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「ありのままの自分」でいていいのか、ダメなのか?結局ありのままの自分とは何なのか

人生に迷って右にも左にもいけなくなった時、いろんな情報を漁る。結局のところ「自分らしくいよう」「ありのままの自分を認めよう」「取り繕った状態で人から好かれても、自分が苦しいだけ。いつか限界がくる。だから最初から素を出して人と接していこう」みたいなところにいきつきがちである。

ありのままの自分というのは、傍若無人に振る舞うことではない。それはきっと皆わかっているだろう。かといって自分を取り繕って、別の人格を演じながら人と接すると、素を出した時に引かれたり頑張った割に嫌われたりする。

取り繕った状態で好かれたとしても、それは本当に自分のパーソナリティを受け入れてもらえたことにならないので、集団の中にいても居心地が悪い。次第にそこから逃げたくなって、どんどん自信がなくなっていく。



自分の気質を理解+他者への思いやりをセットにして生きる

では、一体どうしたらいいのか–結論から言うと、「自分の気質」を大切にしつつ、「他者への思いやり」を心がけていく必要があると考えた。

私は20歳くらいまで、自分を曲げることが苦手だった。いや、それ以降も苦手だったのだが、無意識に「私はこう思っているから」「私はこうするから」という謎のマインド表明というか、別に求められていない決意表明をわざわざ周りにする癖があった。

今思えば自分が周囲から流されてしまうことへの恐れや、「自分の考えや思いを承認してほしい」といった、満たされないことへ欲求だったのだと思う。結局周囲に共感・同意してもらえず、シンプルに嫌な奴であり続けた。自分で言うのもなんだが、嫌われる子には結構嫌われていたと思う。

「私はこう思う」という考えがあること自体はいい。しかし、それをわざわざ決意表明することで周囲の人間がどういう気持ちになるのか、その場でその決意表明をする必要があったのかは別の話だ。この時の私に必要だったのは、「他者への思いやり」である。それが愛だ。

以前は、「こんな自分だからダメなんだ」という自己否定のゾーンに入って鬱になったが、自分を否定する必要はない。私は私の考えを大切にすればいいのだが、そこにプラスして他者への思いやりを心がける必要がある。「自分の考えを認めてほしい」とそればかりを押し出し、他者への気持ちをおざなりにして、それを表明し続けるのがエゴでありよくなかったのだ。

自分も他者も大切にする選択をしていく

まとめると、「自分らしさを大切にする」とか、「自己受容をしよう」「ありのままの自分でいよう」というのは、「自分も他者も大切にしよう」ということである。

自分のことを大切にするように、他者も大切にする。他者のことのように自分のことも大切にする。それは、「自分らしさ」にプラスして「思いやり」を持って、誠実に自分にも他者にも向き合うということである。