『美術の物語』6.歴史の分かれ道(ローマとビザンティン 5世紀-13世紀) まとめ

紀元311年、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教会を帝国内の一勢力として認めた。しかしそれとともに、教会は大きな問題に直面することになった。

国家の最大勢力になったことで、キリスト教と美術の関係は根本から考えなおされねばならなくなった。

キリスト教の教会では、儀式に参集する信者を全て収容できる広い空間を必要としていた。そこで、異教の神殿ではなく、古典古代の社会で「バシリカ」と呼ばれていた、大きな集会所が教会のモデルとなった。

キリスト教会にとっては、バシリカをどう装飾するかという問題の方が、建築自体よりも、はるかに深刻で難しい問題だった。

初期のキリスト教徒たちの考えがほぼ完全に一致していたのは、神の家に彫像があってはならないという一点だった。

その一方、まるで生きた人間のように感じられる大きな彫刻とちがって、絵画に対しては、敬虔なキリスト教徒たちも好意的だった。

絵画については、集まった信徒たちにキリストの教えを思い起こさせ、聖なる物語を記憶にとどめる助けになるのだからいいのではないか、と考える者もあらわれた。   

6世紀末のローマ教皇、グレゴリウス1世ははっきりその立場をとった。

「文字の読める人にたいして文がしてくれることを、文字の読めない人に対しては絵がしてくれるのだ」と彼は語っている。

しかし、そんなふうに美術を容認するとしたら、容認される美術の性格が限られてくるのは明らかだ。

描かれる物語は、あくまで単純明快なものでなければならない。聖なる目的なら外れるものは排除されていく。

画家たちも、ローマ美術によって開拓された語りの手法に従っていたけれど、次第にキリスト教の教えのエッセンスだけを描くようになった。
※『パンと魚の奇跡』 港湾都市ラヴェンのバシリカ式教会のモザイク画の例示

画面の奇跡は、数百年前にパレスチナの地で起こった不思議な奇跡というにとどまらなかった。奇跡の画面はキリストの不滅の力が教会と一体のものであることを示す証であり、象徴だった。

このような図は最初は、どこか堅苦しいものに思われるかもしれない。ギリシャ美術が誇りとし、ローマ美術にも引き継がれたあの生き生きとした人間の動きや表情はどこにもない。決まりきった正面像であらわされた人物は、子どもの絵を思わせるかもしれない。

もしもこの絵が素朴にみえるとすれば、それは作者が単純に表現したいと意図したからだ。

分かりやすさを追求する教会のもとで、表現の明快さという、かつてエジプト人たちの重んじた観念が、大きな力を得て復活してきている。だが用いられた形式は、ギリシャ美術が発展させた高度な形式であって、決してそれ以前の単純素朴なものではない。

中世のキリスト教美術とは、そのように、単純素朴なものと洗練されたものが不思議に融合したものだった。

教会における美術の本来の目的がどこにあるのかと、という問いは、ヨーロッパ史全体を揺るがす重要この上ない問題になっていった。

ビザンティウム(コンスタンティノポリス)を首都とし、ギリシャ語を公用語とする東ローマ帝国は、いくつかの重要事項についてローマ教皇の指導を拒否したのだったが、美術の使用もその一つだった。

宗教的な性格を持つ図像(イメージ)は全て認めないという一派もあり、枯れらはイコノクライスト(偶像破壊者)と呼ばれた。

しかし彼らに対立する人々の方もグレゴリウス1世の考えに同意していたわけではない。

「慈悲ぶかき神は、人の子イエスの姿を取って我々人間の目の前にあわられる決心をされたのですから、同じように図像としてご自分姿を示すことを拒否されるわけがない。異教徒とちがって、われわれは、図像そのものを崇拝するのではない。図像を通して、図像の向こうの神や聖人たちを崇拝するのです」そう彼らは主張した。

論の立て方をどうするかは人さまざまだろうけれど、この図像擁護の主張は美術史にとって途方もなく重要なことだった。

絵はこの世を超えた世界を神秘的に映し出すものと見なされたのである。

聖像は、古来の伝統によって神聖化された定型に忠実に従わなければならなくなった。

ビザンティンティン美術は、ある種の堅苦しさを持つのは確かだが、後代の西ヨーロッパ美術よりも写実性が高いのである。しかし、その一方、伝統が強調され、キリストや聖母を表すのに一定の枠を守らなければならなかったから、画家が個人な才能を発揮するのは難しかった。
※『王座の聖母子』 1280年頃の祭壇画の例示 コンスタンティノポリスで制作

ただこうした保守的傾向は、ときと共にゆっくり広がっていったので、この当時の画家に自由裁量の余地がまったくなかったと考えるのはまちがっている。

素朴な挿絵の域を出なかった初期のキリスト教美術は、彼らの手によってビザンティン教会の内部を飾る、一連の巨大で荘厳な図像へと変えられていったのだ。
※『万能の統治者キリスト、聖母子と聖人たち』 1190年ころ シチリア島のモンレアーレ大聖堂のモザイク装飾の例示

ロシアの聖像(「イコン」)には、いまなお、ビザンティンの画家たちの偉大な創造の影が尾を引いている。




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