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まるい水、まるい空

1月の終わりに、松濤美術館での展示「舟越 桂 私の中にある泉」を見に行った。

舟越桂を知ったのは、浪人生のときだった。実物ではなく、図書館で借りてきた本で作品を見て、彫刻科志望に転向しようか、と少しの間考えるほど心を掴まれた。目元や口元に無数に刻まれた、細かなのみの跡。皮膚の下に透ける血の色のように薄く施された、赤や青の彩色。澄んでいるようでどこか虚ろさもある、ここではない遠くを見ているような目。

舟越桂の作品は、ごく初期のものを除いて、木彫の目の部分だけが大理石でできている。これは、仏像彫刻にも用いられる「玉眼(ぎょくがん)」という技法によるもので、彫刻の頭を割って内部をくり抜き、内側から眼球をはめ込んでいる。想像するだけで恐ろしい労力だが、実物を見て、やはりそれだけの価値があると思った。目に透明感があって美しいのはもちろん、その部分だけ異質な、冷たくて質量のあるものがはめ込まれているという感じが強くして、その存在感に引きつけられる。そして、彫刻の後頭部に残っている、割った部分を接いだ跡を見るのもぐっとくる。『オズの魔法使い』で、ブリキのきこりが胸を切り開いて心臓を入れたように、頭を割って石の目を入れる、そのことでようやく、木だったものが人の魂(のようなもの)を得るのだ、という感じがする。もっとも、目の部分まですべてが木彫の人物像で、素晴らしいものもたくさんあると思うので、勝手な感想かもしれないが。

タイトルのつけ方も好みだ。彫刻には背景がないが、人物の彫刻に付された「短い伝記を読んだ」「午後にはガンター・グローヴにいる」のようなタイトルは、作品の背後にかすかな物語を生じさせるようで魅力的だし、より抽象的な「枝は手帳」「かたい布は時々話す」などは、それ自体が、彫刻作品と拮抗する言葉のオブジェのようだと思う(いずれも今回の展示作のタイトルではない)。舟越氏のお父さんが彫刻家だというのは知っていたが、お母さんが俳句をされていたということを今回の展示で初めて知り、なるほど、と思った。

展示されていた作品数はあまり多くはなく、初期の作品が多かったが、10年以上ぶりに舟越桂の作品を見ることができて、とてもうれしかった。

松濤美術館を訪れたのは初めてだったが、建物もおもしろかった。円筒形の建物の中庭部分全体が、噴水のある泉になっている。建物の中庭に面した側はガラス張りになっていて、中ほどの階から下を見ると一面まるい水で、上を見るとまるい空だ。1階部分に橋がかかっていて、泉の上を横断できるようになっているが、コロナの影響で封鎖されていた。今度訪れる機会があったら、あの橋を渡りたい。

「舟越 桂 私の中にある泉」
2020年12月5日(土)~ 2021年1月31日(日)
渋谷区立松濤美術館
https://shoto-museum.jp/exhibitions/191funakoshi/