村上春樹「象の消滅」における僕の無力感 ――僕と彼女の距離から読み解く

これはね、なかなか頑張りましたね。高専でやっていた「都市文学論」という授業での資料です。ネットにあげてしまっても良いのか迷ったけれど、いまはこの授業はやっていないとのことなので、せっかくなのでアップしておきます。3人が発表者となって、数人の質問者を設けて、討論するスタイルの面白い授業でした。なかなかないのではと思います。この文章を書いた2014年の当時は高3だったのですが、つかみどころがない村上春樹を死に物狂いで分析した訳です。いまでこそ、もっと違う観点から読み解けるかもしれないですが。この授業で初めて小説を「読む」ことが何なのか分かった気がします。自分の原点のひとつですね。それにしても、未だによく分からない不思議な感じで自分の中では納得しきれていないのです。ふと、この小説をときどき思い出して、何で象は消滅したんだろうと考え込むことがあります。ある意味で、この象の物語に呪われてしまったような気がします。実はこの物語に関しても、論文が多く出ているようです。それだけ多くの人から注目されている作家ということでしょうか。いまであれば、ポストモダンという観点から分析するのでしょうかね。

1.象が消滅した後の僕
 都市文学論の私の発表では、この作品は僕が社会に組み込まれていく苦悩が主題であると結論づけたが、ここでは特に象が消滅した後の僕の立場の二重性について、作品の構成、僕と彼女との関係を読み解くことで発表とは違った視点から多角的に見ていきたい。

2.作品の構成と全体像
 小説の構成としては象の消滅に関する事実を、読み手を明確に意識して語っている前半と、僕と個人的な体験と意見が語られる後半とに分けることが出来る。後半の始まりには次の一文が挿入されている(1)。

僕が彼女に出会ったのは九月も終わりに近づいた頃だった。その日は朝から晩まで雨が降りつづいていた。(中略)そんな雨が地表に焼き付いた夏の記憶を少しずつ洗い流していくのだ。すべての記憶は(中略)暗く深い海へと運ばれていく。

 これに関する記述が僕の最後の告白部分にはこの一文に関係する一節がある。「僕はあいかわらず便宜的な世界の中で便宜的な記憶の残像に基づいて、冷蔵庫やオーブン・トースターやコーヒー・メーカーを売ってまわっている」(2)とある。「便宜的な記憶の残像」とは文脈から前半部分で語られた周囲の人々に関する動きのことであることは明らかである。また、雨が降っていることも彼女との会話のあいだに挿入されている。ここで雨はその記憶を洗い流すものとして、便宜的な社会とは反対に、個人的な体験と意見、つまり主体性の象徴ではないかと考えることもできる。これらのことから作品は前半と後半で明確に区別されていることが分かる。

