見出し画像

嫌なら見るな!...の裏に隠れた悲しい現実

SNSやいろんなメディア業界で、炎上やらなんやらの騒ぎが活発してくる今日このごろ。皆様はいかがお過ごしでしょうか?

そんなものとは無縁で心の中は平穏かつ健康にありたいものですね。

とはいえ、そうも行かない事態が各所で散見されるようになってきました。アンチ、荒らし…そういった意見やスタンスの違いからぶつかる人々というのを日夜、目にしているような気がします。

特に私自身が配信者の活動をバックアップしているような活動をしているのもあってか、Twitterでの有名人やら個人の衝突に加え、配信のコメント欄などにおいても、有名無名、企業やチームや個人などを問わず、何かしらの意見でのトラブルを目にする機会が圧倒的に増えてるように思います。

そんな世界に一つのワードが浮かび上がります。何かを発信する側としては救世主のようなワードですが、このワードの光と闇を暴いていきたいと思います。

光属性「嫌なら見るな!」

さて、誤解されると嫌なので先に断っておきます!

私自身はこの嫌なら見るなスタンスは割と同意していますし、それを実践しているつもりです。自分にとっていやなモノはシャットアウトする癖をつけていますし、目に入らないようにしています。

そしてどんな発信に対してもケチをつけたがる人が存在するのも知っているつもりです。私自身も嫌なら見るなスタンスで居るには居るけども、こころの中では「なんやねんコレ!」という具合に、ケチをつけまくっています。表に出してないだけで、やっぱりケチをつけたいものはケチをつけたくなってくるものです。

大きな違いは表には絶対に出さないぞという姿勢です。そうであっても自覚なしに漏れてしまう事があるのが本当に恐ろしいのですが…(過去に漏れ出してしまって、色んな人を不快にさせてしまったことがあります。申し訳ございません…)

つまり上記の行為が非常に難しい事である以上、そもそも見なければそんな感情の漏れ出しも行われないという発想から言うのであれば「嫌なら見るな!」というスタンスはとても理にかなっています。

見なけりゃそんな気にもならないし、嫌な思いをすることもなく、それに対して小言を言って発信主を傷つけたりすることもない。わざわざすれ違う人をすれ違わさせまいとする対処なのでベストに近いんじゃないでしょうか?

闇属性「嫌なら見せるな!」

では「嫌なら見るな!」の一体何が問題なんでしょうか?

つい最近ハライチ岩井勇気さんのこのツイートを目にする機会があり、概ね賛同する一方でその論理に「あれ?」と思う箇所がちらほらあるんですよね。何かこう釈然としないと言いますか…

まず「俺自身は誰にも向けて発信していない。」という点ですね。

これは少々無理があると思います。SNSというのはどういう形であれ、自分が意図している使い方がまかり通る社会ではないと考えています。Twitterは自分の思いを勝手につぶやく場だから反応したアンチ側が悪い!というお話しにしたいんでしょうが「使った側がどう考えてるか」が優先される場ではないという事が重要です。全体と個人の思いが違うからといって個人が優先される場ではない…という考えが重要なのではないのかなと。

「俺自身は誰にも向けて発信していない。」という論理がTwitterの中でまかり通るのであれば、話題になったアンチ発言による自殺幇助ツイートなんかも「誰に向けても発信していません」という一手で逃げ切る事が可能な社会になってしまいます。

Twitterでも配信でもなんでもいいんですが、不特定多数の人が居る場で何かを発信する時には「嫌なら見るな!」と言える半面「嫌なら見せるな!」という事なんですよね。

「俺自身は誰にも向けて発信していない。」と言ったところで全体には発信されてる社会であるし「迷惑なリプライを飛ばすほど嫌ならTwitter辞めては?」といっても、リプライを飛ばせる(受け取れる)状態である以上、リプライを飛ばす事は何も悪くないですし、本人にとって迷惑なリプライが嫌なら受け取る側も同様にTwitterを辞めれば済むことでもあります。

発信する側が守られるべき部分は多いにあると思います。ですから荒らしや過度なアンチ活動は罰せられてしかるべきだと思います。でももう一方のお話しとして、そもそもSNSなぞ使わなければ良かったのでは?という根本の問題に繋がっていくと思います。

不特定多数に発信する利益享受

人々はなぜ、不特定多数の人がいるSNSに発信するのでしょうか?

