さんすき。
そんな自分の苦手意識と、人名に固有名詞をなるべく用いていないこの夏目さんの書き方がすごく合っていると感じて嬉しかった。夏目漱石の他の書籍も早く読もう。
②-2 「先生」が述べる、欲という罪悪のために善人が悪人に変わってしまうことへの怖さ
先生は手紙の中で、過去に慕っていた叔父に裏切られたこと、先生が友人の好きな人を横取り(横取りと言うのはしっくりこないが…)したことを綴っている。
先生は、叔父に「金」の面で裏切られた。先生は、20歳のころに両親を亡くし、両親が亡くなった後は、先生の両親が持っていた全ての財産を叔父が管理した。先生を東京に出してほしい、先生のことを何卒よろしく頼む、と先生の母が亡くなる前に叔父に言い、叔父も「わかった」と言った。先生の両親は叔父を信頼していたし、先生家族と叔父家族との交流はもとから多かったため先生も叔父を信頼していた。
両親が亡くなった後、先生の母が叔父に頼んだ通り、先生は東京に進学した。生活費も多くはないが普通の生活ができる程度には貰えていた。夏休みに家に帰ると、叔父叔母が家を管理してくれており笑顔で迎え入れてくれた。だが、「嫁を取るように」という圧力があった。先生は、はじめは気にしなかった。
しかし、次の夏休みに帰省すると、また「嫁を取るように」という圧力をかけられた。叔父の娘と結婚しろ、と迫られ、断った。その次の夏休みに帰省すると、叔父家族の先生に対する態度ががらりと変わっていた。叔父家族が先生に向けていた良い態度は、一変してしまった。(作中に明確には描かれていないが、先生家族の財産を公に正しい方法で手に入れかったのだろう。)
先生は、自分の家の財産について知ろうとした。実はこの叔父は先生の両親の財産を、自身の事業を立て直しに使っていた。先生の父が大事にしていたお茶のセットも売却され、金にして使われていた。両親が亡くなった時の財産と比べて、残っていたのはほんのわずかだった。(わずかながらも、先生1人が生きていくだけの金額はあったが…)
先生は、私に「造りつけの悪人が世の中にいるものではない」、「多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだ」と言っていた。それは、「金」である、とここで言っている。
では、「友人の好きな人を横取り」することは?「造りつけの悪人が世の中にいるものではない」、「多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだ」、それは、「恋」の時もそうだ。
先生は、下宿先のお嬢さんに恋をしていた。先生は、Kを下宿に寝泊まりさせる様に下宿先のお嬢さんの母に頼み、一緒に下宿するようになった。すると、Kとお嬢さんが親密になってきた。当然、先生はそれをよく思わず、嫉妬する。
Kが先生に、お嬢さんへの想いを打ち明ける。どう思うかとKは先生に問う。先生は、「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ。」と、Kがよく言う言葉を口にする。「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ。」とは、進む道以外のものに気を取られてしまうやつは馬鹿だ、という意味で、ここでは「進む道(=勉学)以外のもの(=恋)に気を取られてしまうやつは馬鹿」だ、ということになる。
先生は、Kがお嬢さんとの恋を進展させるのを反対した。いつもKが言っていることと、恋にうつつを抜かしている現在のKの姿とは矛盾しているではないか、と言った。Kはつらく思いながらも納得し、お嬢さんとの恋を進展させることを我慢した。その間に、先生はお嬢さんとの縁談の話を取り付けてしまう。Kは、ショックを受け自殺する。
先生は、善人であった。それが、「恋」という罪悪のために友人から女性を半ば奪うような、裏切るような行為へと導き、悪人となってしまう。
先生は、叔父から「金」という罪悪のために裏切られ、「恋」という罪悪のために友人を裏切った。人間は、金や恋などの罪悪により善人も悪人となりうる。だから、自分を、人間を信用できない。学んだことを仕事で外に活かそうと思えども、友人への裏切りへの後悔が常について回り、自分なんぞが人のためになるべきではないと思い込む。
ああ、こんな場面に直面したくないなあ。金でも恋でも、人を裏切りたくないし裏切られたくないなあ。先生は両方経験しちゃっていて、かつ真面目すぎる人だから、生きていくのつらいのは分かる気がする。罪悪というか七つの大罪にある様々な欲とうまく付き合って生きていきたいなあ、と思わされた。
②-3 現代では通常ひらがなで用いられている言葉が漢字で書かれている
そりゃ100年前の作品なんだから当たり前、といったらそれまでなんだけど、いまは普通ひらがなで表記されているものが漢字で書かれている。
不図、却って、其所へ、一寸、已むを得ず、可笑しい、非道い。
全て読めます?
ふと、かえって、そこへ、ちょっと、やむをえず、おかしい、ひどい。
はりまろんが一番感動したのは「不図」で、「図らず」。確かにふと、は、図らずだわ…ふと横をみる、図らず横をみる。つくづく日本語ってすごいよね。漢字ってすごいよね。漢字の語源マスターしてもっと日本語に浸りたい。
③いつかまた読む夏目漱石の作品に向けて
夏目漱石がいかに天才なのかがなんとなくわかった気がする。文の調子が、1冊中ずっと変わらない。言葉ひとつひとつが美しく感じる。現代の日本語が美しくなくなった、とは思わないけれども、100年前に書かれたこの「こころ」の中で夏目さんが1つ1つ選んで使った言葉は美しく見えた。2020年から100年後の小説は、どんな文体で書かれているのだろうか。
はりまろんも、文体の美しさ、noteで磨いてこうと思います。
読んだ本や勉強したことの備忘録です('ω')