感想「ドイツの犬はなぜ幸せか」著:グレーフェ彧子

はじめまして、はりまろんAです。

今回はグレーフェ彧子さん著作の「ドイツの犬はなぜ幸せか」を読んで思ったことをまとめます。よろしくどうそ~

①本の購入動機~感想①(あらすじ)

 ①-1.本の購入動機

私はもともと、人の幸せとは何ぞや、と考えることが好きだった。しかし、犬の幸せについてしっかりと向き合い考えたことは無かった。以前犬を飼っていたにもかかわらず。そんな中、本屋でたまたまこのタイトルを見かけ、ハッとして購入するに至った。あらすじは以下の様になっていた。

~~「「犬と子供はドイツ人に育てさせろ」というくらい、犬の飼い方に関して飼い主に厳しい義務が課せられている動物愛護先進国ドイツ。そのドイツのグレーフェ家の一員となった雌犬ボニーの目を通して、ペットと人間のよりよき関係を提言する愛犬家必読のユニークなレポート。」ーあらすじより抜粋~~

実在する「ボニー」という名前の犬目線でドイツにおける犬と家族、犬を取り巻く環境についてのレポートをしてくれるという。純粋に面白そうだ。購入後、さっそく前書きをよんでみた。以下の旨が書いてあった。

 -2.感想①(あらすじ)

「ドイツの犬を取り巻く環境は犬に優しい世界で、犬がそれぞれの家族や社会の一員として受け入れられている。人間の様に、当たり前に学校に通ったり、電車に乗ったり、レストランに出入りしたり、ホテルに泊まったり客の接待をしたりする。」

まじ???

これまで私は、犬と人、もっと言えばペットと人との関わりについて、なんとなく違和感を感じていたが、それが何かは気づけてはいなかった。それがこのまえがきを読んで明確に分かった。

(日本人は、と一括りにするとまずいが、)大抵の日本人はペットはペット、人は人、と線引きをして接しているのだ。「ペットは家族だ」と思っていても、日本では環境的に連れていけない場所が多い。その結果、生活的に線引きをせざるを得ないし、無意識に「ペットはペット、人は人。」と思ってしまう。家族は家族でも、「ペット」なのだ。

私が犬を飼っていた当時は、家族みな家を空けている時間が多く、寂しい思いをさせているとは常々感じていた。だが、会社や学校に連れていくという考えは思い浮かばなかった。だって日本では、誰も会社や学校にペットを連れて来ないし、連れて行ったら誰か偉い人に叱られそうだから。リスク先に考えがち。分かる。

電車内でも、盲導犬や犬用のキャリーケースに入っている犬は見かけることはあれど、人間と同じように普通に歩いて乗ってくる犬は見ない。自分も、お出かけに犬を連れていく時は車で移動していた。そして、買い物や食事の時は犬を車に置いていかねばならなかった。車の中に取り残された犬の目はいつも寂しく不安そうだった。

日本の犬を取り巻く環境では、ペットはペット、人は人、と線引きをして過ごさねばならず、犬と人間がと過ごす時間が限られてしまうが、

ドイツの環境の様に、会社や学校、電車やレストランでも一緒に居られる(それが当たり前)の環境の方が確かにペットにとっては嬉しいに違いないなと思った。寂しい時間が少ない分、幸せだと感じる時間が多いだろうな。

そもそも犬は群れで行動するものだし、犬は人間のことを家族(同類)だと思っているのに1人だけ置いて行かれるのは寂しくて仕方がないよね。群れの中で1人ぼっちにさせられたら悲しいよね。飼い犬、寂しくさせてごめんね。

日本の環境がダメだ、改善してほしい、というわけでは全くなくて、そんな社会もあるんだなあ素敵だなあと思った。私も来来来世くらいに犬に生まれるのだとしたらドイツで生まれたいかもしれない。

②感想②(第1章~第22章)★2020/03/29更新

「ドイツの犬はなぜ幸せか」を読み終えたので、感想の続きを書こうと思う。早速内容に入ろう。

第1章の「飼い主一家との出会い」では、本作の主人公「ボニー」(シェパードとコリーのミックス犬)とグレーフェ家族とが出会い、第22章の「大手術を終えて思うこと」で主人公ボニーの手術と犬と人間の関係性に対する筆者の思いが語られている。

第2章~第21章の間では、散歩や家族間の上下関係、犬の学校やレストランでの出来事がつづられていた。その中で最も興味深かったのは、第21章「ドイツの犬の権利と義務」だ。制度的な話好き。

犬の飼い方や保護に関する法令(Tierschutz-Hundeverordnung)が2001年5月2日に公示された。Tierschutz-Hundeverordnungの内容は簡単に箇条書きでまとめると以下の通りだ。

・母犬との別離は生後八週間以後にすること
・犬を外で飼う時のおりの大きさを指定すること
・屋内飼育の場合は自然光が十分に当たる場所で飼育すること
・犬に適した餌と水を与えること
・飼育者と十分な接触をすること
・十分な散歩をすること     ・・・etc.

