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ワークショップの中で大切にしていることは、安心とか安全という言葉じゃないなあ。

メールの整理をしていたときに、ポンと目の前に2016年のメールが出てきました。
自分の行ったワークショップに絡めて、そのとき、懸命に考えていたワークショップでの安心安全について思うことを言語化したいと書きました。
自分の経験をとおして考えた文章でした。

なるほどなあ〜と思ったこともあったので、今回そのまま出してみました。

2024年の今ならどう書くかな、ということも、この文章のあとに書いてみました。
とても長い文章です。よければ読んでみてください。

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音・聴・感 探求ゼミ 通信 VOL1

みなさま、こんにちは!
2016年8月から月に一度、中目黒はプレイバック・シアター研究所にて
「音・聴・感 探求ゼミ」 という変な名前でワークショップゼミを始めた岩橋です。
このメールは、第1回目に来られた方、または今後行きたいと思われている方に
ゼミの予習・復習・補習のために送られるものです。

当日の音・聴・感ゼミでは、4時間はあっというまで
フィードバックが満足にできずに終わってしまうことが考えられます。
せっかくならみなさんとゼミのように探求したいので
たたき台として、ゼミで今までやったこと、これからやろうとすることに関係することや、岩橋のワークショップの考え方などを言語化してみようと考えました。

ワークショップでもほとんど説明しませんし、言葉足らずなところがあるのでよかったらこれを足掛かりにしていただければと思います。

こう思ってください、というよりも、こんなふうに考えています、どうでしょうか?
という感じです。

最初に言っておきますと、この文章は長いです。

*第1回 音・聴・感 探求ゼミのご報告

第1回目はおなじみの方から、十数年ぶりの方まで定員を超えてめいっぱいで、ご参加いただきました。
テキストとして前半オノ・ヨーコ「どんぐり」、後半は幸田露伴「五重塔」を使用いたしました。

この二つのテキストは、単語、文体、文章のリズムまでまったくちがうものです。
テキストの使い方としても対照的で、「どんぐり」は一番最初に、ほんの2,3ページをよみきかせたのみで
そのあとはご自身の「どんぐり」を作ってみてください、とお願いして、
後半では、「五重塔」にしっかりと向き合い、
素読(すどく)・・・江戸時代に寺子屋などでされていた漢文を読む読み方。意味で読まずにできるだけ抑揚をつけずに声にする読み方
をご紹介させていただきながら、
テキストに忠実に、音とリズムで文章が生きる読み方を模索いたしました。

案の定、時間がたらず、最後は駆け足になり、みなさんの協力で乗り切ってもらいました。
後から様々な感想をいただきました。
そのほとんどが、「なんかよくわからないけど、おもしろかった」というお言葉でした。

*ミャンマーでの出来事

8月の後半は、プレイバック・シアター研究所の羽地朝和さんにお誘いいただき、ゆいまーるプロジェクトに参加してミャンマーへ行きました。
そこで印象的だった出来事から考えてみます。

ミャンマーの最終日、僧院にて日本語を学んでいる方たちに、

1時間半朗読の時間を担当させていただきました。
ひらがなとカタカナが読めるくらいの初級クラスということで
その時間は、音読による日本語のリズムを体得する時間にしようと考えました。

人数は100人近く。
普段なら身体も使いたいところですが、
100人が座る椅子と机でほとんどスペースがいっぱいです。
生徒の年齢層は10代後半、20代前半でしょうか。
女性が7,8割だったように記憶しています。

その時間を提供してくれたクラスの先生が、始める前に生徒がリラックスして臨めるように、
「恥ずかしい気持ちを出して片隅に置いてください」
というようなことを身振り手振りの話術で生徒全員を大笑いさせて、場をあたためてから、わたしにわたしてくださいました。

私は導入で、言語を話しはじめる2歳の子だと思って、声に出していきましょう。
と話し、最初に日本のわらべうたや手あそびうたを紹介させていただき、
最後は「おむすびころりん」をリズムに乗せて群読する練習をし、発表をしました。

