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【連載小説〜うお座がみた福祉】 第一話 初出勤

 どんな格好をして出勤したらいいのか、仕事が始まればどう動くのか、わからないまま久之助は初出勤の身支度をしていた。

 白のTシャツの上に当たり障りのない白系のトレーナー、明るい青色のジャージという出立ち。青色が好きだった。
 その年の2月1日は冷え込み、その格好ではさすがに寒く、高校卒業時に友達の真似をして買った古めかしいロングコートを羽織った。結果、前を開くと変質者のようでもあった。
 「ま、いいか。」小声で呟くと、偶然自宅近くにあった初めての就職先の特別養護老人ホームに向かって、久之助は意気揚々と歩き始めた。

 大学を卒業してからすでに1年近く経過していた。
 就職の際にはつぶしが効くだろうと経済学科を選び、うまい具合に卒業時にバブル絶頂期となり、友人達は損保・金融・商社など名だたる会社に就職を決めた。久之助が住むアパートの玄関扉の前にも、あらゆる会社から資料やCDが郵送されてきては、うず高く積み上げられた。来てくださいと言われると逆に行きたくなくなる、という心理が働いていたような。久之助はそう振り返っていた。
 届く郵便物はことごとく捨て、自分はどう生きていくべきか、と悩んでいた。

 そんな頃にたまたま本屋で「病院で死ぬということ」という本を買った。
 特別思い入れがあったわけでもなんでもないが、小学生の頃から漠然と死ぬことが怖くて、関心があったからかもしれない。買ってから1週間本棚で寝かせた後、実家に帰省した時に、近所の大きなダム湖のほとりに車を止め、読んでみた。
 自分でも多少の自覚はある久之助だが、とても感情的な人間であるため、その内容に触れてハンカチでは足りないくらい涙を流したことを覚えている。
 死にゆく人に関わるような仕事に就こう、医者は無理だ、お金も頭もない、福祉関係なら就職できないかな。それが動機だった。

 地方出身で決して裕福ではない実家の両親が、何とか大学の費用を工面してくれた。そう悪くない成績で経済学科を卒業できた孫に祖父は期待していたようだ。
 しかし、その孫はあろうことかろくな就職活動もせず、好景気にもかかわらず就職浪人となり、挙句の果てに老人ホームに勤めると言い出したのだ。
 祖父は「わざわざ大学まで出て、年寄りのオムツをかえるのか・・」と孫可愛さと憤懣の入り混じった表情で吐き捨てた。その8年後、祖父はオムツのお世話になった後、自宅で永眠するのだが。

 吉備久之助。小さな頃から少し古風な名前でいじめられた。
 と言っても、田舎の山奥の小学校で同級生は6人(久之助を入れて7人)。赴任してきた先生は「二十四の瞳じゃなくて、十四の瞳ね」と笑いながら驚いていた。全校生徒も100人にはとても届かない。だからいじめられたと言っても数人で、人も素性もよくよく知っている。久之助は幸いにも屈折せずに登校することができた。

 しかし、中学校ではさらにいじめがひどくなった。同じ小学校卒の同級生は女子が5人、男子は自分ともう一人。少人数の学校で育った久之助は勉強で苦労することはなく、成績も良かった。それが当たり前だと思っていたのが間違いだった。何かにつけ、言動が生意気で「イキっている」と言われ、標的になったのだ。
 同じ小学校出身の同級生女子が守ってくれるはずもなく、唯一同級生の男子も同様にいじめにあった。不登校にもなりかけたが、多少の負けん気があった久之助は、一番しんどいと言われていた野球部に入ったことで救われた。もちろん、田舎の小学校で女子相手に野球などするわけはなく、ほぼ初心者で入部した久之助は下手くそだったが、しんどい練習にはどこか快感を感じていた。
 そのうち、懸命に練習する姿を見て、同級生は認めてくれるようになった。部員の中でただ一人バス通学という久之助が、本数の少ないバスを日が暮れてからも待ち続けるバス停に訪ねてくれたりもした。

 調子に乗って高校でも野球部に入部した。
 ところが、また久之助を挫折が襲う。各中学校のキャプテン、レギュラー、甲子園有名校から声のかかったことがある生徒までいた。当然、多少の根性があっても下手くその久之助は補欠となった。それでも熱心に練習した。卒業前の最終戦では代打を仰せつかり、シングルヒットを打ったが、チームとしては敗れ、それで全てが終わった。そんな久之助をキャプテンは敬意を込めて誉めてくれたが、久之助自身は嬉しくも空虚だった。別に何の役にも立たなかったし、、。そう思った。

 そんな久之助が大学を卒業する頃になって、人の役に立つことを仕事にしたいと思ったことは、それなりの理屈やつながりがあるような、ないような。ただ、後々、様々な人の人生に触れるにつれ、どんな仕事も結局人の役に立つものなんだ、と気づいていくのだが。

 初めての通勤の途中、それまでの人生を振り返っていた。
 1年近く就職浪人の負い目があったが、今日から社会人だと思うと気分も明るくなっていた久之助だった。だが、職場が近づくにつれ緊張は高まった。敷地に入る門から100m程の登り坂を息切れしながら登り切り、初めて勤めることになった特別養護老人ホームの玄関、自動ドアの前で一度大きく深呼吸した後、一歩を踏み出した。

「おはようございます。今日から勤めさせていただきます。吉備久之助です。」
「ああ、はいはい、聞いてますよ。」と事務職員の女性。次の瞬間、ロングコートの下から見える明るい青色のジャージを見て複雑な表情を見せ、事務所から出てきてくれた。

「ちょっとここで待っていてくださいね。」
 そんなにおかしな格好だっただろうか、いややっぱりおかしいか。久之助の仕事は自問自答しながら上司を待つことから始まった。

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〔次回予告]
 久之助が選んだのは高齢者福祉。
 特別養護老人ホームでの介護の仕事から。そんな久之助の初めての業務は節分の豆まき。そして、翌日、初めて接した人の死。
 「お前、死神背負ってきただろ」と先輩の言葉の意味。

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