これが国の法律として掲げられているのがまずすごいと思った。第21章には、この法律の草案には、「・飼育者と十分な接触をすること」の内容に以下のことが含まれていた。(2002年に実際に発令されたものの概要を調べてみたが、私が見たところこの旨の文章は除かれたようだ。省かれていなかったらごめんなさい)

「各政権一匹につき、また同腹の仔犬たちの一群につき、一日合計2時間はつきあうべきである。ただし一群の犬たちを飼っている場合(同腹の仔犬の群を除く)は、犬同士で社会的接触を持つことができるので、保護者との社会的接触は一日30分でもよい、また、保護者は一日最低8時間は、犬を視界距離内、あるいは呼べば聞こえる範囲内に置くべきである」ー245ページから抜粋~~

一日中誰にもかまってもらえず、退屈している状態の「退屈病」がペットの病気のナンバーワンだと言われている、と筆者は語っている。

実際、一人暮らしや核家族で共働きなどで家に家族がいる時間が少ない場合は、どうしても犬と関わる時間が減ってしまう。私が犬を飼っていた時も、室内外で両親は核家族で共働き、自分も学生だったため日中は誰も遊んであげられなかった。日中はいつも退屈していたんじゃないかと思う。

この草案の文章から、犬は「ペットとして気が向いた時に接する動物」ではなくて、「家族として対等に接するべき動物」である、というメッセージを感じた。というのも「1日2時間は遊ぶこと、8時間は近くにいること」って人間同士の家族の(特に親と幼子の)理想的な姿なのではと思ったためだ。

犬の幸せってこういうことなのかなあと次の章で考えてみた。章の立て方難しい、今度から考えてから本文書き始めよう。

③感想③(ドイツの犬はなぜ幸せか?を主観で考える)★2020/03/29更新

犬は、祖先の狼の時から群れで行動する生き物である。群れのメンバーと関わって生きていくということは、基本的に群れから離れることなくじゃれあったり助け合ったり喧嘩したりして生きているのが普通の状態であるということだ。(群れから離れることは、生命の危機であり、それが精神の不安定につながる?)

人間も同じで、古来から群れをつくり協力して生きてきた。群れで食べ物をとり、住み家をまもる。現在はお金を払えば食べ物も娯楽も手に入れることができる時代のため意図的に群れをつくらない生き方も選択できるが、やはり家族・学校・会社などのコミュニティという群れに属していた方が精神的に安定する気がする。(はりまろんの主観です)

飼い犬は、属するコミュニティが飼い主家族・散歩時に出会う犬仲間にほぼ限定される。一生のうちで接している時間でみると、だいたい99%が家族、1%が犬仲間なのではないか。よく「飼い犬には飼い主はあなただけしかいない」と言うが、人間と比べたら持っているコミュニティの数が全然違うよなあ。自分で接するコミュニティ増やせないもんな。

飼い犬は、飼い主家族のコミュニティの群れにしか属しておらず、群れから離れる時間が多ければ多いほど(群れで暮らすことが本能的に精神の安定につながっているのだとすれば)精神が不安定になってしまうのだろうなと思った。運動欲が満たせないだろうし…

その逆もしかりで、飼い犬は、飼い主家族のコミュニティの群れにしか属していない。飼い犬は、群れの中で仲間と接する時間を十分にとることで心が満たされる。飼い犬の持つ唯一のコミュニティの群れである、飼い主家族は飼い犬と十分に接する時間を設けるべきだ。

これをドイツでは国の法律として明言化した。社会としても、犬と一緒に公共交通機関に乗ったり学校に行ったりすることは「おかしくない」風潮がある。一緒にいられる時間をなるべくつくり、犬が幸せに生きられるように。

制度ってつくづく大きいよなあといつも思う。ここで言う制度は、法律だけではなくて社会の風潮も含んだ、「ものごとを行う上での環境」を指している。制度が違うと何が変わるかというと、当たり前だが「ものごとのやりやすさ・やりにくさ」が変わってくる。これをドイツは、「犬が幸せに生きられる様に、一緒にいられる時間を設ける」様なもともとの社会風潮がある上に国として整えようとした。すごい。

もちろん、犬が幸せに生きるためには、「愛もなくただただ長時間接する」のではなく、本書の主人公ボニーの様に、家族からたくさん愛されながら接されることが一番大事だ。人間も群れの中でいやな扱いを受けてたら不幸せ感感じるもんね。

人間も、飼い犬も、幸せに生きるためにはたくさん人に愛されることなんだなあと思った。散歩やグルーミングや遊び、食事などたくさん愛されながらたくさん接してもらえること。他者なしでは本当の幸せは感じられない、というのは人間も飼い犬も同じなんだなあ、とはりまろんの中で腹落ちしました。



読んだ本や勉強したことの備忘録です('ω')