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木蓮・白木蓮

春で連想する花や木は、無数にある。
どの花や木も、冬の寒さを乗り越えたという事実が、春の到来の喜びを増してくれるような気がする。
 
今年のドイツの冬は、それほど寒くならなかった。
暗い話題が多い時期だからこそ、人々に、少しでも早く春を届けたかったのかもしれない。
 
春を運んでくる木の一つ、それが木蓮や白木蓮。
木蓮や白木蓮を見ると、中学の卒業式を思い出す。
今週は全国的に、中学校の卒業式が多い週だったようだ。
 
母校の校門近くに植えてあった木蓮と白木蓮は、卒業式の日にとても綺麗に花を咲かせていた。
友達と離れるのが辛くて、涙を浮かべながら、その木々を見上げた。
その瞬間を、毎年のように鮮明に思い出す。
 
私は白木蓮が、とても好きだ。

どの街に引越しても、その木々が花咲く季節になるまで、私はそれらの木がどこにあるのか気付かない。
しかし、季節が巡り、その木々が色とりどりの花を咲かせ、また馨しい香りを辺りに漂わせ始めると、こんなところにあったのかと気付く。
私の頭の中に徐々に出来上がる新しい街の地図は、木や花で埋められていく。
 
一年中、何かしらの木を見ながら、街を歩いている。
 
 
私の住んでいる場所だけなのかもしれないが、白木蓮よりも、木蓮のほうを多く見かける。
白木蓮が好きだというと、どこどこで見かけたよと教えてくれるが、それはコブシであることが多い。
とても似ているけれど、私はあの花びらの分厚い、白木蓮のほうが好きだ。
中国やアジアが原産で、ドイツ語ではMagnolieと呼ばれる。

暖かくなってくると、仕事終わりに、ほんの少し遠回りをして帰るようになる。
遠回りの目的は、一本の木。
とても立派で大きな木蓮だ。
 
柔らかい産毛のような、細かい毛に包まれた蕾。
だんだんと蕾が大きくなる様子を見るのが好きだ。
 
私が、花の一つも咲いてもいない木を、しげしげと見ているので、通りがかったかたが一体何を見ているのかと、興味津々で聞いてくださることもある。
蕾を見ているんですよと答えると、あら、もうこんなに膨らんでいるのね、と返してくれる。
木の下はこうして、誰か知らない方とのおしゃべりの場になることもある。
 
ドイツは、日本よりもちょっとだけ、他人との距離が近いように思う。
公園で初めて会ったかたと長話をしたり、おばあ様の若い頃から今までの身の上話を聞くこともある。
年齢に関係なく、そして私が外国人である事にも関係なく、趣味から家族の事まで話してくれる人がいるのは、最初は大きな驚きだった。
 
 
木蓮や桜はもちろん、紫陽花、ツツジやサツキなど、日本での思い出がある木々をドイツで見かけると、何故かホッとしてしまう。
不思議なものだ。
そして、たくさんの季節に、遠回りをしてばかりいる。

木蓮が咲き始めると、私は朝から遠回りをして会社に向かう。
その美しい姿を、朝も晩も見たいからだ。
私はこの時期、とても欲張りだ。
 
天に向かって、掌を広げるかのように咲く木蓮。
たくさんの小さな手が、空を掴もうとしているかのようだ。

木蓮や白木蓮が咲き終わり、花が落ちる時は少し悲しい。
白木蓮は、綺麗な白い花が人に踏まれ、茶色い筋ができ、あっという間にただの茶色の塊になってしまう。
木蓮の紫ともピンクとも形容しがたい美しい花の色も、道路の上で、だんだん茶色の塊になっていく。
 
勝手ながら、こんな様子は見たくないと思う。
好きだからこそ、醜い姿を見たくないのだ。
私は、全く以て、我がままな性格だ。
 
その点、桜は、ここまで醜くならない。
花びらが散ってもなお、ピンクの絨毯のようで、風に吹かれて飛んで行ってしまうから、茶色の塊となって道路の片隅に留まる事をしない。
 
 
木蓮も白木蓮も大好きだけれど、生まれ変わって木になるのであれば、私は桜になりたいと思う。
 
パッと咲き、パッと散り、跡形もなく消えるような、そんな一生がいい。

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