『美術の物語』4.美の王国(ギリシャとそのひろがり 前4世紀ー後1世紀) まとめ

・大いなる目ざめのときが来た。美術が自由な表現に向けて大きく動きだしたのだ。それはおよそ紀元前520年から420年までの100年のことだった。紀元前5世紀の終わりまでに、美術の作り手たちは自分の力と技に十分に革新を持ち、人々もそのことを認めるようになった。

・ひとびとは「流派」の優劣を論じはじめた。

・比べられ、競い合うことによって、作り手たちがいっそう努力するようになったことはまちがいない。

・優雅で心地よいという性格は、当時の彫刻と絵画にも当てはまる。時代と
しては、フェイディアスの後の世代の作品だ。
※建築様式におけるド―リス式から優美さと繊細さを備えたイオニア式への移行の例示

・この勝利の女神のフリーズ彫刻をみると、仕事に対する作り手たちの態度に、少しづつ変化が起こりはじめていたような気がする。この作者は自分の並外れた力に誇りを持っている。
※アテネ・ニケ神殿の外装装飾『勝利の女神』の例示

・紀元前4世紀の偉大な神殿彫刻群は、いまや美術作品として、その美しさゆえに、名声を獲得することになったのだ。教養あるギリシャ人たちは、詩や劇を演じるように絵画や彫刻を論じるようになった。

・この時代のもっとも偉大な彫刻家はプラクシテレスである。

・このプラクシテレスの作品には、昔の彫刻のこわばった感じがみじんもない。神はくつろいだ姿勢で私たちの前に立っているが、それでいて威厳は損なわれていない。しかし、こんな表現がどうしてプラクシテレスにできたのかを改めて検討してみると、古い美術の教えがまだ忘れられていないことが見えてくる。
※『ヘルメスと幼いデュオニソス』の例示

・生身の肉体は、ギリシャ彫刻のように、均整のとれた、非の打ちどころのない美しさを持つことはあり得ない。そこで人が考えがちなのは、彫刻家たちがたくさんのモデルを見た上で、好ましくないところを省いたのではないか、ということだ。

・けれども、修正写真や理想化された彫刻ほど、味気なく、生気にかけるものはない。

・ギリシャ人がやろうとしたことはそれと正反対のことだった。

・古くからある殻に生命を吹き込むことだったのだ。

・その時美術がようやくある地点にー類型的なものと個別的なものが初めて微妙なバランスを獲得する地点にー到達していたということだ。

・古典美術のもっとも有名な作品は、人間の理想像を表現したものとして後々まで賞賛されてきた。その多くは、この時期つまり紀元前4世紀の中ごろに作られた彫像のコピーか改作である。
※『ヴェルデーレのアポロン』『ミロのヴィーナス』の例示

・もちろん、美しい像のこういう作り方にも問題はある。

・いかにも人間らしいと思える型は作れるが、この方法で現実の一個人を表現できるのだろうか。

・ギリシャの彫刻家たちが顔に特定の表情を持たせないようにしてしていたことは、思えば不思議な事実である。

・ソクラテスのいう「魂のうごき」を表現するために作者たちが利用したのは、顔ではなく、体型と体の動きだった。

・プラクシテレスの次の世代が登場してくる紀元前4世紀のおわりごろには、表情を抑えることがだんだん少なくなり、美を壊さずに顔に生気を吹き込む方法が発見されていった。それだけではなく、個人の魂の動きや個人の相貌の特徴が捉えられるようになり、いわゆる肖像が作られるようになった。
※リシッポス作『アレクサンドロス大王の頭部』の例示

・アレクサンドロスによる帝国の建設は、ギリシャ美術にとって途方もなく重要な出来事だった。二、三の小都市の美術に過ぎなかったギリシャ美術が、帝国の建設とともに、世界の半分に通用する視覚的な共通言語になったのだから。

・この後期ギリシャの美術はギリシャ美術ではなくヘレニズム美術といわれるのが普通だ。

・ギリシャ美術の様式と新機軸が、オリエント王国の規模と伝統に合うよう修正を施されている。
※建築様式におけるイオニア式から装飾がおおく豪華なコリント式への移行の例示

・ヘレニズムの時代にギリシャ美術の全体が変化せざるをえなかったことは先に述べたが、変化のさまは、その時期の最も有名な彫刻の内にみることができる。
※『ペルガモンのゼウス神殿』の例示

・作者の狙いは明らかに強烈な劇的効果にあった。

・ヘレニズム美術はこのような荒々しい激烈な作品を好んだ。印象の強さを求めた美術であったが、なるほど印象は強烈である。

・ことの真相は、このヘレニズム期にいたるまでに、美術が古くから保っていた魔術や宗教との関係をおおかた失ってしまった、ということがあるだろう。彫刻家たちの関心は、職人技そのものの優劣に向けられるようになり、
このような劇的な戦いの場面を、その動きや表情や緊張感を含めてどう表現するのか、それが彼らの腕の見せ所になっていたのだ。ラオコーンの運命の道徳的な善悪のことなど、彫刻家の脳裏には浮かびもしなかっただろう。
※ヘレニズム期の彫刻『ラオコーン群像』の例示

・こういう時代のこういう空気のなかで、裕福な人ひとが美術品を収集するようになった。

・当時の画家たちの関心も、彫刻家たちと同様、宗教的な目的に奉仕することよりも、職人としての専門的な技巧の問題に向けられていたようだ。

・古代の絵画の特徴を知る手がかりとしては、唯一、ポンペイなどで発見された装飾絵画やモザイク画を見るしかない。

・絵になりそうなものなら何でもある。それがこれらの装飾絵画だと言っていい。

・風景画の出現は、おそらくヘレニズムの最も革新的な出来事だった。

・ヘレニズム期になって、テオクリトスのような詩人が、羊飼いの暮らしといった素朴な生活に魅力を見出すようになって初めて、画家たちもまた、上品な都市生活者向けに、田園の楽しさを味わえる絵を提供しようとしたのだった。

・実は、ヘレニズムの画家たちでさえも、私たちが遠近法と呼んでいるものは知らなかった。

・対象が遠ざかるに比例して規則的に縮小するという法則ー現代の私たちが風景を描くときに利用する固定した枠組みーは、古典古代には使われていなかった。

・(しかしながら)どんな様式のもとでも、作品を芸術的完成の域に高めることは可能である。

・ギリシャ人たちの作品には、それを作りだした知性の刻印がつねに押されているのである。



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