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こだわっている過程を一旦捨てる

「やりたくないことをやる」というと、大抵は気が乗らないため、上手くいかないことが多い。

「今までの自分のやり方がまずいんなら、今までの自分がやってこなかったことをやってみよう」と、苦手なことに挑戦してみた人も多いかもしれない。

いわゆる「やりたくないこと」の中に「やったほうがいいこと」があり、それを見極めて「今の自分にはこの行動が必要なのかもしれない」と腑に落とす作業が必要である。しかし、これが非常に難しい。

なぜなら、この作業とは自己受容そのものだからだ。自分がずっと避けていたこと、見たくなかったもの−それをわざわざ見つめなおさなくてはならない。


重要な行動こそ自分で気づかないふりをしてしまう

私は鬱状態が酷く在宅でライターをしていた頃、外で働くことがとても怖かった。しかし、ライターの仕事も報酬は小遣い程度で、到底それで生活していけるほどではなかった。

しかしその時の私は、「私がやりたいことは、ライターなのか?それとも外で働くことなのか?しかし、外で働くことは、これまで幾度となく挑戦してきたけれど失敗してきた。だから、(外で働くことは)向いていないんじゃないか」とずっと思っていた。

文章を読んでいればわかるかと思うが、この時の私に必要だったことは自分自身の精神状態にアプローチすることだ。「ライターを選ぶか外で働くのかどちらか正解の方を選ぼう(正解に近い選択というのは、いつも存在するのかもしれないが)」というのが論点ではない。自分の精神状態を健全にすれば、自ずと適切な選択ができていくのだ。

私はこの時、自分のやりたいことがライターで成功することだと思い込んでいた。文章を書くことは今でも嫌いではないが、お金(利益)にフォーカスして文章を書くことを意識し始めると、一つも楽しくはなかった。(あまり詳しく言うと、守秘義務に触れそうなので詳しく語れないが。

※ちなみにひとつも楽しくないというのは、ライターの仕事自体を否定しているのではなく、私が請け負っていた仕事内容の質が本当によくなかった。所謂底辺ライターであった)。

怖い行動が自分の人生に風穴を開けてくれる

結果的に、外で働くことが私の精神状態を健全な状態に戻す選択だった。他者との関わりの中で自尊心を高め、不健全な精神の中で弱っていた、物事をフラットに見る力を養うことができた。

なぜ私の中で「迷っている」ことになっていたのか。それは外で働くということがあまりにも怖かったからだ。だから「ライターで成功したい」という夢を「持っている」ことにして、本当に自分にとって必要な行為(自己受容)から目を背けていたのである。

自己受容とは、「あまりにも(精神的に)億劫なことだけれど、自分が健全な精神になるために必要な行為」である。したがって、自分にとってはやることに抵抗を感じることだったり、今までも気が乗らないながらに挑戦してみたけど失敗したことだったりする。つまり、不健全時に掲げる理想(と思い込んでいるだけのもの)の先にはそれはないのだ。

理想主義(のようなもの)が加速する時、現実逃避が起こっている。それは不健全時だからだ。現実的なアプローチを無視した理想主義は自己否定であり、他者否定である。