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サッカーを通して見えた日本と海外の違い

サッカーを通してオーストラリアと言う異文化での生活。

日本では味わえない経験をすることができたので、共有したい。

結論、日本とオーストラリアではサッカー文化に明確な違いあった。

その違いは「選ぶ」ことの違いであった。

このことを解説したい。

オーストラリアでの経験を語る上で、抑えておきたいことは、オーストラリアは多民族国家であること、時代背景により、イギリスの植民地時代があったことから、イギリス文化が根強く残っている地域が多い。しかし、多くの民族が移住してきており、イタリア系の人たちが多く住む地域や中東系が多く住む地域、東南アジア系が多く住む地域がある。

日本ではあまり見かけない光景であった。

そんなお国柄もあり、私が所属していたリーグも、イギリス系、イタリア系、セルビア系など民族色を大いに打ち出して活動しているチームがあった。

そんなプチ世界の縮小版でプレーすることができた中、

それまで、日本でプレーをしてきて私が感じていたことは、

失点した場合。反省はするが、なぜ失点したかわからない。曖昧な感じで反省が終わっていた。

これが日本でプレーをしていて感じたことである。


しかし、私がオーストラリアでプレーをする中で感じたことは、

監督「トシ、今日の失点は君の責任だよ。なぜなら…」と言うように失点した場合は責任の所在をはっきりさせていた。

それでもオーストラリアのGKは、技術は荒くても、「自分のプレーに自信」を持っているGKが多かったことだ。


なぜ私は「オーストラリアの選手は自分のプレーに自信」を持っていると感じたかを考えた。

それは彼らが自分の力や能力を理解し、その範囲でプレーを決断することができるからではないだろうか?

ではなぜそんなことができるのだろう。

私は、英語を例に考えてみる。

I can 〜 私は〜することができる

I want〜 私は〜したい

と言う様に、英語は何をするかが先にくる文章構造になっているので、議論や、物事を考えるときは、最初に何をするのか、何を言うのかが決まっている状態である。

しかし日本語の文章構造は最初に説明する言葉が入り、最後に動作が入る文章構成になっている。

この文章構成の違いは、サッカーの様にプレーを選択し続けるスポーツにおいて、大きな差がある。なぜなら、どうするかの理由を考えているうちに次のプレーをしなければならないからである。

GKのプレーの場合、例えばDFラインの裏のスペースにパスが出る。GKは出るのか、出ないのかの判断を迫られる。ここで、一瞬でも決断を躊躇をすると失点につながってしまう。

つまり、GKにおいてはプレーを曖昧にすること=失点に直結する。

なので、なぜ出るのか、なぜ出ないのかを論理的に理解しておかなければならず、さらには、それを瞬時に判断しなければならない。なぜなら、プレーが毎回ギャンブルになってしまうから。

私は今まで明確な判断基準のもと、プレーの決断ができていただろうか?

外国の選手から感じたプレーへの自信は、明確な判断基準のもとプレーを選んでいること、そしてそのプレーに対し責任を持っていることでなないか。

この仮説は指導現場で大いに役立っており、練習メニューを考える際は、判断を伴う、つまり、「選ぶ」練習を取り入れている。その成果(子どもの成長)により、仮説は確信に変わっている。

プレーを「選ぶ」ことの重要さ。そして大切なことは、なぜそのプレーをしたかを説明することができる様な明確な判断基準を持つことが重要であると言うこと。

まとめ

24時間選び続ける英語文化と、24時間曖昧にすることができる日本語文化では、サッカーにおいて、大きな差が存在する。

ただ、日本語の優れていることはどちらでも「選ぶ」ことができるということ。

つまり、海外で活躍する日本人プレーヤーが増えてきている様に、「選ぶ」ことを実践している選手はたくさんいる。

なので、日本でも「選ぶ」環境や習慣を身につけられると言うこと。

24時間「選ぶ」環境?24時間曖昧にする環境?

あなたはどんな24時間にしますか?



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