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朽ちる美学

こんにちは、ハラキリです。

ゲーム配信者向け&ゲーム好きな人の居場所を作るDiscordサーバー「ゲーム好きな猫の集会」の管理人をやっております。

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NOTE再開した理由が、なんと文章で伝える力を鍛えるため...ということで...朽ちるその様はとても美しい…とか言っちゃったり?

今回のお題は朽ちる事です。

朽ちる事の美学とは?それは人間として尊厳のある死生観と自分は捉えています。最近の団塊以降の世代に足りていない美学だと私は思っています。朽ちる美学を学ばないので、今とてもイビツな形になっていると思っています。

この美的感覚を養わない人が多いため、必死に生にしがみつこうと、富にしがみつこうとするわけです。

自分の場合は、実は何かにチャレンジしたり一生懸命になってる事って、自分のためのチャレンジではないんですよね…そもそも自分は、もうそういう時期は終わったと感じています。とても悲しい話なんですが、自分の場合はチャレンジせずに終わりました。

では自分に残された時間で出来る事は何だろうか?と考えたとき、この世界とか後々の子供たちに少しでも良い環境を…と考えたわけです。つまり私のやろうとしてる事は引継ぎ作業です。

まだまだ時間はあるし若いから今からでも…っておっしゃる人もいるし、その気持ちもわかりますが…あとは残していく作業のみです。

我々が若く未来のある子どもから、富や環境を吸い取ってまで生きてはいけないんですよ。そんな生に価値は無く、そんな世界に未来などありません。勝負する時期を過ぎてしまったなら、潔く舞台から降りるべきなのです。

しかし、今の世の中はこうじゃないと考える人が多いんです。年取った人が得するような社会システムが作られています。年金や選挙なんかがその最たるものだと言えましょう。

じゃあそんなお年寄りの人々が悪いのかというと、そうじゃないです。彼らもまた、せっせと働かされて老後楽に生きるという幻想を抱かされた被害者なのです。

これもまた死生観というものを正しく教育してこなかった弊害です。今のお年寄りは自分の死生に囚われすぎている人が多いんです。いずれ死ぬ事を意識して、今出来る事を、未来のために考えていくという大切さを失っていると言えます。

何者でもない自分が出来る事を真剣に考えた結果、若い世代の足も引っ張らず、後に生きる人々のために可能な限り遺して、あとはひっそりと朽ちてゆく…私にとっては素敵な死に様です。

自分は登山が好きで山に良く出かけますが、秋から冬にかけて落ち葉が地面に落ちているのを見かけます。それを見て度々思う事がありまして…我々の世代はもう落ち葉なのかもしれません。

でも落ち葉にもちゃんと役割はあります。土壌を肥やすために必要なものです。いろんな分解者が落ち葉を分解したり、落ち葉の下で昆虫の住処になっていたり、生き物の餌だったり…

そうやって肥えた土壌に、また次の年に新しい生命が咲き乱れる…という循環を自然は繰り返しているわけです。だからこそ美しい!

いかがでしたでしょうか?ただ舞台から降りるわけじゃなく、次の世代にバトンタッチしつつ、その世代がもっと栄えるように我々は朽ちていく…それこそが今、求められている事なのかなと思っています。

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