3.僕と彼女の距離感
 次は僕と彼女の関係、距離感などについて見ていく。この二つの場面には彼女が僕のことを理解できるという可能性のある記述と距離感を感じさせる記述が潜んでいる。そこを順に追ってみることにする。
 まず、パーティーでの場面について。僕は彼女と仕事上での会話をしていたとき、仕事用の笑顔で対応しながら女性が話しやすそうな料理の話題を振ろうとするが、ここで彼女は話を元に戻して個人的な意見を求めている。これは彼女が僕に対して積極的に理解をしようとしていると考えることが出来る。この時点では またその後、世間話をするが、ここでは「<共通の知人>」がいたことに発して、お互いの共通点などの話題で盛り上がっている。これはあくまでも社交辞令的な会話であり、親密になり好意を抱いてはいけない理由はなかったとあるが、象と飼育員のそれとは違うように思える。この好意はあくまでも入れ替え可能なものでしかないといえる。 
 次にカクテル・ラウンジでの場面について。僕が象の話題を避ける意思をさりげなく会話に出したのに彼女が執拗に突っ込んでくるのも僕の会話の細かな異変、態度の変化に気付いたからでパーティーでの場面と同様に僕のことを理解しようとの姿勢が感じられる。また、僕にしても「それとも僕はごく無意識的に誰かに——上手く話すことができそうな誰かに——象の消滅についての僕なりの見解を語りたいと思っていたのかもしれない」(3)とあるように彼女が理解してくれるかもしれないという希望があったのかもしれない。しかし結局は他人に話したところで理解などしてくれないのだとすぐ気付いて話題を他にふろうとする。僕自身が他人とはそれほど親密になることはないのだからと諦めているのだろう。象に関する話が終わった後、両者ともなんと切り出せばいいか分からなかったのか、二人は沈黙に包まれるがその後、「昔、うちで飼っていた猫が突然消えちゃったことがあるけれど」と質問をしていることからもやはり彼女はこの話について理解できなかったことが伺える。
 他にも僕と彼女の関係に関わってくるのが二人の飲んでいるカクテルで、僕が飲んでいるのはオン・ザ・ロックで彼女のはフローズン・ダイキリである。この二つは会話の途中にしばしば登場する。「僕は氷がとけて少し薄まったオン・ザ・ロックを一口飲んだ。窓の外の雨はまだ降り続いていた。」(4)の数行後に「彼女はしばらくのあいだ自分の持ったダイキリのグラスにじっと視線を注いでいた中の氷がとけて、その水が小さな海流のようにカクテルのすきまにもぐりこもうとしているのが見えた。」(5)とあるように二人の持っているカクテルが全く違う状態であることが分かる。また、二人が沈黙に包まれている時の描写で「彼女はカクテル・グラスの縁を指でなぞり、僕はコースターに印刷された文字を二十五回くらい読みかえした。」(6)という文もあるが、動作まで対称的である。僕の飲むタイミングなどにも着目すると、象の消滅に関してより踏み込んだ話をする手前で飲んでいることも分かる。これらのことからどこかすれ違っていることが読み取れる。それから象の話が完結した話題であると小説中で二回も述べていることからも、オン・ザ・ロックには鍵をかけるとの隠喩もあるかもしれない。

4.彼女との関係から分かる象の消滅後の僕
 以上に見てきたようにこの作品の構成や僕と彼女の関係から浮かび上がってきたのは、象の事件以来「便宜的な記憶の残像に基づいて」商品を売り、「数多くの人に受け入れられ」ていく僕と、実態社会に存在しない理想と化した象と飼育係の関係が頭から離れず、社会にとけ込めないでいる僕とのバランスが内部で崩れてしまったという僕であり、普段は社会にとけ込んでいるが、絶対に得ることの出来ない親密さや社会に埋もれた自分の無力感に悩まされているということである。彼女との会話の場面が終わった後、僕は仕事上の電話をかたついでに食事に誘うかどうか迷っているという象の消滅後の僕の状態を表す一節があるが、「彼女に対して好意を抱いてはいけないという理由はひとつとしてみつけることはできなかった」のにも関わらわず誘わないのは、どうあがいても象と飼育係のような親密さは得ることができないという僕の無力感があるからと想像できる。


(1)都市文学論の授業にて配布されたプリントの(以下同)p53,16
(2) p68,10-11 (3) p58,6-7 (4) p64,2-3 (5) p64,13-14 (6) p67,5-6

参考文献
・ 馬場重行「村上春樹『象の消滅』小論——『「中国日本文学研究会」第8回
全国大会&国際シンポジウム』報告——」『山形県立米沢女子短期大学付属生活文化研究所報告』第30号、山形県立米沢女子短期大学付属生活文化研究所、(2003.3)、p74-78


