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アクティブライフ・シティ ~ナッジによるまちづくり~

不健康なモノやコトの誘惑
 人間は、不健康なモノ(あるいはコト)が大好きです。脂が乗ったトンカツや砂糖たっぷりの甘いお菓子など、健康に良くないと認識していても「不健康」の誘惑には勝てません。同様に、喫煙が身体に良くないと理解していても、ニコチンがもたらす刹那的な悦楽に身を委ねる人はたくさんいます。とにかく人間は、不健康なモノやコトの誘惑に弱いのです。
 その一方で、消費者の健康を意識して、良かれと開発したモノがまったく売れないというケースもあります。例えば世界食品最大手のネスレが、2018年にチョコレート菓子の「ミルキーバー」を低糖質にした新商品を開発しましたが、売り上げは低迷し、2年で販売中止に追い込まれました。
 1日1万歩程度のウォーキングや、定期的な運動(エクササイズ)が健康には重要だと認識していても、人間は何かと理由をつけて歩かず、運動を避けようとします。これは楽をしたいという人間の根源的な欲求であり、脳科学的に言えば、快を求める脳の「感情系の欲求」が、健康維持という「思考系の欲求」よりも優位にあることが原因なのです。よって、努力と苦労をともなう健康づくりやエクササイズというハードルの高い「思考系の欲求」を、楽しく苦労の少ない「感情系の欲求」に転化することができれば、人間はよりスムーズに、アクティブな生活に移行することができるでしょう。
  
アクティブライフを誘発する仕掛け
 新型コロナウィルス感染症が蔓延する社会では、健康を維持し、日常生活の中でレジリエンス(回復する力)を高めるには、住民がアクティブに生活できる地域を戦略的にデザインする必要があります。これが「地域デザイン」であり、まちの課題解決に必要な仕組みをつくることが主眼となるのです。
 そこで注目されるのが、人をアクティブライフに誘うための、ちょっとした「仕掛け」です。これは人に何かを命令するのではなく、自主的についやってみたくなるような巧妙な策略であり、「ナッジ」(Nudge)と呼ばれています。
 ナッジとは、ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラ―博士が提唱した、「ちょっとしたきっかけで相手により良い選択を促す」ための行動経済学の理論です。「ひじで軽く突く」や「そっと後押しする」という意味を持つナッジは、経済的な報酬や罰則といった外発的な手段ではなく、人が意思決定する際の環境をデザインすることで、内発的・自発的な行動変容が起きることを期待する理論なのです。
 ナッジ理論は、「EAST」と呼ばれる4つのフレームワークから構成されています(注1)。第一は「Easy」(簡単)である。人は簡単で楽な行動を選びやすいため、一目でわかるような表示やデザインを提示する必要があります。コンビニで、複数のレジに至る道筋を、床に矢印で示すことによって行動の迷いを解消する方法がこれにあたるのです。
 第二は、「Attractive」(魅力的)です。人は自分にとって魅力的なものを選ぶ傾向があるため、相手の注意を引きつけるような仕掛けが必要です。訴求力を高めるデザインや、お得感が増すような表示や仕掛けが重要です。
 第三は「Social」(社会的)です。人は社会規範に影響を受けるため、他の人がどのような行動を取っているかを伝えることで、人を動かすことができます。「たくさんの人が実践しています」といった同調性の刺激が効果的です。
 第四は「Timely」(タイムリー)です。人は、タイムリーなアプローチに反応しやすいので、相手がその情報・サービスを欲しがっているタイミングを逃さずに、必要とされる情報を提供することが重要です。

スポーツ健康まちづくりにおけるナッジの活用
 ナッジ理論は、環境、保健、防災、防犯など、様々な領域で実践されていますが、まちづくりの中で、人々を健康に誘う「仕掛け」についての事例はそれほど多くありません。例えば、駅の階段に貼られた「消費カロリーの目安」(5段上がれば1カロリーの消費)などの表示は、利用者に階段利用の利点をアピールするために一定の効果を上げています。同じ文脈で、ドイツのハンブルグでは、階段を陸上トラックのように装飾することで場所の魅力をアップし、歩行者の遊び心を刺激することによって階段利用を促しています。またシンガポールでは、近隣公園の中に、携帯電話を充電できる発電機能を持った固定型自転車を置いて、運動と充電を同時に行う「ペダルチャージ」の機会を提供しています。

ゲーミフィケーションによるまちのアクティブ化
 ナッジは、人々をより良い行動へ誘導する仕掛けですが、それをより効果的に機能させるには、遊びの要素を取り込むことも重要です。これが、日常生活にゲームの要素を取り入れて、より良い行動に誘導する「ゲーミフィケーション」(ゲーム化)という考え方であり、ゲーム特有の遊び要素を、ゲーム以外の活動に応用することで対象者を熱狂させ、夢中にさせることが可能となります。(注2)先ほど紹介した階段を陸上トラックに模した事例は、遊びの要素がうまく加味されたナッジの事例です。
 アクティブな地域づくりを目指す「スポーツまちづくり」に関しては、全国で「まち歩きイベント」が行われていますが、これまで歩くことに目的と楽しみを付加する「スタンプラリー」や「フォトロゲイニング」(注3)といったアナログ的な手法が用いられてきました。その一方、最近では、既存の携帯アプリを使ったまち歩きイベントが増えています。例えば、身近な場所や観光スポットに設定されたクエスト(謎)を探し、隠された謎を解きながらまち歩きを楽しむウォークラリー型散歩アプリの「まちクエスト」を使った「さっぽろまちクエスト」や、コロナ禍の中、オンラインで金沢の街をめぐる「金沢謎旅オンライン」(金沢文化スポーツコミッション)など、まちをアクティブな場所に転換する試みや、まちのファンづくりが行われています。さらにヨーロッパでは、二酸化炭素の排出量を抑えるために、一歩進んだ脱炭素によるまちづくりを推進するアプリなども開発されています(注4)。


1. David Halpern (2015) “Inside the Nudge Unit” WH Allen.
2. 古屋伸太郎・森本祥一(2012)ゲーミフィケーションが消費者行動に与える影響の事例分析、第11回情報科学技術フォーラム第3分冊:357-358.
3. 地図上にあらかじめ設定されたチェックポイントを制限時間内で多く巡り、獲得した合計得点を競うスポーツで、チェックポイント通過の証明として目印を撮影した写真を用いる。オーストラリア発祥のアウトドアスポーツであるロゲイニングをアレンジしたもので2005年に日本で始まった
4. ヨーロッパの環境先進都市であるフィンランド・ラフティで開発された「CitiCAP」というアプリは、移動手段、距離、所要時間から、利用者が排出したCO2を自動算出し、その後、シェアカーや自転車といった環境に優しい交通手段でCO2排出量を抑えると、バスの割引券や自転車修理の割引クーポンなどといったさまざまな報酬がアプリを通して得ることができる。

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