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オンボロサイクル・ダイアリーズ7

◆これまで
 浪人生の時、勉強に嫌気がさした僕は予備校の悪友、5浪目の岡野と共に夏期講習をサボって自転車で九州一周の旅に出ました。
 しかし、鹿児島で自転車が壊れてしまった僕たちは、鹿児島港から船に乗り込み、一路奄美大島へ。
 シゲ爺という老人のもと、一週間程滞在した僕たちは、島で出会った人達にお別れをして鹿児島へと帰ってきたのでした。

 早朝の鹿児島港へ戻ってきた僕たちでしたが、奄美大島での一週間でもう胸が一杯で、当初の目的だった「自転車で九州一周」というのはすっかり頭の外においやられていて、「家に帰ろう。」という思いが芽生えていました。
 フラフラと歩いて、どこかの広いバイパスでヒッチハイクをしていると1台の大きな長距離トラックが止まってくれました。
 髭もじゃでほりの深い熊みたいな男が窓から顔をのぞかせました。

「どこまで行くと?」

「福岡を目指してます。」僕らが答えると、「博多行きやけん、乗ってき👍」と言って乗せてくれました。
 僕は、長距離トラックというものにはじめて乗ったのですが、運転席は高くて見晴らしが良く、3人が横に並んで座ってもまだまだ余裕があって広々としていました。
 後部座席はフラットでそこで寝ることもできるようです。長距離をずっと運転できるように乗り心地もすごくよくて快適でした。

 僕らは自転車旅をしてきたことや、奄美大島で1週間滞在したこと、シゲ爺のことや服部の兄ちゃんの海鮮居酒屋の改装を手伝ったことを話しました。
 熊ちゃん(長距離ドライバーの仲間うちで本当に熊ちゃんと呼ばれているらしく、僕らにも熊ちゃんでいいよと言っていました。)は僕らの話を聞いて、「おもろい旅しとるのー。」と笑っていました。

 途中、熊本の山の中を走っている時、ふいに

「山の中に秘湯みたいな露天風呂あるんやけど、行ってみるか?」

と熊ちゃんが聞いてきました。
 「山の中の秘湯」というワードに探検心をくすぐられた僕たちは、ぜひ行ってみたいと答えました。
 熊ちゃんは、「よしきた。」と言うと、高速道路を下りて、山の中の狭い一般道をゴトゴト走ること10分くらいで、あちこちから白い湯気のあがる谷の間の温泉地が現れました。
 道路沿いに立つ木の小屋の前に路上駐車すると、

「そこやけん、行っといで。」

と言ってその小屋を指差しました。

「熊ちゃんはいかないんですか?」

と僕らが聞くと、「俺はここで昼寝休憩しとるわ。」と言って足を投げ出して寝る体制にはいっていました。
 僕らは小屋に入ると、そこが脱衣所になっているみたいで、棚と木のかごが並べてありました。入口の横には、入浴料300円と書いていて小銭を入れられるように穴が空いていました。
 無人の温泉というのは初めて見ましたが、これだと無賃乗車ならぬ無賃入浴していく人もいるんじゃないかと不思議でした。まあ、無賃入浴では心身ともにサッパリすることはできなさそうだから、だいたい皆払っているのかもしれません。
 僕らはお金を入れて、服を脱ぐと小屋の奥の扉を開けました。扉の向こうは外階段で、コンクリートの階段をしばらく下っていくと、谷底を川が流れていて、そのちょっと高い所に岩で囲まれた露天風呂が湯気をあげていました。

「ふう〜極楽極楽。」

温泉につかって声をあげる岡野に爺さんかよと笑いました。
 その温泉はまさに秘湯といった感じで、急な谷の斜面と川に囲まれていて、人間がいない時にはお猿なんかもつかりにきているかもしれません。
 男湯とか女湯とかなにも書いてなかったので混浴なのでしょうが、僕ら以外に人がやって来る気配もなく、僕らは山の中の秘湯を貸し切りで楽しむことができたのでした。

「朝湯、朝酒、朝寝が好きで〜🎵」

と岡野もご機嫌で歌っています。
何だよそのヘンテコな歌はと僕が笑うと、「知らねっ。」と岡野も笑っていました。

 ゆっくりとお風呂を堪能した僕らはトラックに戻って、熊ちゃんに「温泉すごく良かったです。」とお礼を言いました。
 温泉を出たトラックは、再び高速道路に乗り直して北上し福岡を目指します。
 それまで自転車でノロノロと旅をしていた僕たちにとっては、トラックというのは驚異的な速さで、昼過ぎには福岡に到着してしまったのでした。