都市文学論Ⅱ レポートはここまで
以下に発表で使用した原稿を追記する。

この発表では、小説が表現したかったことについて、本文や時代背景などふまえて、私の解釈を述べたいと思います。主なテーマは象の消滅はいったい何を意味しているのか、象の消滅後に主人公の起こったことは何であるのかについてです。まずは、この作品が書かれた時期の社会情勢についてです。なぜ初めから本文ではなく時代について話すのかと思われるかもしれませんが、最初に知っておくほうが分かりやすいと思ったのでそうしました。題名のところにもあるようにこれは1986年に発表されたものです。最初の39ページの5行目をみると「貿易摩擦問題やSDIについての記事」とあります。この二つの問題はちょうどこの小説が書かれた時期のものです。70年代前後が全共闘や安保闘争が激しい時代だとすれば、80年代は高度経済成長後のバブル期にあたります。70年代前後は社会システムの歪みに対しての若者の自己主張が激しかったことはご存知だと思います。80年代にはその風潮はあっさりとなくなってしまいました。大量生産、大量消費が叫ばれ、経済は活性化して中流階級が増えました。アメリカではフォーディズムという全く同じ商品を効率よく大量生産する生産システムが流行り、物質的な豊かさを感じていました。この時代でよく言われるのはみな同じような商品を持っていることで人並みであると錯覚し、みんな心のどこかで安心感を抱いていたという心理です。少なくとも全時代の陰気くささは全く無くなっていました。貿易摩擦問題に関していえば日本とアメリカとの間での自動車の問題が有名で、グローバルな競争が激しくなって、新しい価値を生み出せない小さい会社はどんどん追いやられていきました。SDIはアメリカがソ連を牽制するために謀った戦略防衛構想です。この構想はスターウォーズ計画とも呼ばれ、全く中身の無い下らないものでしたが、結果的にペレストロイカ政策などソ連の軍縮につながり、冷戦終結のひとつの契機となりました。時代背景については以上です。
次は本文の語りから、登場人物等の立ち位置を整理したいと思います。立ち位置を見ていった後、私の解釈について仮説を立て、本文を順に追ってそこから見えてくることを述べていきます。また、小説の構成として象の消滅に関する周りの反応と事実関係を語る前半、彼女との出会いと自分の世界に対して違和感を感じていることを告白する後半に分けました。
前半の主要な登場人物等や、特に物語に大きな影響を与えている要因に思えるは「僕」、「象」、「飼育係の男」、「町の郊外にあった小さな動物園」、「宅地業者」、「町」、「議会の野党」、新聞の記事、象問題周辺の人々(警察やインタビューされていた人々など)です。まず、象が町に引き取られるいきさつを見ると、「小さな動物園が経営難を理由に閉鎖されたとき」老齢のために他の動物園などの引き取り手が見つからなかったことが原因でした。ここで像は集客力も無く動物としての利用価値の失った、あるいは利益をもう生み出すことのできない面倒なものとして扱われます。「町の郊外にあった小さな動物園」、「宅地業者」、「町」は当然ながら世間体や立場を気にして、この問題について処理せざるを得なくなります。一時、三者間には協定が結ばれ結局のところそれぞれが少しずつ負担するということになりかけたのですが、野党が反対します。これも野党という集団の性質上ありがちな話です。彼らの主張はお金がかかるのにメリットが無いということで、「象を飼ったりする前に下水道の整備や消防車の購入等、町のすべきことは多々あるのでは」ということでした。ここで着目すべきなのも象が直接的に役に立つか立たないかで判断しているということです。それから、それに対する町の反論は、高層マンションができれば収益が多くなる、町のシンボルとなる、儀外を加える恐れが無いなどでした。物質的な豊かさのために面倒なことを受け入れるべきということと、利益以外の価値基準によっての提言といって良いでしょう。落成式の場面に移ります。本文には次のような記述があります。「象はほとんど身動きひとつせずにそのかなり無意味な――少なくとも象にとっては完全に無意味だ――儀式にじっと耐え、無意識と言ってもいいくらいの漠然とした目つきのまま」これは町の象に対する何も伝わらない形式的なコミュニケーションと考えることができます。