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満州開拓民

私の曾祖母は、つい近所の

藍染業をいとなむ家からヨメにきた。

実家は「紺屋(こんにゃ)どん」とよばれ、

「どん」と敬語が付くのは

金回りが良く

村内のヒエラルキーの上位にある家を指したから

曾祖母が嫁入り道具として持参したタンスは

桐材を使い立派なものだったという。

しかしその桐タンスは

敗戦後、満州から

命からがら逃げ帰った末娘をあわれがり

曽祖父がくれてやったため、

いまは家に残っていない。


なぜ開拓民となったのか

その末娘、私の大叔母は

同じ村出身のN氏と結婚し、

11人兄弟だったN氏は

満州開拓民として自活する道を選ぶ。

地元の資料によれば(※1)

昭和12年ころから

さかんに移民が募集されており

昭和14年度、満蒙開拓青少年義勇軍は

新潟県全体で1000名が割りあてられ

村では5名の青少年が募集されたが

応募はわずか1名であった。

若い夫婦が移民に加わったのは

記録では昭和14年、

「満州国龍江省甘南県第八次朝陽山移民団員」で

この村から1組だけであるから

この地域一帯で応募した

唯一の夫婦だったようだ。

大叔母夫婦は

渡航費用として県より「金八十円也」を受け取って

新潟港を出港し

朝鮮半島東北部の港、清津(チョンジン)を経て

鉄道を乗り継ぎ、満州国へ入った。

国策にしたがったとはいえ、

このあと

悲惨な運命をたどることを、

二人は予想できなかったのだろうか。

※1 豊栄市史 通史編 平成10年発行

支配と被支配

N氏は満州で役人の職を得

夫婦は当初、ずいぶん羽振りのいい暮らしをしたらしい。

開拓民としてわたった日本人は

横暴を極め

自分の畑でスイカが生っても

中国人の畑から

当然のように盗んでくるなど

中国人の怒りをかっていたから

ソ連が参戦し

日本が負け戦になったとたん、

とうぜん報復がおこなわれた。

N氏は

匪賊(※2)を拷問にかけた罪でとらわれ

2頭の馬にそれぞれ足をくくられ

衆人に晒されながら

股裂きの刑にあって命を落とす。

大叔母は

子供2人のうち

下の男の子はまだ小さく、

足手まといになるからと

中国残留孤児にして

娘ひとりを連れて、逃げ延びて帰った。

※2 反日ゲリラ

戦争未亡人

戦後、大叔母は夫の弟と「居直る」。

「居直る」とは戦争未亡人が

夫の弟などと再婚することをいい、

新潟県特有の言い回しなのかどうか

私は知らない。

ただ全国的にも

夫が戦死し、未亡人となった女性が

夫の親族と再婚することで

その後の身のふり先を決められることは

当時は多くあったのである。

嗜好と過去世

大叔母は再婚後

建設業を営む夫と

戦後の建設ラッシュに乗り

順調に経営をのばす。

しかし

私は子供心にも

大叔母の高圧的な物言いや

周りをアゴでこき使うキャラクターを

好きになれなかった。

話は飛ぶが、

スピチュアルの世界では

人が、訳もなく惹かれる

なぜかどうしても好きな人、場所、

国、ジャンルは

その過去世(前世)において

そこで暮らし、生きていた

名残であるという。

私はなぜか子供の頃から

中国の人と仲良くなることが多く

大阪で会社員をしていた時も

日本人よりも

中国人留学生のアルバイトさんと

ランチするほうが、ホッとできた。

統計はとっていないが

陰キャ男子で(当時はオタクと呼ばれた)

三国志に夢中にならなかった人は

少ないのではないか。

木造校舎だった頃の中学校の図書室で

横山光輝のマンガ「三国志」を

争うように、男子と取り合いながら

ストーブを囲んだのは

他でもないこの私である。

これら三国志ファンの全員が

英雄たちの乱世に生きた、

とまでは言えないかもしれないが

そんな子供時代から

私の中国愛は止まない。

処女と成熟

悲しいことに

いま中国と日本の外交は冷え込み

ネットを見れば

作為的なディスレスペクトで溢れている。

あの少年の頃の三国志ファンは

いまどこへ行ったのであろうか。

不思議なことに、

人の魂に宿るワクワクやドキドキ、

なにより親愛の情は

大きな波動となって国境を超え

人の心を溶かす。

実体験から得た真実である。

私は外交の門外漢ではあるが

日本人の、中国への嫌悪感は

メジャーパワーズ中国の

圧倒的な優位性にあるだろう。

民族が複雑に交差する大陸にあって

幾多の戦乱、侵略をへてきた経験値は

われわれ島国との差が歴然である。

作家・武田泰淳は

「滅亡について」で、次のように述べている。

…それ(第二次大戦の敗戦、脚注原)は日本の文化人にとって、滅亡がまだまだ部分的なものであったからにすぎない。彼らは滅亡に対してはいまだ処女であった。処女でないにしても、家庭内に於いての性交だけの経験に守られていたのである。
 これにひきくらべ中国は、滅亡に対して、はるかに全的体験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の奸淫によって、複雑な成熟した情欲を育まれた女体のように見える。中華民族の無抵抗の抵抗の根源は、この成熟した女体の、男ずれした自信ともいえるのである。(「昭和文学全集第15巻」昭和62年 小学館)

浄土宗の寺に生まれ

比較的裕福な家庭に育った武田は

幼少より中国文学を学び

その風土を愛した。

戦中、その愛する中国の地に従軍した

自分を恥じ、自らを

「生き恥さらして(※3)」、

去勢の憂き目に会いながら

史記を完成させた司馬遷の姿に

重ね合わせた。

しかし

「性交」経験が少ないことは

むしろこの島国の愛すべき特長だと

私は感じる。

おおむね、

夫は、妻の男性経験が多いより

むしろ少ないことを喜び

いっそう妻に愛を注ぐ。

本来、この島と大陸は

愛し合う夫婦のように

互いをいたわり、むつみあってきた。

地球を宇宙(そら)から俯瞰して、観るといい。

この島と大陸は

まるで皇帝と

その愛を享受する妃のように

一つの文化圏に位置している。

歴史的にも、

私たちが大陸との交易を離れて

国を維持した時期のほうが

むしろ稀であった。

いま

私たちも、大陸の愛を受け取って

全面的に彼を

信頼することはできないだろうか。

夫という者は、妻を悲しませることを

もっとも忌み嫌う。

隣国とて、美しい妻を

愛さない理由などあろうはずが無いのである。

この島と大陸の関係が

永らく、愛し合う皇帝と

その寵妃であったように

これからも二国の関係が

慈しみあう夫婦のように

平和であることを願ってやまない。

※3「司馬遷~史記の世界」武田泰淳 昭和47年 講談社


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