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小学校の先生を辞めた話

小学校教諭を辞め、フリーランスのライターになりました。


コーヒーって飲みますか?

僕は、朝起きたら、布団から出て、顔を洗って、着替えて、朝ごはんを食べます。

ちょっと早起きすると、コーヒーをいれたりもします。
便利な機械はないので、ペーパーをセットして、自分でドリップして。

割と優雅な朝を過ごしてるなと、自分でも思います。
なかなか朝からゆっくりコーヒーいれる時間ってないですよね。


僕も実はそうでした。
コーヒーをいれること、朝ごはんを食べること、布団から出ること。
どれもできない時がありました。

今回は、小学校教諭だった僕が適応障害になり、休職し、そして退職した話をします。

この記事を通して僕が伝えたいことは、「自分が幸せでなければ、誰も幸せにはできない」ということです。


小学校の先生をしていた話

僕は小学校教諭として働いていました。

学級担任として大好きな子どもたちと毎日を過ごし、とてもやりがいのある日々を送っていました。

日々成長していく子どもたちが少しでもたくさんのことを学べるよう、若僧なりにあれこれと考える毎日でした。
うまくいかないこともたくさんあり、その度悩んだり試行錯誤したりして向き合っていました。

僕自身も子どもたちからたくさんのことを学んだし、一緒に成長していけたと思っています。

何より、子どもたちが大好きでした。


でも、やがて仕事がしんどくなりました。
子どもではなく、仕事がです。

子どもたちの前では、学校では元気な姿を見せつつも、心が弱ってしまっていたようです。


適応障害の診断を受ける

子どもの前では笑顔で過ごし、元気なことを装っていました。

でも、家ではそうではありませんでした。

夜、眠れなくなりました。
朝、起きられなくなりました。
ご飯が、食べられなくなりました。
妻との会話が、できなくなりました。


妻に受診を勧められ、時休をとって病院へ。
診断は、適応障害でした。
適応障害とは、原因のあるうつのようなものです。

やがて、休職することが決まりました。


仕事を休職

突然の休職に、子どもたちは驚いたことと思います。

いろんな行事や活動を、クラスのみんなで一緒になって頑張ってきました。
これから子どもたちも、ますます頑張っていこうと思っていたことでしょう。
それすらも確かめる術はありませんでした。

休職中にこどもたちから手紙が届きました。
開くのに、1ヶ月かかりました。
そこには、心配してくれる子どもたちの声がたくさん書かれていました。

でも、返事が書けませんでした。
何を書いていいのかわからない。何を書いても言い訳にしかならない。
そう思うと言葉が出てきませんでした。
結局退職した今、もう返事を書くことはできません。
この子どもたちへの罪悪感は、一生消えることはないでしょう。

何度も復帰しようと、子どもたちに会いたいと、思いました。
でも、身体が動きませんでした。
何もできませんでした。

眠ることも。
食べることも。
着替えることも。
起き上がることも。
布団から出ることも。

病院の先生からは、「できるだけ仕事のことを考えないようにしましょう」と言われました。
でも、学校のことは頭から離れません。
というより、離せませんでした。

早く戻らなければ。
あれはどうしよう。
これはどうしよう。

それでも不思議なことに、時間が経つと少しずつ体調が回復しました。

布団からだんだん早く出られるようになり、ご飯も食べられるようになりました。
でも、それ以外の時間は寝転んで過ごす日々。

やがて休職期間が終わり、仕事に復帰する日が近づいてきました。
みるみる体調が悪くなりました。
わけもわからず涙が出ました。
結局復帰はできず、休職期間を延長することに。


退職を決意

休みの日に学校に出ることもありましたが、やはり無理でした。
やがて、退職することを決めました。

正直な話、退職を決めて学校に行かなくてよくなって気持ちが楽になりました。
そこから体調もみるみるよくなっていきました。
適応障害はそういうものだと言われていましたが、不思議なものでした。


でも実のところ、適応障害は退職に踏み切ったきっかけにはなりましたがもともと教師の仕事には、疑問を感じていた部分がありました。

僕は教師をしていて、どこかモヤモヤとした想いがずっと拭えませんでした。
学校で教えなければならないことと自分の思いとの差に、違和感を感じていたからです。

ここに、こんなルールは必要なのだろうか?
これをみんなで揃える必要はあるのだろうか?
一人ひとりの個性が大事なんじゃなかったのか?
自分の指導は、子どもたちを苦しめているんじゃないか?

