認知症の叔母と再会する

久しぶりに母方の叔父叔母たちと食事会をした。
わたしの母は4人兄姉妹の末っ子で、若くして亡くなっている。母が亡くなってからは、親族の誰かが亡くなるときぐらいしか顔を合わせることがなかったので、母の兄姉3人がそろって顔を合わせるのは十数年ぶりだった。
特に、叔母のひとりは地方在住で、わたしは母が亡くなったあとすぐに東京に戻ったので、ずいぶん長いこと会っていなかった。
一昨年、祖母が亡くなったとき、どうも地方に住んでいる叔母の様子がおかしいという話になり(祖母が亡くなったのに葬儀にこなかったのだ)、もうひとりの叔母(関東に住んでいるほう)が頻繁に彼女に連絡を取るようになった。
その後、しばらくして、どうやら地方に住む叔母が軽度の認知症を発症しているようだということがわかった。

母方の叔父叔母は全員後期高齢者で、この先死ぬまでにお互いもう一度会えるかわからないから会いたい、という話をわたしは何度も父や叔母(元気なほう)からたまのライン(近況報告)などで聞いていて、でも誰もアクションを取ろうとしないので、なぜだろうと思いながらも、わたし自身叔母のことは気がかりではあったものの、学校の授業もあり、コロナ禍で特養に入っていた祖母の精神状態がよくなかったのでそのケアもあり、会いに行けないままになっていた。

高齢者の叔父叔母は日々暇なのだから(←失礼)会おうと思えば新幹線に乗ってすぐに会いに行けるのに、年をとると本当にすべてのことが億劫になるらしく、気持ちはあるのだけれど行動に移せない、と本人たちは言っている。
今回、わたしが学校を卒業し、色々と準備をしている中で時間があるため、元気なほうの叔母に「付き添うよ」と声をかけたところ、ようやく叔母が重い腰を上げ、地方に住む叔母の息子(わたし従兄)と連絡を取り、とんとん拍子に話が進み、会食日時が決まった。ここまでわずか数時間。元気な叔母は、ひとりで電車に乗ることが不安なので、ひとりで地方までいけないというのが会いに行けない大きな理由だったようだ。

10年ぶりくらいに再会した叔母は、わたしが想像していたよりもはるかに元気だった。叔母には娘がおらず、息子とふたりで長く生活しているため、整容とか家事とかどうしているのだろう、と心配していたのだ。
髪や化粧など身だしなみは一般的には娘のほうが気配りができるだろうし、母親も娘のほうがいろいろと相談しやすいのではと思うのだ。もちろん、例外もあるだろうけど。
しかし、わたしのそんな心配は一瞬にして吹き飛ばされた。
久しぶりに会った叔母の髪はきれいにカラーリングされて整えられ、化粧もしていた。そりゃあ10年経っているから相応に年は取っているけれど(それはお互い様)、わたしは髪が真っ白になって山姥のような状態になった叔母を勝手に想像していたので(従兄よ、ごめん)、良い意味で予想を裏切られてうれしかった。

彼女はとても苦労人で、夫が興した会社の事務員として働いていたのだが、夫の死後、「もう会社はだめだろう」という周囲の予想に反し、必死に頑張り、事業を軌道に乗せ、会社規模を拡大させたやり手のキャリアウーマンなのだ。
母方の親族の中では珍しいタイプのはっきりものを言う、豪快な性格の気前の良い人で、兄妹の中でもわたしの母とは特に仲が良く(同じ県内に住んでいたということもあるが)、母が亡くなる前は月に数回祖母の家で一緒に食事をしたり、ショッピングに出かけたりして、姪であるわたしのことも可愛がってくれた。

久しぶりに再会したとき、わたしのことはすぐには認識できなかったが、「〇〇(わたしの名前)だよ!」と言って抱きしめたら、「え~!!ぜーんぜんわからなかった。あんたいったいいくつになったの?」といつもの調子で話す叔母は、当時のドスのきいた声と迫力はもうなかったものの、相変わらずの叔母だった。

叔母たちも叔父夫婦も、そしてわたしの父も、久しぶりの再会を喜び、みんな上機嫌だった。
今回は従兄(彼女の息子)も同席していて、東京から出てくる高齢の叔父叔母のために会食場所の予約からタクシーの手配まですべてしてくれたのだ。わたしたちが彼に会うのも本当に久しぶりで、彼もまた元気そうで本当によかったと思う。ここに至るまで本当に色々なことがあったのだが(親子関係など人づてにいろいろ苦労を聞いていた)、それを乗り越えて、今は自分の母親を献身的にケアしている従兄の姿にとても驚き、感心した。
「いや~、○○兄ちゃん変わったねえ!」とわたしがしきりに感心していたら、「そう?」と笑っていた。

叔母はおそらく要介護1に満たない軽度の認知症なのだが、数分前のことを忘れてしまうので、新しいことを覚えることはできないようだった。
ただ、身の回りのことは自分でできるし、毎日ひとりで散歩に出かけたり、たまには社長時代に通っていた昔馴染みのお店に行って店員さんとおしゃべりしたり、近所の人たちとも世間話をしたりするそうだ。
しかし、散歩に出かけると、ときどき遠くまで行きすぎて自分がどこにいるかわからなくなり、従兄が迎えにいくのだという(GPS機能さまさま)。
そのことは、叔母自身が私たちに「散歩に出ると帰り道がわからなくなって、〇〇(息子)に電話しちゃうのよ~」と笑いながら話していた。
2人きりで家にこもっているのかな、と心配していたのだが、大丈夫そうだった。

