『人間失格 著)太宰治』を読んで考えたこと。
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この本については、純粋に感想だけを述べようと思う。
この本を読んでの感想は2つある。
1,大庭葉蔵(主人公)は自分の中にいる
2,これは小説ではない、太宰治である
【1,大庭葉蔵は自分の中にいる】
大庭葉蔵は幼き頃から自分の思っていることや、考えていることをひた隠しにし生きている。本来は人間が怖いのに、人と接することが怖いのに、それを隠すためにお道化るという「人間怖い」とは一見逆とも見て取れる行動を起こすことで人間を避ける。
この現象は強く自分の中にもいると思った。というか当たり前のごとく、我が物顔でそいつは自分の心の中にいる。大庭葉蔵は自分の心に住み着いている。
しかし、たいていの人間は心の中の大庭葉蔵と上手くやっているのだろう。私だって上手く付き合っているつもりだ。もちろん上手くコントロール出来ないことも多々あるが。
そして、大庭葉蔵は世間と呼ばれる「個」によって傷つけられていく。そう、世間が言っている、みんなが言っている、これは「個」なのだ。人間は「個」を拡大解釈し、世間として捉える。そしてその世間と呼ばれる「個」は自分にとてつもなく、計り知れない影響を与えてしまう。人は皆、世間という「個」と戦い続けているのかもしれないな。そして、その世間との戦いに挑むために自分の心の中の大庭葉蔵が自分を守ってくれているのかもしれない。
でも自分の中の大庭葉蔵が溢れてしまったとき、人は、自分を、人を傷つける。もう戻れない自分を見たときに、自分を人間失格だと思う。
大庭葉蔵は常に矛盾という名の正論を抱えた心の表現なのだ。
【2,これは小説ではない、太宰治である】
小説を読んでいる気にはならなかった。そして使っている単語も今の私には使い慣れていないものばかり。しかし、すらすらと読めた。この感覚は、自分が本当に心に思っていることを吐き出している感覚に似ていると読んでいて感じた。自分が無意識に書いている文章(日記のようなもの)に近い感覚。
その感覚を読んでいて感じるということは、太宰治は自分の感じていることを小説という舞台の上で書いているだけなのではないかと思った。(事実、人間失格を書き上げた1ヶ月後に自殺をしているわけだが。【1948年5月に書き上げ、同年6月に入水自殺、その翌月7月に発行)
人間失格に太宰治を見たような気がして、ついつい見入ってしまったのだ。
■最後に
人間失格とは、を考える。
これは時代によって変わるんだな。何をしたら自分のことを人間失格という烙印を押すのか。人間失格ってなんだろう。俺は人間合格なのだろうか。
でも俺のそばには、「そのままでいいんだよ」と言ってくれる人がそばにいる。
これだけで、生きてる価値があると思える。
これだけで、前を向ける。
これだけで、自分に合格!って言ってあげられる。
人間失格を考える。
その結果、感謝が生まれました。
以上
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