また、「僕」からは象は足枷を気にしていないように見えたようです。飼育係に関する記述です。「世の中にはある時点を越えると外見を年齢に左右されることをやめてしまう人がいるのだが、彼もそんな一人だった」とあります。なんとなく象の態度にいています。そして、子供たちのことがすきであったが子供たちのほうは老人に気を許しません。象は動物園にコミットできず、飼育係もまた子供たちに拒絶されてします。飼育係は僕がどのようにしてコミュニケーションをとっているのか聞いても「長い付き合いですから」と言うだけでした。これは記者の態度とは逆であると言えます。新聞記者は自分自身が全くをもって理解できないものを、仕事上しかたなく、理解しているとの体裁を保ちながら、自己矛盾を抱えながらも伝えようとしています。この二つの対照性はコミュニケーションについての問題を浮き彫りにしています。いうならば同じ時を共有することでなされた言語化することのできない直接的で親密な関係をあえて他人に伝えないことと、第三者である伝聞によって伝わってきた、象が消えたという理解不能な情報を即日的に発せ無ければならないゆえに無理やり言葉にするという関係です。新聞記事の次は象が消滅したと断言するに足りる理由を三つ述べていますが、ここだけ見ると象が脱走したと考えるのは妥当ではなさそうです。それから警察は無意味な捜索をしていること、町長の犯行に対する敵意、野党の批判、母親の見当違いなコメントが書いてあります。ここでは立場や役割に終始しすぎることによって本来的なものを失ってしまった様が読み取れます。しまいに人々は「解読不能の謎」というカテゴリーの中にしまいこもうとします。
ここで「僕」による説明は終わって後半の場面に移ります。僕が彼女とあったのは会社のパーティーということでとてもビジネス臭がする場面です。ここで「僕」は自分の考えを語りますが、「僕の個人的な意見はネクタイを外さないと出てこない」ので会社の一員として自分の主張を完全に排除しています。社員としてキッチンは「シンプルさ、機能性、統一性」が大事だと力説してわざわざ「台所じゃなくてキッチンです」無意味なデフォルメで呼ぶことが身にしみてしまっていることを露見させてしまいます。後に、「そういう要素はまず商品にはならないし、この便宜的な世界にあっては商品にならないファクターは殆んど何の意味も持たないんです」と言っていてここから僕の立場が読み取ることができます。そして特に注目すべきなのはこの二人が親密になったきっかけについてです。このとき生まれた親密さは<共通の知人>が居たことに発します。この共通の知人という語には<>(山括弧?)がついているので重要な単語です。当然ながら話題を作るために共通の知人なら誰でも良いということなのですが、そこを特に強調しているように思います。物理的な共通点を探してそれをきっかけについて話して盛り上がるというのも社交辞令的です。
 以上にて登場人物について整理してきました。ここから先の発表は殆んど私の解釈になります。
まず、登場人物どうしの関係性の二項対立からこの物語の主題はであることは見えてきました。特に比較するべきは「象」と「飼育係」、「僕」と「彼女」の関係です。まず、飼育係に僕がどうやって意思疎通をしているか聞いたときの話ですが、象と飼育係は二人の関係性という真実に対して説明するとその理由や役割だけに存在そのものや価値が収束して代替可能な存在になってしまうので言葉にしないしできないのだと思いました。そのような言葉にできない関係に対して、僕は彼女にたいして好意を覚えるけれど、あとでどうでも良くなってしまうような関係があります。「僕は二十分ばかりそこで彼女と立ち話をしたが、彼女に対して好意を抱いてはいけないという理由はひとつとしてみつけることはできなかった」とありますが、それだけの時間でできた親密さは長い時間すごした象と飼育係の対照的に見えます。誰でも良いというところ、入れ替え可能な話題から発した短時間のうちに作られる関係は所詮入れ替え可能などうでもいい関係しか生み出しません。その証拠に、誘おうと思えば誘えたのに「電話で話しているうちに、なんだかそんなのはどうでもいいことであるような気分」になってしまいます。