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手紙という文化を再評価してみよう

不適切な発言が続く現代に蔓延る病を治せるかもしれない…またまた最近気になってる事をカキカキと。

自分は「手紙」というやりとりをやってみたいと思ってるうちの一人である。自分の事を知ってる人たちからは「なーに乙女チックな事言ってるんだよハゲ!」と思われる人がいるかもしれない。

もちろん断っておきますが、別に乙女チックキャラを目指してるわけでもないし、女子力を上げたいわけでもなくモテたいわけでもないし、ハゲでもない(暫定)

この時代だからこそ手紙が素敵なコミュニケーションになり得るのでは?という考えです。という事で解説していきましょう。

- そもそも手紙の価値がわからない -

そうなんです、自分はもともとコッチ寄りの意見でした。

小さいころに学校で勉強したか、そもそも絵本で読んだか忘れたけどもこういう話を見た。

「ふたりはともだち」というシリーズの「おてがみ」というものだった。

この本を読んだ当時は全くもって「????」だった。そりゃまあ小さい頃だったので創作として楽しめていないというのもあるんだけど、この「おてがみ」を欲しいという気持ちも「おてがみ」を待つという事も完全に理解不能だったわけです。

それもこれも、これが描かれた時代的なものや物語の時代設定、そして自分の価値観などもあったように思う。

というのも既に通信技術が発達していて、お手紙だなんて回りくどい事を考えなくても「電話」すれば良い…という価値基準を既に現実社会で形成していたんですよね。

まだインターネット自体は主流ではなかったものの、電話という瞬時に連絡取る手段を持っていたため、おてがみの存在価値がサッパリ理解できませんでした。あんな紙切れを何で大事そうに待ってたりしてんだ…と。子供ながらにヒドい事思ってた気がする…

そしてそれはつい最近まで続いていた…ということです。

- 発達する通信と無限の希釈 -

そして時は過ぎ現在、SNSやらLINE、DiscordやZoomといったありとあらゆる通信と、それに伴う技術が発達してきてリアルタイムで映像や音声でコミュニケーションが可能になりました。

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もちろん利便性が上がり凄い時代だなあと実感しています。

それどころか日々アップデートを繰り返していく技術により、このコミュニケーションも凄い様相になってきて、もちろん自分も様々なシーンにおいてこの便利な通信環境を使用し恩恵を受けています。

それに対しまるでアップデートも行われず非常遅い通信性で、かつ情報量も限られる「手紙」などというものは、朽ちゆく文化の代表格です。その役目を終えて風化していくのが世の理ということで、これも時代の流れだと考えて仕方ないよね…と思っていました。

しかし気付いてる人は気付いてるとは思うんですが、今このSNSや通信技術の発達により、リアルタイムかつ休みなく言葉がやりとりされているためか、言葉が氾濫を起こしてるように思えます。

そしてそれは無限にも近い言葉の羅列が日々世界でつづられ、その価値は無限に薄められているというのが現状です。価値を持つ言葉というのは、その言葉の真実味などではなく、言葉を発する人や状況の価値に言葉の価値が付随するというのがネットワーク社会の実情です。

事実、どういう言葉を発するかではなく「誰が発したのか?」もしくは「どういう状況で発したか?」が全てになりつつあります。

それどころか愚痴、失言や暴言といった言葉の負の側面がスポットライトに当たる事も少なくないです。

連日、有名人の不適切発言での謝罪を目にする事も多く、女性プロゲーマーのたぬかなさんが「人権ない」と発言しちゃったことで話題になり、チームから除名されてしまった…というような経緯もあります。

これもネットワーク上においては、言葉に価値が殆ど残っていないという事の現れかもしれませんね。だから、武器としての言葉…すなわち相手を引きずり下ろすために使われたり、相手を攻撃する事でしか言葉の価値を証明できなくなりつつある気がしています。

- 有限であるということ -

これはありとあらゆる事に言える話なのですが、無限に近づけば近づくほどその価値を薄めてしまうというジレンマが存在します。

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上で書いたように言葉がリアルタイムに、再現なく垂れ流す事が可能になった今、言葉の価値というものが極端に減っています。

そして無限に生み出されるコンテンツも同様に価値が減っているように思います。だんだん全てのものが無料化していく世界…そこで価値を生み出す事自体が難しくなってるのも要因の一つだと思います。

そしてもし私たちが不老不死になったのなら?

そこはとっても退屈な世界でしょう。無限に時間があるゆえに、どんな事にも優先順位が付かず「全てが後でもいいや」という風になってしまうでしょう。漫画とかでも不老不死キャラが退屈そうにしてるのは、この精神状態をあらわしていると思います。

逆を言うのであれば…つまり有限というのは「限りがある」という価値を生み出しているわけです。

- 今だからこその手紙の価値 -

そうするとどうでしょう?手紙は昔からずっと価値を変えずに生きてたんですよ。

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何もかもが回りくどく「限定される」というデメリットが、それとは別に付加価値を与えてくれているのでは?と…

もし自分は誰かに手紙を送るとなると、相手の事を罵倒するような事は絶対書かないでしょう。当然ですね…

まずは挨拶から入って、近況報告などをして楽しかった事とか書くでしょうし、相手の事を熟慮した上で返信しやすいような話題を出したり、読んでるその時に「こう思ってくれるんじゃないか?」という事をしっかりと考えて書くでしょう。

もちろん封筒やら切手の用意が必要です。どんな封筒に入れようか?とか、便箋のデザインどうしようか?とか…封筒のわずかな隙間に押し花入れたりなんかして(乙女すぎる…)汚い字で書いたらダメだから…とか、見やすいように色を付けようとか。

きっと手紙を送ると決めた瞬間から、思いが相手のほうに飛んでいく感覚が得られるんじゃないかなと。ありとあらゆる所作が相手基準で考えられる素敵なコミュニケーションが発生してるように思います。

昨今の荒れているSNSコミュニケーションで疲れている人々に必要なのは、こういう相手を思いやる癒しのコミュニケーションなのではないでしょうか?そしてそれは、悲しいかな「限定される」という概念の薄いSNSというシステムでは達成されないのかもしれませんね。

思い返してみると「ふたりはともだち」で「おてがみ」を待つ側と書く側だったガマくんとカエルくんは、本当に素晴らしい関係性を持ってたんだなと理解できた次第です。

わざわざ準備までして、自分で手書きして、時間をかけて届けなければならず、そして次の返事まで待つ…という限定的なコミュニケーションが生み出すものは、かけがえのない素晴らしいものなのかもしれません。そしてそんな素敵なコミュニケーションを送る側と受け取る側がいるという事は、なんとも素敵な事なんだろう…と。

…自分もおてがみが欲しい!

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