でも、しかし、ここまでくるのにおそらく相当大変だったのだろうと想像できる。従兄も、「今の状態になるまで(母息子の良い関係を築けるまで、お互い変化に慣れるまでという意味だと思う)2年かかった」と言っていたので、気苦労も多かったはずだ。
叔母本人も、5年ほど前から少しずつ物忘れから始まり、最初はほんの小さな物忘れから、車の車庫入れに手こずるようになり、次第にあちこち車をぶつけるようになり(人身事故を起こさなかったのは本当に幸運だった)、車を運転していて自宅までの帰り道がわからなくなる、ということを何度か経験し、徐々に記憶できなくなっていくことに恐怖を感じたと思う。
1、2年ほど前、まったく音信不通だった叔母から父に、深夜に突然電話がかかってきたことがあった。父が寝ていて気付かず、翌日叔母に電話すると、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝ったという。おそらく叔母は自分の変化にとまどい、不安になり、誰にも相談できない中、近しい関係だった父に助けを求めたかったのではないかと思う。
その話を父から聞いたとき(父は携帯のボタン押し間違えただけだろうと言っていた)、ほんとうにやるせなくて、でも一体自分に何ができるのだろう、会いに行きたいけど、従兄弟たちが嫌がるんじゃないか、とかあれこれ想像して、頭の片隅で叔母のことが気にかかりながらも、何もできずにいたのだ。

叔母のことも気がかりだったが、従兄のことはさらに気がかりだった。叔母と従兄は二人暮らしで、兄弟がいるけれど頻繁に会いにくるわけではないようだし、普段は従兄がひとりで母親の面倒を見ているわけで、家事全般をこなし、会社の事務的な仕事もすべて彼がやっているから、自分の時間はないだろうこは想像できた。
食事は近所で質の良い宅配弁当を頼んでいるようで、「ウーバーもあるし大丈夫」と言っていた。叔母に掃除や洗濯などをやらせているみたいだけど、やはりきちんとはできないから、従兄がやり直していると言っていた。
わたしたちは口々に「大変だね」「えらいね。親孝行だね」「頑張ってるね」と声をかけたが、従兄は「いや、いまはそんなに大変ではないよ」と答えていた。と同時に、叔母が「ぜ~んぜん大変じゃないよ!」というので、みんなどっと笑った。
あとでこっそりわたしが従兄に、「大丈夫なの?ほんとに一人で全部やって大変じゃないの?」と聞いても、「まあそこまで大変じゃないよ。でもたまに誰か数日連れ出してくれると、自分の時間ができていいかな」とのことだった。(従兄が資金を出すというので、近く叔母たちと一緒に旅行にいく。たったの数日だけれど従兄は「助かるよ」というので、どうなるかわからないけどみんなで遠出することにした。この話はまた次回。)

わたしは立場的には従兄の立場に近いので(年老いたひとり親がいるという点で)、自分の父親が同じ状態になったとして、あんな風に手厚く優しくケアできるかと考えたとき、答えはノーだ。従兄の場合は、家族経営の会社で家族がつながっている部分が大きいので、わたしとは全く立場が異なるのだけれど、それでも施設に入れるなどの選択肢もある中で(お金はあるわけだから)、軽度の認知症ではあるものの、自分ひとりで親の面倒を見るという選択は、単純にものすごいことだなと思う。
しかも、従兄の叔母への接し方がほんとうに優しいのだ。以前(20年前)は「くそばばあ!!」とか言ってたのに。めちゃくちゃ親子喧嘩してたのに。わたしの記憶に残っている二人の関係は、いつもぶつかりあってかなりぎくしゃくしたものだったから、普段見慣れない食事でどう食べていいかわからない叔母が食べやすいように、出された料理を小さくカットしてあげたり、「これは○○で柔らかくておいしいから食べてごらん」と、不安そうにみんなを見渡す叔母に声をかけたりする従兄を見て、「ほぅ~~こんなに人は変わるものか!!」とわたしは心底感心したのだった。
「いや~、叔母ちゃんお姫様じゃん!○○兄ちゃん、執事だね!」と言ったら、「そんなことないよ。秘書だからね」と従兄は笑っていたけれど、従兄の本心はほんとはどこにあるのかわたしには最後までわからなかった。
ただ、追い詰められている感じや悲壮感はまったくなかったから叔父と叔母はおそらく安心したと思う。
従兄には付き合っている人がいるので、その人にいろいろ自分の心の内を話せているといいなと思う。もしかしたら、その人が精神的に頼れる人で、だからあれだけ穏やかに優しく母親に接することができるのかもしれない。

今回わたしは叔母に会いに行くにあたり、鍼を用意していて、少し身体を触らせてもらって腹診なんかもしたかったのだけれど、「怖いからいや」と叔母がいうので何もできなかった。
わたしが鍼灸師になったきっかけは、他の記事でも書いたように、翻訳の仕事が好きではなかったからという理由が大きいのだけれど、それと同時に、すぐに体調不良でダウンする自分の身体を自分で管理できるようになりたかったことと、身近な人が困ったときに何かできたらいいなと思ったからだった。母が病気になったとき、わたしは何もできなかった。祖母は膝がいつもひどく痛む人だったから灸をしてあげようと思っていたけれど、鍼灸学校に入学すると同時にコロナがきて、老人ホームは面会謝絶になり、結局何もしてあげられずに亡くなってしまった。
鍼灸で認知症が治るわけではないけれど、便秘とか、風邪とか、どこかが痛むとか、不安を取り除くとか、リラックスさせるとか、そういうことは鍼灸は得意な分野だから、従兄が困ったときに、ほんの少しだけでも頼ってもらえたら嬉しいと思う。そういうときのために、わたしは頑張って勉強してきたし、今も何とかその知識を保てるように、そして新しい知識を得られるように日々ちょっとずつ努力している。






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