「むかしむかしのはなしだよ
やまのはたけをたがやして・・・」
「おむすびころりん すっとんとん
ころころころりん すっとんとん」

ひたすらリズムに合わせて100人で音読する「おむすびころりん」は大迫力でした。

その後、共に活動したスタッフの振り返りで
ファシリテートについて少しディスカッションをしました。

生徒をリラックスさせて学習することは
とても大切なことだけど、(楽しませることを)やりすぎるのは、どうかと思う。
とファシリテーターを学び初めて数年のある日本人。

ミャンマー人は、間違うことや人前で表現することを極端に恐れる。
そんな教育を受けてきていない。
だから、これくらいしてリラックスしないと、楽しく学習できないのだ。
とミャンマー人の通訳の方。

ミャンマーの教育事情やミャンマー人の気質がどうなのか
1週間足らずしかいなかったわたしにはわかりません。
答えが見えない中でもそれぞれの想いを話し合いました。
とても印象的な出来事でした。


*ワークショップは安心・安全な場なのだろうか?

自分のワークショップ、高校の身体表現の授業、大学での応用ドラマ教育の授業、そして、朗読の授業でも、私は、
まちがっていいのだ、ここは間違う場所だ
というメッセージは発信します。

思春期を迎えたあたりから間違うことを極端に嫌い、
大勢の場で表現することを苦手だと思う人はたくさんいます。
学校などで表現の場を作っていく時、やはりものすごい緊張感が漂っています。
それに対して先生やファシリテーターは日々、どんな場を作るのかを切磋琢磨するのですよね。

私はそこであまり「安心」のお世話しすぎるといけないなと気を付けています。
参加者から「これだよね?」と承認や確認の表現がたくさん送られてくるからです。
そう言ったことを繰り返していきながらプロセスを踏んでいくほうが
学習方法として安全なのは、わかるのですが
あまりそういったことをしたくない自分が居ます。
参加者一人一人が負うものまで、こちらがいつのまにか背負うような気持ちになるからです。
私自身が共感しすぎる傾向にあるからかもしれません。

できれば、ある緊張感を持ったまま、そこに居続けてほしい
そんなふうに思っています。

もうひとつそれに関連して経験した話をします。
先日、私と数人で演劇科の高校の先生のワークショップを企画しました。
その先生が高校生に演出した作品を見て、彼らがとても生き生きしていて、これはおもしろい!と思い、
仲間で企画している実験的なワークショップのファシリテーターをお願いたのです。

前半は、人前に出る身体づくりとして、ストレッチから始まり、
よけいなものを発しないゼロの立ち方、 美しい歩き方、など2時間かけて徹底的に身体を動かしました。

みんな汗びっしょりでした。
人との出会い方でアイコンタクトも要求されました。じつは、これは私の嫌いな活動です。
進め方次第では、ぐったりと疲れてしまうので適当にやっておこうと考えました。でも、
ただ視線を合わすのではなく、その人の目の奥までとらえてみて。
といわれて、やってみると、自分のスイッチが変わったのを感じました。
4時間があっという間で、感覚的で感動的な素晴らしいワークショップでした。

のちにある一人の参加者がSNS上で
この前半の活動を拷問のようだったとあげました。
ワークショップとは、ファシリテーターの要求に逆らえないような関係性に陥るのだから
そうならないようにもっと気を配るべきだ。でないと大変なトラウマになる。
というのです。

参加者が、受けたワークショップをどう感じるかはまったくの自由ですが、
ワークショップのあるべき経験とご自身の個人の意見を混同されていたため、
主催者としてSNS上でやりとりをしました

やり取りを繰り返して、そこではじめて、ああ、この人は表現する場のワークショップを
全面的に安全で安心であるべきだと思っているのだなと思いました。

たしかにそうなのかもしれません
私も長い間、ワークショップの現場が参加者にとって安全、安心な場であることは、重要なことだと考えてきました。
そして、できるだけファシリテーターである私の影響を受けないよう、心を配ってきました。

でも、本当にそうなのでしょうか?

