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Happy Women's Map 和歌山県田辺市本宮町 日本の栄養学の母 香川 綾 女史 / Mother of Japanese Nutrition Science, Ms. Aya Kagawa

-『一皿に生命こめて』香川綾、講談社1977年

「食事は栄養を満たすだけでなく、喜びであり、愉しみであり、人の心と心をむすぶものである」
"Dining is not just about satisfying nutritional needs; it is also about joy, pleasure, and connecting human hearts."

香川 綾 (旧姓 横巻 綾)女史
Ms. Aya Kagawa
1899 - 1997
和歌山県田辺市本宮町
Born in Tanabe-city, Wakayama-ken

香川 綾女史は日本の栄養学の先駆者です。香川栄養学園ならびに女子栄養短期大学・大学を創設。雑誌『栄養と料理』を創刊。計量カップ・計量スプーンを作製。香川式栄養法を考案。栄養学・管理栄養士の創設の立役者。
Ms. Aya Kagawa is a pioneer in Japanese nutrition science. She founded the Kagawa Nutrition Academy, as well as the Kagawa Women's Nutrition Junior College and University. She launched the magazine "Nutrition and Cooking," created measuring cups and spoons, and devised the Kagawa Nutritional Method. She played a leading role in establishing the fields of nutrition science and registered dietitians in Japan.

「紀州藩食膳係直伝」
 綾は警察官の父・横巻一茂と料理上手な母・のぶえの娘として生まれます。母・のぶえのレシピは紀州藩の食膳係を務めていた祖父直伝で、畑や海でとれるものを手間暇かけて工夫を凝らし心尽くしで美しく風情豊かに仕上げます。キリスト教を信仰する母・のぶえは近所で困っている人があれば食べ物と着物を届けて周るので、玄関先にはしょっちゅう新鮮な野菜・魚が投げ込まれ、それをまた漬物・干物にして配ってまわると、綾はじめ家族そろって食事します。跳ねるように新しい魚は、イワシのゴボウ漬け・小鯛の酢漬け・ぶりの煮凍りに。小鯵の丸干しは1年中の出汁に。旬の野菜また山菜はたけのこ寿司・こけら寿司(押し重ねた散らし寿司)・炊き込みご飯に。大根の三ツ輪漬け・丸干し大根のはりはり漬けは常備。おやつは蒸芋と、畑仕事の無い雨の日に、近所の鋳物屋に特注した石油オーブンで焼くクッキー。年始年末には、草餅・ゴマ餅・かき餅・あられ餅・お汁粉。ところが、綾が14歳の時に母・のぶえは肺炎で急逝します。

「東京女子医学専門学校」
 綾は医者を志すようになります。県庁で見かけた「東京大学看護婦集」のチラシに応募すると父に大反対され、和歌山県師範学校女子部(現:和歌山大学)に入学させられます。成績優秀で卒業、小学校教師を務めるも、男性よりも2円低い給与と模範とされる女性教師像に耐えられなくなり退職。父を説得して上京。東京女子医学専門学校(現:東京女子医科大学)へ1番の成績で入学を果たし、郷里の殿様はじめ篤志家から奨学金を得ます。角帽にスーツの制服で、新大久保の叔母の家から新宿区の学校まで歩いて通います。綾は生化学に熱中します。毎日毎日、精神病患者の脳組織から切片をつくって染色しては顕微鏡をのぞきこみ、ついに梅毒の病原菌が群生して光ってるのを見て飛び上がる様に喜びます。

「東京帝国大学医学部」
 卒業間近で医師になることを躊躇する綾は、同郷の先輩である東京帝国大学医学部の島薗順次郎の元に勤務します。「病気にならないようにするのが医者の使命だ」。綾は女子トイレの無い東大で、男子学生から毎日「早くやめろ」「出ていけ」と罵倒されながらも、脚気を防ぐビタミンB1が多く含まれる米胚芽の精米法ならびに調理法の研究を手伝います。先生の口述筆記ならびに動物実験の鳩・兎・ねずみの世話を率先して、白米と比べて胚芽米で、さらに栄養全体のバランスのよい食事で長生きすることを動物実験で確認します。病院給食に取り入れるにあたって、綾は料理学校に通い始めます。次に研究室で鍋・窯・時計・温度計・秤・メスシリンダーを揃えて、化学実験と同じ要領で材料・調味料の分量、加熱の温度・時間を一つ一つ記録します。

「家庭食養研究会」
 綾はビタミンに恋する指導医・香川昇三と結婚。2人で近所の精米所に胚芽米に切り替えるように説得して歩いたり、白米と野菜を与えた鳩の脚気症状を観察してビタミン含有量を調べ「食品分析表」を完成させます。そして「家庭食養研究会」を設立します。自宅を改造して床の間を教壇に、縁側に流しを整備します。東大医局部の夫人・娘ならびに近所に呼び掛け20名を集めると、週に2・3回のペースで、午前中は栄養学の講義、午後は調理実習を開始。「調味%」「主食は発芽米、魚1、豆1、野菜4」を基に食生活を指導します。2年目には講習会内容を雑誌「栄養と料理」にまとめ創刊。4年目には「女子栄養学園」と改称、近くの洋館を買い取って改造、雑誌で全国から生徒を公募します。6年目には、豪農であった義父の遺産を使って、自宅に「香川栄養研究所」を設立、駒込に校舎を新築、200名の生徒を迎えます。

「疎開学園」
 太平洋戦争が始まると、雑誌は休刊、空襲で学園は焼失。体が弱くて兵役を免除された夫・昇正とともに、卒業生の助けを借りながら群馬県勢多郡大胡町に疎開学園を開きます。群馬大学はじめ群馬県の食糧研究所・農林学校・衛生課の先生の協力のもと、生理学・解剖学・食品学・有機化学・食品加工・集団給食管理・一般栄養学・小児栄養・妊婦栄養・病人職・献立・基本調理・英語・音楽の授業を実施。綾は学生と一緒に牧場で草刈・試料運びを手伝う代わりに牛乳を分けてもらったり、畑を借りて大豆・大根・サツマイモを育てたり、牛の餌にされていたジャガイモや捨てられていた牛の臓物を分けてもらって調理法を広めます。そんな中、疎開学園はじめ東大・学習院の講義に、軍隊の食事指導に奔走していた夫は体を壊して急逝してしまいます。

「女子栄養大学」
 敗戦とともに、綾は欧米の最新の栄養学の進歩に驚きながら、雑誌「栄養と料理」を復刊。学園復興に奔走します。「日本でただ一つの栄養学園です。この学園がつぶれたら新しい国造りはできません。」雑誌の購買者はじめ役人に弁護士に郷里の実業家に訴えます。計量スプーンと計量カップを考案して、NHKはじめマスコミ関係者に重要性を説明して周ります。乳・卵の第1群、肉・魚・豆の第2群、果物・野菜の第3群、穀類・砂糖・油脂の第4群にまとめた「4つの食品群」、1日に必要なカロリーの点数換算表を考案、「香川式食事法」を広めながら、栄養学部・管理栄養士資格の創設を訴えます。香川栄養専門学校はじめ女子栄養短大、女子栄養大学を充実させ、栄養士・調理師・高度な栄養学の専門家を社会に送り出し続けます。「人が存在する限り食と健康は永遠の研究テーマ」

-女子栄養大学・短期大学
-香川栄養学園・香川調理製菓専門学校
-『一皿に生命こめて : 栄養学に賭けた私の半生』香川綾、講談社1977年

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