【書評】デヴィッド・グレーバー (著), デヴィッド・ウェングロウ (著), 酒井 隆史 (翻訳) 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~
内容
ルソーVSホッブズの焼き直しに過ぎない「ビッグストーリー」の否定。
人類社会は初期に平等だったとか、暴力的だったとか、簡潔に表現できる状態で暮らしていた訳でない。
また初期社会から、バンド~部族~首長制~国家のような進歩史観に基づいて大きくなっていくわけでもないことが示される。
キーワード
・ルソー、ホッブズ
・人間不平等起源論
・高貴な未開人
・先住民への批判へのバックスラッシュ。中世~近世の西洋社会の正当化。
・大規模モニュメントの、ヒエラルキーの痕跡の不在
・社会形態の季節性。
・儀礼の中だけの王
・遊戯としての園芸と女性の役回り
・農作物の余剰生産の意図的な拒絶
・異端者(いわゆる障がい者)への崇拝
・自覚的な政治組織の選択
・財産の多寡が権力の多寡に転換する事態
・儀礼の間に封印されてきた私的所有
・分裂生成、創造的拒絶。隣の集落と異なる価値観、社会形態を選択する。(特にカリフォルニア辺り)
・集権から共同体統治への革命。紀元前2000年の普南盆地。テオティワカン。
・トラスカラの都市評議会。王不在。
・国家に起源は無い。国家でない共同体に国家の萌芽があるとは限らない。
・国家が存在するという感覚ではなく、国家が存在しないという感覚に注意を払わなくてはならない。
・社会権力の三つの基盤
①暴力、軍
②情報、官僚
③カリスマ、英雄、弁舌家
近代国家はこの三つが合流しているが、人類史の大半において、社会はこの中から1つか2つだけしかなかった。合流の仕方も多岐に渡った。
2つの場合は、残り一つは神話に託されている場合も。
・ケアと暴力。保護と閉鎖。捕虜、敵国人は自国でどうなっていくか?
・三つの自由
①故郷を離れる自由。よそでも歓待されるという前提
②反抗する・服従しない自由
③社会を組み替える自由
ケアと暴力によって①の自由が失われ、やがて②と③の自由も喪失していく。
自由の喪失が「別の社会形態を想像する」ことを困難にし(近代国家以前には、広く想像されていたのに)、閉塞(stuck)を生み出す。
感想
どんな分野であれ、進歩史観全般が疑わしいと思っているので、内容にとてもしっくりきた。
ユーラシアは互いに影響し合うせいか、紀元後に限るとバンド~国家の社会観に当てはまってしまうようだ。それへのカウンターとして北米原住民の例が豊富に掲載されていて、確かに近代国家が必然とは思えないような証拠と事例にあふれていた。
アメリカ以外の地域、オセアニアや東南アジアでもこれを支持する痕跡は無かったのかなあとは思った。発掘できるほどの何かが無いんだろうが。
ケアと暴力、そして自由の喪失というアイデアが特に気に入った。
「綿の帝国」やマクニールの「世界史」など、西洋の優越を否定する事例として、西暦1300~1700年頃に関して、船団の規模や、貿易量・額や、中東・インド・中国から西洋人は軽んじられていたことなどをあげるのを目にする。
しかし、このような規模の感覚は、科学技術に裏打ちされた西洋の価値観の中でのものさしのようにしか感じられない。結局現在は西洋が規模で優っているのだから、現状を肯定しているようにすら感じる。定量的な説明の仕方で西洋を相対化するのは欺瞞に感じて来た。
しかし本書は、思考の枠組み(不平等や国家の起源)に対して疑問を投げかけることで、ある種の定性的な相対化を成し遂げていて、これまで読んできた書籍のでそ「西洋批判」とは一線を画しているように思う。
そもそも本書を「西洋批判」の側面から感想を付すことは、「万物の黎明」の知見を広げていく能力を低く見積もるような行為のようにも思う。
中立的な目線で読む、というのはたいてい嘘っぱちにしかならないので、むしろ批判してやるくらいの気持ちで全編読み通すと、「西洋批判」とか「ルソーVSホッブズ批判」を超えた本書の多角性を引き出せそう。
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