彼女が象の話題について、避ける意思をさりげなく会話に出したのに執拗に突っ込んできたのは少なくとも僕に対して表面上の理解だけでなく、内面まで知りたかったからであると解釈できますが、「僕」はそれを「知り合ったばかりの若い男女が語り合うには話題としてあまりにも特殊」としています。彼女は恐らく象と飼育員のような関係を欲しているわけでもないし、そもそもそのような親密さの存在を知らないのだと想像できます。ここに僕との埋められない部分があります。また、僕と彼女の関係はあくまでもビジネス的なものであって、自分を相手に商品として売り込むような商売的な態度です。経済成長を果たしたバブル期である80年代以降の価値観ではこのような関係しか築けないのではないかと思います。「奥のほうに街の光が様々なメッセージをにじませているのが見えた」(p57)とあるが、この二人は社会が抱えた価値観に染まってしまったといえるでしょう。また、「僕が提供する情報を警察が信用してくれるとも思えなかった」とあるけれども、犯人と疑うかもしれないと感じたのは象消滅に理由をつけたがっているからでないかと思います。理由が無ければ不安になる人々、真実は「象」と「飼育係」のような関係のように説明できないものだけれど、物事をカテゴライズして理解した気になりたがるのだということです。
次は僕が最後に象を目撃したときの話です。僕は象と飼育係の大きさの釣り合いが同じになっていくのを目撃します。これは根拠には薄いですが、完全に比べることのできない関係、対等な関係になったのではないかと考えました。「そして象と飼育係は自分たちを巻きこまんとしている――あるいはもう既に一部を巻き込んでいる――その新しい体系に喜んで身を委ねているように僕には思えた。」という記述がありますが、これに関しては価値観の違いすぎる社会から追いやられてしまった、普通の親密さとは違う別次元の世界へといってしまったと見てもいいのではないかと思います。
次は「象」の行き先についてみていきます。まず「象」は「町の郊外にあった小さな動物園」にいます。ここで「象」は展示物となることで動物園に利益をもたらします。動物園とは元々利益が無ければやっていけないので価値を生み出さなくなったら引き取り手がいなくなるのは当然の話です。しかし動物園が経営難でつぶれてしまってからは町へと移されました。町議会の野党は象なんかにお金を使うなら下水や消防車などのもっと便利で有益なものを、と主張していたものの、町のものになってから人々は悪くないと思って受け入れていました。象が消滅してからは何も生み出さないどころか理解を超えたこととして人々の意識から忘れ去られていきます。こう考えると、町に象(=利益をもたらさないもの)を受け入れる余裕がなくなった、あるいは町までもが利益を生み出すかどうかという市場の価値観に染まっていったというのが妥当です。また、檻の中で観賞される存在ということ自体がもうすでに「象」の象徴するものは世の中からは消えていて、あくまでも人々の観念の中にしか存在しないということを意味していて、僕が象は消滅したと断言している理由から見ても、象は確実に檻の中にいたのではなく、いなくなる前からすでに消えつつあったのではないかと考えることもできなくはないはずです。「高層マンション郡ができるのはうんざりだけど、それでも自分の町が象を一頭所有しているというのはなかなか悪くないものである」とあるけれど、あくまでも自分は遠くから眺めている、あるいは町が一頭所有しているという事実をよしとしているものであって、自分にとって直接的な価値の無いものをそばにおいておくのをよしとしているわけではないはずです。
最後に細かい部分についてみていきます。登場人物等には対になっているもの、ペアになっているものがあり、二項対立が考えられます。例えば、象と飼育係の関係と僕と彼女の関係、貿易摩擦によるアメリカと日本の対立、SDIにおけるアメリカとソ連の対立、彼女の話に出てきた象と猫の大きさの対立、クモザルとコウモリ、オン・ザ・ロックとフローズンなどです。それ以外には、文字の横についている傍点の部分が気になります。抜き出すと「細部」「不明確な点」「鍵をかけられたまま」(p48,5-8)「人柄」(p51,1)「臭」(広告臭のところ)(p54,8)「台所」「キッチン」(p55,15)「たぶん」(p65,7)「冷やり」(p66,4)となります。