リスクがあるならばオフラインか鍵垢でひっそりやればいいのに…と普通は思うでしょう。

それはメリットがあるからに違いありません。自分の意見や言葉を誰かに見られたり注目されたり、賛同を得られる気持ちよさを利益として享受しているわけです。

当然それによって人々と繋がったりして、新しく仲間や同士などの発見や発掘に繋がるという可能性も秘めているわけです。そして有名人ならばその影響力を行使することで、いろんな案件や広告といった金銭的にも効果があるので使わない手はないのです。

と同時にそれはもう社会でもあるわけです。

結局のところ、「嫌なら見るな!」は不特定多数への発信するメリットは最大限享受するが、その責任(デメリット)は一切負わないよ!というスタンスであると言えます。

ですから、これを書いてる者としては、これはどうなの?流石に都合が良すぎない?という思いがあります。

これは配信の業界にも蔓延ってるような気がします。配信という手軽に承認欲求や人に見られるという快楽を満たすツールを使ってる一方で、アンチやら荒らしっぽいような人に絡まれた際に「嫌なら見るな!」というスタンスで弾き返そうとしている人は沢山いるように思えます。

現実世界においてセクシーな女性が男性に襲われた場合、それは確かに男性は罪に問われるべきであり、そこは間違えてはいけません。ただこの襲われた女性が余りにも過激な服装であった場合は「襲ってきた男が完全に悪い」と見られるかというと、はなはだ疑問ではあると思います。「私はどの男性も誘惑していない」と主張したところで、社会はそれに賛同しかねるだろうし、なんなら「普通の服を着ろよ…」って思います。

この「普通の服を着ろ」っていうのはSNSで言うならば「嫌なら見せるな!」に当たると私は考えています。

発信行為とその責任

過激すぎる服装で街を歩くのと同じく、不特定多数の人がいるSNSでの発信行為にはリスクや責任が存在すると思っています。そしてその責任やリスクというのは、アンチや荒らし側だけではなく、ごく普通の発信行為にも付きまとうお話しだと思っています。

発信行為は様々なメリットを受け取ってるのと同時に、アンチに絡まれたりアンチを生み出したり、はたまた荒らし行為に遭うというデメリットも同時に存在しているということです。

目立つ格好をすれば人々の注目を浴びたり賞賛される事もある一方で、社会不適合者とか頭のオカシイ人烙印、またその目立つ人を利用しようとする人に絡まれる事などと同じと言えましょう

アンチや荒らし、変な人が個人に対する否定的や攻撃的な発信をするという快楽に浸かっているのと同じレベルで、貴方が「不特定多数の人がいる世界に発信を止めれない」という快楽に浸っていると言えると思います。

もちろんこれに浸かってる事が悪いとは思いません。しかし結局は同じ穴のムジナと理解した上で、不特定多数の人がいる世界へ発信することのデメリットを正しく認識し、責任を負うべきであると自分は考えています。

私自身もこうやって一見挑発的な内容で発信しているわけですが、この内容が正しいとか間違ってるとかはさておき、発信したことへのメリット、デメリットとはしっかりと向き合っていくつもりです。

それは、もしかしたらハライチ岩井さんに嫌われるかもしれないし、否定的な意見も飛び交うかもしれない。もともとの知り合いから「失望した」なんて言われるかもしれない。でも私の意見に賛同してくれる人もいるはずです。そして新たにフォローなりして応援してくれる人も増えるかもしれない…そういった様々な可能性の渦にいるのが不特定多数の人がいるSNSの本質であり、社会のあるべき姿なんだろうなと感じています。

自らの可能性を広げる行為をしてチャンスや恩恵を受けている以上、何かを発信する側が「嫌なら見るな!」というのは、かっこ悪いのではないか…と。

不特定多数の人がいるSNSというのは、よくも悪くも色々な人が集まってる世界であり、発信する側が都合の良いように守られるという自分にとっての楽園などではないという事を自覚しておきたいです。これは同時に、荒らしやアンチなどにとっても言えるお話しですので、誤解のなきように!

自分の気に入らない人を寄せ付けたくないのであれば、鍵垢やオンラインサロン的な、自分と気に入った人だけの世界を構築する手段は多数存在していますので、そっちに向かうのが無難でしょう(そういうのが流行りつつある背景には、こういう事が関係しているのかも?)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?