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誰かの為に生きることの重大な落とし穴

あなたは、自分の為に生きていますか?
自分ではなく、他人を思いやり、社会を憂い、他人や社会に尽くす。
それは、良いことではある。
けれども、そこには重大な落とし穴があることを自覚しなければ、待っているのは不幸かもしれない。

重大な落とし穴とは何か?

結論からいえば、以下の2つあるように思う。
①〇〇の為であれば、それを失ったときに自分も見失う
②〇〇の為といいつつ、実は自分の信念や、世間の常識に囚われている

〇〇の為は、それを失ったときに自分も見失う

これについては、今日ツイートをした

(ちょっと他のことと混ざってしまったがw)

たとえば、それが「会社を大きくするため」の時、会社が経営難でつぶれてしまったら?
たとえば、それが「家族の為」の時、家族を失ってしまったら?

大切なものを失えば、その時は誰もが正常ではいられないだろう。
けれど、それでも、人は生きていかないといけない。
(これは自殺についての議論ではないです。批判する意図はないし言及もしません)

目的の対象を失った時、あなたは何を目的に生きますか?

〇〇の為といいつつ、実は自分の信念や、世間の常識に囚われている

〇〇の為に思って言っている(やっている)。

こういう言葉はよく耳にする。

けれど、それを相手が望んでいるのか。
望むと望まないとに関係ないというならば、それは結局自分がそう思うからに他ならない。
そして、大抵が「信念」に基づいて言われる。
または、「世間が」という概念。
相手の気持ちよりも、信念や概念を重視している。
言うのもやるのも自由だ。
但し、それが押しつけにならないようにしたい。
相手がどう受け取るか、そこを想像するようにしたい。

それが為になったかならないか。
それを決めるのは自分ではないのだから。

人の為に生きている人を目の当たりにした

この記事の前に、記事を書いた。その時に、私は夫がまさに「人の為に生きてきた」のだと痛感した。
しかし、それは、そう望んだのか?
自分が何をしたいのかではなく、そこにある現実を生きてきた結果のように思える。

そして、その「人の為」がうまくいかなくなった現在、夫は「うつ」になってしまった。

概要的に述べれば、夫は子どもの頃から親の仕事を手伝い、その仕事を継いだ。
しかし、経営困難(個人事業)。
自分と結婚し、家族の為に生きてきたが、私が離婚したい旨を告げた。(私は、結婚してから18年(承継後10年)夫の仕事を手伝ってきた。)
離婚したいと言ったときから、協議状態だったが、夫がうつになってしまったことで、現在は今までの生活とあまり変わらない。
しかし、夫の仕事を手伝いはするものの、平日日中は、外のパートを始めた。
私が離婚を言ったのは、夫と一緒に仕事をするのが困難になったからだ。私の精神的に。(詳しくは前回の記事を見てもらえばわかるので省略)

自営業ゆえに、うつでも仕事をやめられない。
頭が回らないといいながらも、仕事をしなければいけない夫をみながら、「辞めてしまえば…。」そう思いつつもいえなかった。
けれど、それも1つの手だということを話した。
夫は、家族のためにと言う。今更他に何が出来る?と言う。
夫にとって、父親の仕事を継いで家族を養うというのは人生そのものになってしまっていたのだ。

しかし、夫が自分の意見を言わなかったかと言えばそうではない。
どちらかと言えば、頑固だ。
折れるのはたいてい私だったし、子供たちも知っている。
自分を曲げない。

まさに、落とし穴にはまってしまっている(というより、夫を見ていて、この落とし穴に気づいた)

ここから夫を救うには、うつから回復するには、どうすればいいのか。

夫自身が、自分と向き合い、「~ねばならない」を取り払わない限り夫は救われないように思える。
しかし、それは簡単なことではない。
人生そのものとなってしまった仕事や家族を失っても(ここでは離婚をさす)、それに耐えうる力が必要だから。
時間が必要なようにも思えるが、現状のままでいいのか。
落とし穴は深かった。

せめて、子供たちには同じ穴にはまらぬよう、自由に自分の意思を大事にしていくようにしたい。
けっして子供に依存せず、子どもの意思を尊重していきたい。
そして、自分を大事にし、他人を尊重する人間になってほしい。

終わりに

現状の打開策を考え、いちを書いてみたが、色んなテーマが出てきたので、また色々書いていきたい。(話がまたごちゃごちゃしそうになったのでカットしました)
何の為に生きるのかについては記事も書いたが、以下のようなツイートもした。

これは、まさに夫のことだった。

しかし、このとき、やなせたかしさんが、この歌に込めた思いがあるということを教えて頂いた。

この機会にと読んでみたら、本当に深かったので、紹介します。
今、考えたりしていることや周りの事と、とてもリンクしました。

あと、他の記事も紹介です(笑)
けれど、また色々でたので書いていきたい。
カットした部分も貼っておきますw

自分が何の為に生きているのか。それを知る必要はないと、私は思う。(これも、以前記事に書いたが、また別に書きたい。)生は、望むと望まないと関わらず、与えられ、生かされて生きている。だから「何の為」「何を目的として」は、それぞれが、自分の生きる目標として持てばいい。ただし、目的に「依存」しないことが肝心なのではないか?または失うことのないものを目的とするのもいいかもしれない。それは「未来」どんな未来を夢見るのか。その夢によっては、夢潰えたときに、また人生を見失うかもしれない。けれど、また新しい未来を夢見ればいい。

ちょっと話が逸れたように思うので、「依存」について書きたい。

「依存」言葉の定義的には、「 他のものに頼って生活または存在していること」(コトバンクより)私は、モノよりも「人に対する依存」についてずっと考えてきた。それは、子どものころから人間関係がうまくいかなかったことによってではある。が、その話は置いておこう(笑)

ここでは「親子関係の依存」について、簡略に。

子供が大切で子供が生きがいと感じるのは、親であれば自然なことだと思う。しかし、子どもは巣立っていく。子供を生きがいにしていては、巣立ったあとの孤独感に耐え切れなくなるかもしれない。その時、あなたは、何を生きがいとしますか?すぐに別の何かを見つけられればいい。自他境界線をちゃんと保ち、自分の人生と子供の人生を混同しない。そうすれば、見つけられるかもしれない。それが「依存しない」親子関係だと思う。または、子供のために自分の人生を費やしても、それを子供に背負わせなければ、それも1つの生き方でもある。「これだけのことをしたのに」そう思ってしまうことの無いように、それだけは本当に思う。(これは、親子だけの話ではないが)

下書き

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