多少窺ったような見方をすれば、広告臭を消すということは、自分が売り込みたいものについての本質に鍵をかけたまま、購買者には細部を説明せず不明確な点を残し、台所をキッチンと無意味なデフォルメをするようなことであり、そもそも相手を利益だけで判断して利用するコミュニケーションにおいては自身をそのような売り込み方をすることのよってしかありえず、それはたぶん相手の人柄について知りえない冷やりとした関係であるということです。それから、「夏の記憶を洗い流していくのだ」、「便宜的な記憶の残像」という記述があることや、現実的にありえない「象」と「飼育係」の大きさに関する記述、スクラップをとっていたこと、箇条書きでまとめてある場面があるところ、前半では「僕」の記録に基づいて記述されているところ、物語そのものには全く関係がないにもかかわらずどうでもいいのに細かく詳しい記述があるところ(目覚ましの時間など)にも配慮する必要があります。記憶をめぐる問題について考えても、記憶より記録のほうが便宜的で正確だからということ、記憶では誰も信用してくれないという読み手からの要請や常識的な価値観に答えているものなのではないかと思われます。
実はいくつか不明な点や疑問に思うことがあります。象でなければこの物語が成り立たないのかという問題と、日付や時期の問題です。彼女が「猫が消えるのと象が消えるのとでは、ずいぶん話が違うわね」聞いたとき「違うんだろうね。大きさからして比較にならないからね」と答えたが、この物語で消滅した動物が猫では代用が聞かないということを暗示しているように思えます。もし、象でなければならないのなら、それはなぜなのかということです。他にも日付や出来事の起こった時期についても考察する必要があります。象の消えた日の具体的な日付まで挿入しているので、何の意味があるのか分からなかったのですが、詳しく見る必要がありそうです。象が消えたのは5月の17・18日です(p40)。象は引取りが見つかるまで3、4ヶ月(p41)いました。また、消えたのは町が引き取ってから一年すぎたころです(p47)。僕が彼女と出会ったのは象が消えてから数ヶ月たった後で、「九月も終わりに近づいた頃だった」「そんな雨が地表に焼きついた夏の記憶を少しずつ洗い流していくのだ」とあるので夏の終わりです。これらのことをまとめると、象消滅の前年の冬には象は一人で居続けて、春の終わりには町による引き取りがあり、その来年の春の終わりに象が消滅、夏には廃墟と貸したような重苦しい雰囲気が流れていて、夏の終わりや秋には夏の記憶が流れていった後に彼女との出会いがあり、「僕」の心情の告白の場面の時には「冬の気配が感じ取られる」とあります。
結論としては、この作品では外向きの統一性で簡単に他者とつながれるようになったけれど、波風の立たない、根本的なつながりを失ってしまった社会を描きたかったのではないかと思います。他者との希薄な関係に違和感を抱えつつも社会の構造に飲み込まれる僕には哀愁すら感じます。象の消滅に対して「僕」を除けば誰も真剣に向き合わない、それどころか自分の立場のことしか考えていない、そんな態度が象を殺したのでしょう。また、「僕が便宜的になろうとすればするほど、製品は飛ぶように売れ――僕は数多くの人々に受け入れられていく」というように、社会は便宜的であること、統一性があることを要求しています。それから逃れることは容易ではないしではないし、「僕」も「彼らはもう二度とはここに戻ってこないのだ」と、他人と親密につながることはもうできないだろうと予想しています。結局、何者にも役に立たない象は消えていく運命にあるのです。

参考文献
・ 馬場重行「村上春樹『象の消滅』小論ーー『「中国日本文学研究会」第8回全国大会&国際シンポジウム』報告ーー」『山形県立米沢女子短期大学付属生活文化研究所報告』第30号、山形県立米沢女子短期大学付属生活文化研究所、(2003.3)、p74-78
・ 塩田勉「『象の消滅』が意味するもの」『世界文学』108号、世界文学会、p58-66
・ 八柏龍紀「『感動』禁止!」ベスト新書、KKベストセラーズ(2006.1)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?