「腹減ったけん、なんか食おうや。」

と言って熊ちゃんはしゃぶしゃぶ食べ放題をご馳走してくれ、帰ったらお礼の手紙を書きたいからと言っても、住所も名前も教えてくれず、博多駅前で僕たちを下ろすと、「気をつけて行けよ〜。」とガッハッハと笑って行ってしまいました。

「熊ちゃん、行っちゃったよ…。いい人過ぎないか。」

 博多駅でポツンと佇む僕たちは呆然としてしまいました。また会えたら、なんとお礼をしていいかと思いましたが、なんとなくもう会えないのだろうなというふんわりした事実めいたものも感じてしまっていたのでした。

 駅前で博多ラーメンを食べた僕たちは、なんとなく「もう帰ろっか。」と無言の同意ができていて、博多駅から電車に乗って小倉〜門司〜下関と僕らが自転車で走って来た道を車窓の外に眺めながら帰路に着きました。

 そして、その日は山口県の防府で一泊することにして、行きに出会った姉妹の真夏ちゃんと佳奈ちゃんに電話してみると、2人とも家にいたので、二人を誘って焼き肉を食べに行きました。
 僕らは鹿児島で自転車が壊れたことや奄美大島まで行ってきた話をして過ごしました。
 そして、岡野は真夏ちゃんにプレゼントだといって珊瑚の欠片を手渡していました。

「あっ、お前それ浜辺のやつ!取ってきちゃダメだろ!」

手癖の悪い岡野は、シゲ爺にダメだと言われたのに珊瑚の欠片をくすねてきたのでしょう。

「バカ、これはちげーよ。港の近くのお土産屋で買ったやつだよ!」

岡野はそう言っていましたが、イマイチ信用できません。

「港の近くにお土産屋なんかあったか?」

僕が疑り深く見ると、目を逸らして「小さくて地味な土産物屋があったんだよ。」と言っていました。
 まあ、深く詮索してもしようがありません。僕は僕で秘密のお土産屋で珊瑚の欠片を買っていたので、それを佳奈ちゃんにプレゼントしました。

「いいな〜奄美大島。私達も行きたかったなー。」

と2人が羨ましがっていたので、岡野は抜け目なく「次は一緒に行こうね。」と約束を取り付けていました。
 そうして防府の夜は更け、次の日また2人と海で遊んだ後、僕らは電車に乗ってわが家へと帰り、僕らの長かった旅は終わりを告げたのでした。


 この後、真夏ちゃんと佳奈ちゃんは僕らの地元に2回、進学した先の東京に2回程遊びに来てくれたので、僕らが案内して一緒に遊んでいましたが、最後に東京で会った時、佳奈ちゃんに「同級生に告白されて付き合うことになったからもう会えないね。」とフラれてしまったので、それ以来会っていません。



 久しぶりの家に帰ると母親にはなんやかやと小言を言われ、父親は「どうだった?」と聞いてきながらも明らかにテレビの野球中継の方に感心があるのが丸わかりでしたが、それでもあー家に帰ったんだなという安堵感と、それまでの旅がまるで夢だったんじゃないかというようなふわふわした足元がおぼつかないような感覚に包まれていたのでした。


 地元に戻り、いつもの生活、退屈な浪人生活と受験勉強に戻った僕たちでしたが、それでもちょっとは勉強するか、と前向きな気持ちにはなれたので、夏期講習をサボって自転車旅にでかけたこともちょっとは意味があったのかな、と思います。
 それからの僕は、「心を入れ替えて」とまではいかず、「人並みに」とも言えずとも、僕の中ではそこそこ勉強を頑張っていたのではないかと思います。遅きに失した感は否めませんでしたが。
 10月の終わりに担任の先生と、志望校の確認やどの私立大学を受験するかなど面談するのですが、「君は勉強もあまりしないし、模試はずっとE判定だしどうするの?」と聞かれたので、きっぱりと

「東大は諦めます。」

と宣言しましたが、

「でしょうね。」

と先生は呆れ顔でした。

「あなたは、私立大の勉強も全然してないし、どうするの?」

と言われ、そこで初めて私立大学向けの受験対策というものをしなければいけないことを僕は知ったのでした。
 過去の試験内容が載っている赤本という問題集も、皆ぶ厚い本を持ってるなとは思いましたが、感心がなかったので手に取ったことがありませんでした。感心がないといえば、勉強自体に感心を失っていたのですから当然です。
 この後試しに私立大の過去問に挑戦してみましたが、全く歯がたちませんでした。