私は参加者になってもファシリテーターでも、ワークショップの現場は、あるところでは安心していますが
ある部分では、表現の場として手放しで安全だと思ったことはありません。
自分の思ってることが本音に近づけば近づくほど
自分の中のコアな何かに触れることは、とても危険な側面を持っていると思っています。

そして、ファシリテーターがどんなに自分の影響が出ないよう封じ込めていても
そこにファシリテーターとして立ったとたんに存在として場にものすごい影響を与えてしまっています。

だから何にもしなくていいといってるわけではなく
ファシリテーターの言うとおりにすれば大丈夫とは思わないで
最低限、自分の足で立っている
という自覚をしてもらうための場作りに心を配りたいと思っているのです。

安全な安心な場でありすぎると、ある部分が麻痺します。
ワークショップとは、その目的にもよりますが
創造的に想像的に中身が充実するとは、その場が安全安心できる場であることから離れていくのでは?
という側面もあると思うのです。

できれば私のワークショップでは 創造的、想像的になる方向ですすめていきたい。参加者が怖がって、緊張していても、
彼らの中から出てこようとするものがきっとある。
ワークショップはその確認の場であればいいのではないだろうかと思っています。

でもそれはワークショップと本当に言えるのか?
自問自答は続いています。

それから、安全と安心を同義語として使っていますが
厳密に言えば、これらふたつはちがうものですね。
安全じゃないけど安心できる
安心してないけど安全だ
そんな場、あります。

できるなら私は、前者を目指したいです。
いや、特に理由は、ありません

今、このメールも絞り出すように何日もかけて書いていますが
私の意図がどこまで汲み取られるのか、文章に誤解をもたらさないか、すごく怖いです。
怖がりながらも、それでも湧いてくる私の想いを私は自分で汲み取って形にしてやらねばなりません。

私というファシリテーターが持つ場は、どこまでもわたしの一人よがりです。
そのことを十分に意識しながら
私とあなたが接触した時、どんなことが起こるのだろうか。

そんな場にしたいと思っています。

みなさんがどんな場を望まれるのか
場によって
目的によって
対象によって
その時々で変化していくことでしょう。

表現は安全な場なのか?

何一つ言い切ることができずに
それでも何かを言葉にしてやはりお伝えしたいなと思ってこの長いメールを終えてみます。

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ここからは2024年に考えたこと


「安心してワークショップを受けることができた」
という参加者からの感想は、多くの人は褒め言葉に使います。
集団の中で安心して表現できる場を確保することは、その場の責任者として当然のように思われるからです。
もちろん、ある程度のことはそうだと思います。

けれども時々、これをやったから安全だよね、ね、という念押しをされているような気がして、私の場合は、予定調和のファシリテートに物足りなさを感じるときに出る言葉でもあります。

ワークショップという場は、基本的に
ヒエラルキーのない創造の場である
と私は位置付けています。

創造の場なので、ときには何か自分の中でうごめくものを発見したり
参加者同士の意見が対立したりすることはあるだろうと。

身体や感情を動かしていくのだから、多少の何かが起こるかもしれない
起こらなかったから、安全、起こったから、安全安心ではない
という問題ではなくて、

最初に
・できるだけ私自身のコンディションや場所を整えておく、
・不必要な緊張をさせないよう心配りすること
そしてやりながら
・現場をよくみること、感じること

が大切なのかなと思っています。
そうした上で現場で起こったことは、もう引き受けるしかないと。

自分自身が疲れたままでは、やはり受け取る能力が落ちるので、できるだけニュートラルに整えますし、
自分がワークショップを行う場にゴミが落ちているのに、そのままにして始めたりはしないとか
始まる前に、緊張でガチガチの方がおられたり、居心地悪そうな方がいたら
ちょっと声をかけたり、声がかけられない状況ならば、なるべく自分が微笑んでいようとしたりとか。
その結果、参加者のみなさんが安心だった、安全だった、はたまたすごく嫌だったとか色んな感想を持たれるのは、もうそのまま受け入れるしかないと思っています。

2016年のテキストの幸田露伴の「五重塔」。
現代語ではないので、口にして慣れるのには時間がかかりますが
意味などわからずに何度も口に出していると、あるときその文章の中に流れている
ビートを身体で感じる時があります。
すると、波に乗るように、朗読しながらその世界へダイブする気持ちよさがあり
時々朗読で使いたくなるテキストです。
なつかしかった。


ワークショップは安全、安心の場か

それを検討するよりも

ワークショップは、それぞれが、わくわくできる楽しい瞬間があったか

そんな場づくりをしたいなあと今は思っています。

岩橋由梨の8月からのワークショップはこちら!