年々、教師としての活動を続けていくほど、その思いは大きくなっていきました。
自分が子どもにしている指導に疑問を感じてしまった以上、僕はもうこの仕事は続けられないと悟りました。

今回のことは、僕にとって大きな転機だったのかもしれません。


仕事のことを忘れさせてくれたブログ

休職してから没頭したのは、「ONE PIECE」とブログでした。
僕にとっては、何かに没頭することが必要でした。
仕事のことを忘れられるほど、夢中になれるものが。

「ONE PIECE」はもともと大好きな漫画だったのですが、家から94巻全てを持ってきて、ひたすら読み続けました。
「ONE PIECE」の世界に入り込んでいる間は、仕事のことが頭から離れました。

ブログは、もともと旅に出る前に始めたのですが、数記事しか書かず2年以上放置していました。
せっかく時間があるから書いてみようと再開しました。
結局ブログを書くことにどハマりし、5ヶ月間で118記事を書きあげました。

本当に「24時間ブログのことを考えていたい」というくらいでした。

前にリゾバで出会った友人が言っていたことを思い出します。
彼はプロだったボクサーをやめて、トレイルランをしています。
同じくプロだった友人に「俺は24時間ボクシングのことを考えている」と言われ、自分はそこまでの情熱はないと思ったからだそうです。
「僕も24時間考えていられることに出会った」と、彼は言っていました。

僕にとっては、それがブログなのかもしれないなと思いました。

そこから、ブログやSNSで文章を書く経験を積んだ僕は、フリーランスライターを目指すようになりました。


正式に退職し、フリーランスに

2020年3月31日を持って、正式に小学校教諭を退職しました。

今はフリーランスのライターとして活動をしているのと、不登校の子どもの居場所づくりに携わっています。

休職中に僕は、ボランティアで不登校の子どもたちと関わってきました。
(不登校という言葉はあまり好きではないのですが)

そこでの子どもたちとの関わりは、「教師」として子どもと接するのとは全く違うものでした。
子どもを指導・教育する立場ではなく、その子がやりたいことに一緒に寄り添う。そんな関係。
寄り添うというより、自分も夢中になって楽しみました。
「教師と子ども」・「大人と子ども」ではなく、「人と人」としての関係性を大事にした関わり方なのかな、と思っています。

どちらが良い悪いではなくて、単純にこちらの関わり方の方が僕には合っているなと感じました。
今では、子どもたちとの関わりる居場所が、自分にとっても大事な居場所となりました。


自分が幸せでなければ、誰も幸せにはできない

僕は小学校の教師を退職しましたが、もし続けていたとしても子どもたちを幸せにすることはできなかったのではないかと思います。

寝不足でご飯も食べていなかった僕は、自分に余裕がなく、小さなことでもピリピリしていました。
そんな状態で、子どものためにまともな教え方や関わり方ができていたとはとても思えません。

そして、結婚したての新婚生活なのに会話も家事もできない僕は、毎日働きに出る妻にも負担をかけていました。

結局、適応障害になった僕は、関わった子どもも、家族も、自分も幸せにできていませんでした。


自分が幸せでなければ、誰も幸せにはできないんだと、今は思います。

だから、精一杯自分が納得できるやり方で、自分も楽しみながらこれからの人生を作っていきたいなと思っています。


つまらない僕の個人的な話に、長々とお付き合いいただきありがとうございました。

あなたも、自分が幸せになる人生を歩んでくださいね。


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