 多くの時間を無為に過ごしてきたことを今更後悔してももう遅く、溜め息なんかついていると、先生に一つ提案されました。

「君はセンター試験だけはなぜか点数がいいから、それで私立大を受験してみたら引っかかるかもしれないよ。」

 あまり勉強していない僕でしたが、昔から運だけは良くて、マーク式の模試や、昨年のセンター試験などはラッキーパンチで高得点をとっていて、どうやらそれを私立大学の入試のかわりに使えるという制度があるそうなのです。
 この頃はAO入試とか、一般入試と違う形の入試が広まっていた頃で、そういう形でなら僕でも合格できるかも、ということでした。

 転んだ先の杖をまさに拾った気分で「先生、それにします。」と僕は即決しました。

 かくして、センター試験を迎えた僕は、初詣に神社を10箇所くらい梯子し集めたお守りと、最大限に高めた運とで試験に挑み、それまでにないくらいの幸運を発揮して、過去最高の点数をゲットしたのでした。
 東大はセンター試験の点数次第で、二次試験を受験できない足切りのラインがあるのですが、それも楽々突破して余裕があるくらいでした。

「ダメだと思うけど、東大、一応思い出受験してみる?」

と予備校の担任とは思えないセリフで思い出受験を勧められましたが、先生同様、僕も万にひとつも受かるとは思っていなかったので、わざわざ不合格を受けとるのも癪だからと断りました。

 そうして、東京の私立大学のいくつかにセンター試験利用での入試の願書を送り、枕を高くして眠っていた僕のもとに、やがて大学の「合格通知」というものが送られてきたのでした。
 昨年の受験では全落ちしていた僕にとっては初めての合格通知で、家族みんなでバンザイしてお祝いしてくれました。
 結局、センター試験以外は受けることなく、家にいながら合格を貰った僕は、なんだか裏口入学とまではいかないまでも少しズルをしたような後ろめたさがありましたが、それでも合格は合格。もう来年は浪人生活しなくていいんだという喜びに涙しそうなくらい嬉しかったです。

 予備校の担任の先生も合格を報告するととても喜んでくれて、僕はてっきり東大クラスにいながら私立大学に行ってしまったのだから、失敗のくくりだろうと思ったのですが、意外にも他の東大に合格した予備校生と同じか、もしかしたらそれ以上に喜んでくれている感じがしました。
 できの悪い子ほど可愛いというか、岡野みたいに何浪も居座られたらたまらない、と思ってほっとしていたのかもしれません。


 岡野といえば、この5浪目の男は旅から帰ってくると謎のやる気スイッチが入ったのか、急に真面目に勉強するようになって、相変わらず昼からビールなんかを飲んだりはしていましたが、真剣に勉強に取り組み始めたのでした。
 あの旅のどこに、そんなやる気スイッチが入るポイントがあったのか不思議でしたが、それでも近くにいる人間がこうも真面目に勉強していると、周りにも良い影響をするもので、僕も少しは勉強しようという気になれたのでした。
 
 そうして、岡野は最後の半年の間にみるみると成績を上げていき、年末の最後の模試ではついにA判定(ほぼほぼ合格できる)をとるまでになり、なんと東大に合格してしまったのです。
 合格通知を見せてVサインする岡野に僕は驚くばかりでした。
 それまでは、「無限モラトリアムの親の脛かじり虫」だった僕の中の岡野の評価は「有言実行の男」に変わったのでした。
 担任の先生も、「信じられない。」と言って泣いて喜んでいました。他の生徒と違って3年もいるのですから、そうでしょう。


 こうして、僕たちの浪人生活は終わり、僕らは2人揃って東京に進学することになりました。
 違う大学でしたが、東京に行ってからも僕たちはしばしば会って、どっちかの家で飲んだり旅行に行ったりもしました。
 二人してビールを飲みながら話していると、必ずこの時の自転車旅の話になり、ギャハハと笑いあって思い出話に花を咲かせるのでした。

 岡野は、この時の自転車旅の話をいつかまとめて本にするんだと言っていて、そのタイトルは、僕らが旅に出るきっかけとなった本「モーターズサイクル・ダイアリーズ」からもじって「オンボロサイクル・ダイアリーズ」と決めているということでした。

 この話の主人公はまちがいなく、旅に出て人生を変えた男、岡野です。
 彼は東大を卒業した後は、日本のためになる仕事をしたいと言って、国家公務員になり経産省で働いていました。

 そんな話をなぜ僕が書いているかというと、岡野は去年の夏に交通事故にあって、これを書けなくなってしまったからです。
 この旅の話は僕と岡野しか知らない物語なので、変わりに僕が文章にしてみました。思い違いや記憶違いがあったら、岡野になおしてもらいたかったところですが、

「駄文だけど、まあまあだな。」

と言って笑ってくれることでしょう。


 そんなわけで、この「オンボロサイクル・ダイアリーズ」は僕の心の友、岡野に贈ります。


おしまい

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