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Happy Women's Map 福島県南会津郡南会津町 薬害スモン闘病記の著者 星 三枝子 女史 / Author of SUMON Journey, Ms. Mieko Hoshi

-『春は残酷である スモン患者の点字手記』(星 三枝子 著 / 毎日新聞社1977年)

「中身を守るために、捨てられてしまう卵の殻になってなってもいい。」
"I'm okay to become the egg shell thrown away to protect the contents."

星 三枝子 女史
Ms. Mieko Hoshi
1949 - 1992
福島県南会津郡田島町(現在の南会津町) 出身
Born in Tajima-machi (Now MinamiAizu-machi), Fukushima-ken

星 三枝子 女史は薬害スモン闘病記の著者で薬害スモン福島の会発起人。薬害スモン闘病記録を点字で機関紙はじめメディアに寄稿して薬害スモン訴訟を牽引します。
Ms. Mieko Hoshi is the founder of the Sumon Fukushima Society for Drug Harm. She led the Sumon litigation, contributing her SUMON journey article to media.

「青春」
 三枝子は、空気は新鮮で山の緑が美しい国鉄会津滝原線終着駅の会津滝原に生まれます。中学校を卒業すると地元の南会高等洋裁学院に入学、会津若松市の呉服屋「上野屋」に就職します。20歳の三枝子は生まれて初めて親元を離れアパートで自炊しながら、客の注文服の仕立てを担当して寸法を取り裁断を仕上げます。毎日がとても充実して働くことの喜びを満喫します。従業員一同で大騒ぎして楽しんだ社員旅行から戻ると、とても暑い日が続いてアパートは蒸し風呂のようになり、水を多く飲むうちに水あたりで下痢が続いて食欲も体力も減退、仕事も休みがちになります。三枝子は近所の竹田総合病院に勤める看護婦の叔母に予約を頼んで消化器科で受診します。赤痢の検査を受けて筋肉注射と2・3日分の薬を処方されて帰宅します。薬をきっちり飲んでも下痢が続くので何回か外来に通います。赤痢ではないことが分かってほっとしますが、同じ様に筋肉注射と2・3日分の薬を処方され、同じ様に薬を欠かさず飲んでも吐き気また下痢が止まらず体は衰弱する一方。実家に戻って療養しても良くならず、入院することになります。

「しびれ」
 三枝子は病院でも点滴と同じ薬を引き続き処方されます。その夜中に歯が食いしばっているような感じがして目が覚めるも気にしないで寝入ると、翌朝口が開かない話すことができない唸り声しか出ないことにびっくり仰天します。駆け付けた医師たちはヒステリー症と診断。お昼に心配する家族に介抱されて牛乳を飲ませてもらっても唇からよだれのように流れます。吐き気をもよおして背中を叩いてもらって薬のようなものを吐き出すと歯の食いしばりが治って話ができるようになります。夕方には足のしびれを感じます。日に日に足のしびれが重くなって白く変色していきます。三枝子は回診のたびに看護婦また医師に訴えますが「気のせいだから」と言われます。歩くのが苦痛な三枝子はベッドの上で本を読んだり外を眺めて過ごします。入院して3日後、しびれは膝まで広がり足は鉄の靴でも履いているように重くなります。4・5日目にはつかまってもくにゃくにゃ座り込んでしまい歩けなくなります。排泄機能もしびれてお腹が張って苦しいのに自力排泄ができなくなり導尿を通されます。しびれや痛みは容赦なく上へ上へと広がり首に到達。全身の激痛と耳鳴りに苦しみます。

「スモン」
 入院から2・3週間目に新潟大学から医師が来て診察を受けるころには手の指を曲げて胸にあてたまま動かなくなっていました。ATP点滴をはじめると視界がぼやけ始めます。三枝子はすぐに医師に訴えますが「気のせいですよ」と言われます。三枝子は歯を食いしばって痛みに耐えながらリハビリに励みます。そんなある日、仙台市の患者から一通の手紙を受け取ります。「スモンで8年寝たきりです。あなたもスモンらしいですね。」三枝子はハンガーストライキをして医師から病名を聞き出します。「スモン(SMON)Subacute Myelo-Optico-Neuropathy:亜急性脊髄・視神経・神経症」三枝子は聞いたこともない治るのか治らないのかも分からない病名に愕然とします。「来春あたりまでには見えるようになる」祈るような気持ちで来春が来るのを待つ三枝子は、入院して3か月後の秋に完全に失明して21歳を迎えます。父親の急逝と自殺未遂を経て、母親と妹に連れられてリハビリに通う三枝子は「スモンはキノホルムが原因らしい」という報道を耳にします。通院中に1日4錠、入院してから1日6錠のキノホルム含有メキサホルムを連続投与されていたことを医師から聞き出した三枝子は愕然とします。

「卵の殻」
 全国スモンの会から手紙を受け取った三枝子は母・兄・叔父と一緒に訴訟説明会に出かけます。三枝子は同じ苦しみを乗り越えた様々な人達の話を聞いて力強く感じます。三枝子は福島県のスモンの会の発起人となって名簿を頼りに母親と一緒に手紙を送り、福島民報新聞の取材を受けます。機関紙「スモン」に闘病記録を寄稿したり、署名運動をしたり、カンパを募ったりしながら、リハビリに行ったり、点字の本を読んだり、点字を打って手紙を書いたり、編み物をしたり、長い入院生活の中で楽しみを見つけます。発症から2年後ようやくスモン訴訟第1回目の公判が始まると、三枝子は法廷での証言を務めます。「闘いはこれからだ。スモン訴訟。病気との闘い。自分自身との闘い。孤独との闘い。」病室で裁判官による臨床尋問を受けた後に、三枝子はラジオ福島のインタビューの中で「夢は何ですか」と聞かれて働いていたころに持っていた明るい楽しい夢を思い出します。「残された機能を活かして少しでも私なりの幸せをつかめるように努力したい。」母親のつきっきりの看病に支えられながらも、やがて三枝子は少し体を動かすだけでも顔をゆがめるほどの激痛に全身をさいなまれ始め、体はますますやせ細っていき、食事もほとんど咽喉を通らず、下痢や嘔吐発熱に苦しめられ、栄養注射また輸血に頼るようになります。「残る短い人生を、子供たちの為に、薬害の生き証人として、卵の殻になってもいい」。発症から10年後、東京地裁は国と田辺製薬・武田薬品工業・日本チバガイギーの責任を認定、和解が成立します。その後も三枝子はキリスト教の信仰に生き、俳句に生き、愛に生き、23年に渡る長い闘病生活の末に43歳の生涯を閉じます。「限りある命 誰がために恋しけり 愛あればこそ 我の道しるべ」

-『春は残酷である スモン患者の点字手記』(星 三枝子 著 / 毎日新聞社1977年)
-社会福祉法人 全国スモンの会 | - 小平市

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