震災、戦争、コロナ……“語り”がきっと人をつなぐ。あなたも話していいんだよ 『声の地層』〈レビュー〉
三鷹にある書店UNITÉ(ユニテ)で行われたイベントで、登壇された生きのびるブックスの編集者・篠田里香さんにご挨拶した際、私は生きのびるブックスがずっと気になってはいたもののまだ読めていなかったので、失礼ながら「1冊勧めるならどれですか」と伺った。篠田さんが差し出したのは、『声の地層』だった。
著者の瀬尾さんは、大学を卒業したばかりだった東日本大震災直後、ボランティアとして訪ねた先で人々の被災経験を聞いた。被災者たちは、あまり役に立てず所在無げにしていた瀬尾さんと友人に声をかけ、「旅の者にはせめて土産のひとつでも持たせなければ」というように語り始めるのだった。
私でいいのだろうかと思いながら、聞いています、聞きたいですとうなずきながら瀬尾さんは聞く。そして最後に、被災者は「いま話したことを、きっと誰かに伝えてくださいね」と言う。「大変なことになった」と瀬尾さんは気がつく。
それから10年以上にわたって、瀬尾さんはさまざまな“語り”の場をつくる活動をしている。
本書は、2021年1月〜2022年春の連載と3本の書き下ろしをまとめた1冊だ。15章それぞれが、語りを再構成した「物語」と、その物語が語られた・生まれた経緯を補足する「あとがたり」で構成されている。
被災者の話から始まり、まさにリアルタイムで時代を写したコロナ禍の話、戦争体験、さらには瀬尾さんの友人の死や、知的障害をもつ弟の話まで、瀬尾さんが接したさまざまな“語り”を収録している。
「物語」のかたちもさまざまだ。話した内容をそのまま書き取ったような文章もあれば、詩のような形式や、民話のような形式もある。語りとは単なる事実報告ではないのだと思い知る。言葉からにじみ出る体験の感覚を伝えるには、それぞれの語りに合った表現が必要とされるのだろう。
どの語りにもひたすら耳を傾ける(ように読む)ことしかできなかったが、特にどきりとしたものの一つが第3章の「今日という日には」だった。震災後10年の式典の日の被災者家族の話だ。
家族を亡くした痛み、家が土の下に埋まった痛みがあり、しかし同時に、普通に笑って幸せを感じる日常がある。「被災者」「遺族」だとまなざす非被災者の想像からは、抜け落ちるものが多い。そのまなざしと実際の自分たちとのギャップも、それ自体が一つの痛みなのだろう。こういったことには、本書を通して初めて気づかされた。
私も非被災者であり、被災者に痛みを与えないような捉え方ができているとは思いがたい。年初の能登地震の際にも、東北の友人たちのツイートにどんな言葉をかけていいかわからなかった。その距離を、縮めることはできなくても少しでも冷たくないものにできるのが、やはり語りなのではないだろうか。
瀬尾さんは、語りに接する活動を通して“語れなさ”を見つめている。本書に登場する人々の中には、被災者ではないから、あるいは被災の程度が軽いから、戦時中自分はまだ子どもだったからと、誰に言われるでもなく、語る資格がないと自ら思っていた人も少なくない。本書で主に取り上げられている震災、戦争、コロナ禍に限らず、ハラスメントや格差など、「語る資格がない」と思い込んでしまっている人々の痛みは数限りないのではないか。
胸に手を当ててみる。私の痛みを最後に誰かに話したのはいつだったか。他愛のない会話では、楽に笑えるくだらない話はたくさんしても、本当に聞いてほしいことはなかなか切り出しづらい。本当にこの人は聞いてくれるだろうか、場違いではないかと、最も親しい友人にさえ思ってしまう。
語ること、そして誰かの語りを聞くこと。この素朴な営みが、今私たちに最も必要とされているものの一つなのではないだろうか。少なくとも私個人にとっては、そんな場が一つでも多くあればいいと思う。