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短読④ この海の水を抜いたらたくさんのかなしいものが出てくるだろう

はじめに

四首目は、丑野つらみさんの歌です。ご投稿ありがとうございました。話し言葉(口調)の文体がもたらすパワーについて考えました。どうぞよろしくお願いします。

この海の水を抜いたらたくさんのかなしいものが出てくるだろう

丑野つらみ/「短歌研究詠草」(「短歌研究」2022年4月号)掲載

まず読んで思ったこと

 この歌を読んだときに、最初バラエティ番組とかで「池の水を抜く」っていう企画があると思うんですけど、なんかそういうものをイメージしました。その池の水を抜くとたくさんのいろんな動物とか、あとゴミとかが出てくると思うんですけど、この歌の中では〈たくさんのかなしいもの〉が出てくるだろうなーっていうことが一つ語られていると思います。
 〈この海の〉って言ってるので、この歌の中の私っていうのは、実際に目の前で海を見てるんだろうなーっていうことを思うんですけど、なんか海の中にいるっていうわけではなくて、その外、浜の方から海を見てそんなふうに思ったのかなーっていう感じがしました。
 ここで「悲しいものが出てくる」って思ったっていうのが、一つ面白いところだなあと思っていて。海は結構広いので池よりももっといろんなものが出てくるんじゃないのかなーって思ったんですけど、(でも)ここで〈かなしいもの〉っていう言葉が選ばれているのが、多分この海の深さみたいなものを見て、すごく底の方にしまわれている物っていうイメージが「悲しみ」という言葉に含まれてるからじゃないかなって思いました。海は水面は見えるけど、奥底の方っていうのは基本的に見えないことが多いのかなあと思うので、悲しみ(という感情)も多分そうやって奥底の方で隠されてしまう物だっていうイメージがあるんだと思っています。
 この歌は、発語と言うか、口調(話し言葉)で発している言葉のように聞こえていて、なんか特にこう、誰か相手に語りかけているわけではないかと思うんですけど、でもこうやって〈出てくるだろう〉って言われると、読んでいる方はちょっと反応したくなるようなところがあるなーって思いました。

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 〈かなしいもの〉という表現は、抽象度が高いので、人それぞれにイメージを呼び起こすような、かなり余白のある表現で、だからこそ読者が思い思いに想像する余地や面白さがあるのだろうなと思いました。
 音声でも話していますが、この歌で「この海の〜だろう」と思っている人は、海にとってはおそらく外部にいる人で、積極的に海に関わりを持とうとしているというよりかは、ふらっと海に来て浜辺の方から見ているような観測者的な立ち位置にいると思うんですね。加えて「だろうか」という疑問形ではなく、「だろう」という表現からは、自分のなかで海への見方が完結しているのだとも思うんです。この海を見たときには確かにそう思って、でも海から離れたらこの思いも、ふとした瞬間に回想されつつ、また生活のなかにしまわれていくような感覚を少し思います。だからある意味、当事者性が薄い感じにつながってくるのかなと感じました。
 また話し言葉(口調)的な文体は、程度はあれ、読者にこちらを振り向いてもらうような、呼びかける効果があると思うのです。呼びかけられると、一瞬立ち止まって応答したくなるようなコミュニケーションの時間ができやすい。ただこの歌では当事者として訴えるというよりも、外部から観測したものを手渡したという感じなので、読者としては「あなたはそう思ったのですね」で会話が終わるような印象もあります。ただ、踏み込んでいくよりも、話し言葉的に発されたこの歌の人の思いの質感やムードをともに味わうことに重きをおくことが、作品の一番良い受け取り方のようにも感じました。
 個人的な好み、一読者の欲望の話をすれば、話し言葉の文体を選んでいるので、この歌の人は海の水を抜いたらどんなかなしいものが出てくると思ったのか、あるいは海の水を抜いてしまったら何が起きそうか、この歌の人だからこそ見えたもの提示して、もう一度読者に問いかけることによって、語り手の持つ話し言葉のパワーをさらに発揮していくのも面白いんじゃないかなあと思いました。海の水を抜いちゃったら、何が起こるんだろうなあ。…どうなると思います?

参考リンク
池の水ぜんぶ抜く:https://www.tv-tokyo.co.jp/ikenomizu/

企画趣旨はこちらから

https://note.com/harecono/n/n744d4c605855


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