餃子

おお餃子、あなたはどうして焼き餃子なの?

「コーテー、イーガー!」今日も餃子の王将では厨房で活気ある声が飛び交い、油が跳ね、餃子の列が次々と楕円形の皿の上に滑り込んで、各々のテーブルへと旅立っている。

皆さん餃子大好きですよね。かくいう私も大好きです。

我が家では餃子の皮はモランボンの徳用50枚入り。せっせと包んで、餡を過不足なく包みきれたときの充足感ときたら、言葉にできないものがある。だいたい途中まで、欲張って餡を詰めすぎてメタボ餃子ばかりにし、後半でこれはまずいぞと急にセーブして、変に痩せっぽちの餃子ができてしまう。計画のずさんさ、行き当たりばったりぶりは我が人生の縮図である。

日本に住む我々が大好きな中華料理には、独自の発展を遂げてきた料理が数多くあって、中には本場中国に存在しないメニューも少なくない。そして餃子もまた日本でガラパゴス的な進化をたどった品のひとつだ

まず、本場中国では餃子といえば「水餃(shuijiao)」、いわゆる水餃子であり、焼き餃子は今でこそ広まったものの本来的にはマイナーだった。ラー油をつけて食べることもまずなく、黒酢につけて食べることが多い。

何より最大の違いは、中国ではごはんと一緒に食べない、ということだ。なぜならあのプリプリした皮は小麦粉を練ったものであり、関西風にいえばコナモンである。炭水化物である。大阪ではお好み焼きや焼きそばをおかずに白ごはんを食べる風習が根付いているが、餃子にライスはそれに近い食習慣だと言える。中国では本来餃子自体が主食であるのに対し、日本ではそれがおかずに変わってしまっているのだ。

中国人が最初に日本に来て驚く食文化の違いでも、かなり上位の「あるある」だという。

なんでこんなことになっちゃったのかというと、この経緯に関してはほぼ現在突き止められている。

戦時中、中国東北部には大勢の日本人が居留していた。彼らが現地で餃子に出会い、戦後引き揚げてきて各地で餃子店を開くのである。一説には現在餃子店が隆盛を誇るまちにはかつて引揚者が多かったとも言われている。

中国東北部で日本人が覚えた餃子の作り方は、実は中国人とは似て非なるものだったと、神戸にある老舗餃子店「元祖餃子苑」の頃末灯留氏は述べている。中国では細長く棒状に伸ばした生地を皮一枚分に相当する量ごとに指でちぎって、丸く伸ばして使う(厚みのある皮で、水餃子に適している)。一方日本人は最初に薄く均一に延ばしてしまってから茶筒のふたなどを型にして丸く切り抜いていたという。どうしても日本人の作り方では余分に皮を抜いてしまい、食べきれないほど作ってしまう。その結果翌日に持ち越すことになり、現在のような電子レンジがなかった時代、茹で置きの水餃子をもう一度おいしく温め直す方法として、焼き餃子が好まれたのだという。

で、この焼き餃子を中国語で何と呼ぶかというと、「餃子の王将」で符牒として使われている「コーテー」になるのだ。本来ストレートに訳せば「煎餃(jianjiao)」、カタカナで表せばチェンチァオに近いが、日本人が温め直していた水餃子をして「鍋貼(guotie)」と中国人は呼んでいた。鍋に貼りつくから、鍋貼。カタカナで無理に書くとクォティエ、転じてコーテー。

ちなみに「イーガー」は「一個」の意味。一がイー、個がガー。でもイーガーだと厳密には餃子一個の意味になってしまって、お皿に乗るのは一個だけになっちゃうのだがまあそれは揚げ足取りというものである。

戦後、日本に戻った人々は現地で覚えた餃子を作って売るのだが、あいにく本場に倣った水餃子は評判がよくなかった。焼き餃子ばかりが売れた。その理由は、ひとつには水餃子が戦時中の窮乏食であるスイトンを連想させ辟易されたからだともいうが、それよりも大きな要因は、当時の日本人が等しくお腹を空かせていたということだ。彼らは皆カロリーを欲していたのだ。

戦前活躍した喜劇俳優の古川ロッパは、現在のような焼き餃子(鍋貼餃子、とロッパ自身記している)を出す店で戦後いちばん早かったのは渋谷の有楽という店だと記している。あいにくこの店はもうないが、当時、客も脂っこいものを求めていて「うんとギドギドなのを呉れ」と注文していたそうだ。

日々の食事にも困るほどお腹をすかせていた日本人にとって、おいしく感じるのは素朴な水餃子ではなく、こってりした焼き餃子だったのだ。ギドギドに焼いたうえに、ラー油という追い油。メシの進む濃い味付け。こうして餃子店は雨後の筍のごとく日本中に広まることになる。

そして今も、焼き餃子は老若男女を惹きつけてやまない。


余談だが最近人に習って、焼き餃子を餃子のタレ(醤油+酢+ラー油)ではなく酢ゴショウで食べるのにすっかりハマっている。サッパリしていくらでも食べられるのでオススメです。



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