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Happy Women's Map 中華民国北京粛親王府 清王朝最後の王女・満州のジャンヌダルク・東洋のマタハリ 川島 芳子 女史 / The Last Princess of Qing Dynasty, Jeanne d'Arc of Manchuria, Mata Hari of the East, Ms. Yoshiko Kawashima

-『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子 著(文藝春秋1984年)

 「我心誰ぞ知る。こんな分からん世の中に生きたところで何になろう。」
"Who truly knows my heart? What will become of me in a world so inexplicable?"

川島 芳子(愛新覺羅顯㺭 / 東珍 / 金璧輝)女史
Ms. Yoshiko Kawashima / Aisin Gioro Xianyu /  Dongzhen / Jin Bihui
1906 - 1948
中華民国北京粛親王府 生誕
Born in Pekin, China

川島芳子女史は「男装の麗人」「満州のジャンヌ・ダルク」「東洋のマタ・ハリ」。清朝の皇族・粛親王善耆の第14王女として誕生。川島浪速の養女、蒙古族カンジュルジャブとの結婚と離婚を経て、「清朝復辟」のために上海の関東軍に身を寄せ、諜報活動・婉容皇后の天津脱出・上海事変・熱河作戦に参加しながら満州国樹立に協力。やがて暴走する関東軍の大陸政策を批判、自伝小説また手記を発表してメディアを活用しながら日中和平工作に奔走するも、太平洋戦争終結後に中国軍に反逆罪で捕えられ「エログロの権化」「漢奸」として銃殺刑に処せられます。

Ms. Yoshiko Kawashima was known as the "Beauty in male attire", "Jeanne d'Arc of Manchuria," and "Mata Hari of the East". Born as the 14th daughter of Prince Su of the Qing Dynasty, she went through marriages and divorces, including one with Mongolian prince Jinzhu. She aligned herself with the Kwantung Army in Shanghai for the restoration of the Qing Dynasty, engaging in espionage, assisting Empress Wanrong's escape to Tianjin, participating in the Shanghai Incident and the Nomonhan Incident, and supporting the establishment of Manchukuo. Later, she criticized the aggressive continental policies of the Kwantung Army, utilized media by publishing autobiographical novels and memoirs, and worked tirelessly for Sino-Japanese peace efforts. However, after the end of the Pacific War, she was captured by the Chinese military on charges of treason and executed by firing squad, labeled as "the embodiment of eroticism and gore" and a "traitor to the Han."

「父と義父」
 芳子の父は、蒙古・朝鮮・陝西・四川・山東省に遠征して満州朝廷の基礎を築いた知勇兼備の粛親王10代目の王。日清戦争以後、日本・ロシア・アメリカ・イタリア・イギリス・ドイツなど西洋列国が侵略の手を伸ばし、「扶清滅洋」の旗を掲げた義和団が各地で抗戦、西太后と光緒帝に従って北京から西安に退避、忠勤に励みます。21王子と15王女のうち芳子は14番目の王女・金壁輝として第四側妃を母として生まれます。芳子の義父・川島浪速は、東京外国語学校を中退して上海・満州に遊学して陸軍通訳官として従軍。紫禁城の無血開城の功績により紫禁城宮内家督に任命されるとともに、北城警務處ならびに警務学堂を創設して警察官吏の指揮と養成にあたります。まもなく西太后と光緒帝に従って紫禁城に戻ってきた芳子の父・粛親王と親交を結び、蒙古の喀喇沁王を加えて満蒙独立に乗り出します。

「玩具」
 西太后と光緒帝が相次いで崩御、革命軍が中華民国政府を樹立、アメリカと結んだ袁世凱により宣統帝が廃帝、ロシアの勢力を取り入れたモンゴルの王侯らは外蒙古の独立を宣言、粛親王ならびに芳子はじめ家族50人は日本軍艦で渤海湾を渡って旅順に軟禁され、2階建ての客舎の部屋に数名ずつ住み、兄弟姉妹で協力して着物・肌着をつくって室内・庭の手入れをし、父の指導のもと家族そろって大食堂で食事・勉学・体操など規律的に過ごします。「百姓のくれた一握りの麦飯と河の水で餓渇を凌いだ漢の高祖の心を各自の心として生活しなさい。」ある日、11歳の芳子は帰国させられた義父・川島浪速の住む東京に手紙と共に送り込まれます。「君に玩具を進呈する。なにとぞ可愛いがってくれ。」

「ジャンヌ・ダルク」
 芳子は、御影石の門柱に桜の木が200本と椎の大木に囲まれた広大な屋敷で、専属の家庭教師・赤羽(本多)まつ江を「赤羽のお母様」と慕います。まつ江の好物をすぐに覚えると、自分の膳にあるものでも手を付けずに「赤羽のお母様召し上がって」。芳子は豊島師範付属小学校に入学。紋綸子の着物に紫緞子の袴に大きなリボンをつけて先生を「おい君」と呼びながら、縄跳び・キャッチボールに興じ、日舞・琴・茶道・盆石・油絵・乗馬を習います。ある日学校帰りに読んだ『ジャンヌ・ダルク孤忠史談』に触発されて「私に三千人の兵隊があったら支那を取って見せる!」と宣言。いつかはジャンヌ・ダルクのように先頭に立って失われた清朝の地を回復したいと決意します。

「異邦人」 
 芳子の父・粛親王ならびに母・第四側妃が逝去。芳子は義父・川島浪速とともに旅順に駆け付け、墓守のため数か月を過ごします。清王朝腹辟の夢破れて長野松本に隠居した義父・川島浪速に従って芳子は長野松本に移り、跡見高等女学校から松本高等女学校に編入するも日本国籍がないことを理由に退学となります。芳子は聴講生として時々馬で通って授業に出ては途中で抜け出したり、苦学生の友人のために文字通りひと肌脱いでヌード写真を撮らせます。芳子はかつて言い含められた父の言葉を自分に言い聞かせます。「支那人でも日本人でもない。支那と日本を結ぶ柱石いや捨て石。」

「男装のはじめ」
 芳子は家で勉強しながら、耳が遠くなり厳格になっていく義父・川島浪速の筆談はじめ秘書を務めます。川島浪速59歳のこの頃の口癖は「粛親王は仁者。自分は勇者。この二人の後を結合させると仁勇兼備の子が誕生するだろう。」大正13年10月6日夜9時45分に芳子17歳は永遠に女を清算。日本髪に結って裾模様の着物を着てコスモスの咲く庭で記念撮影をすると、午後に床屋で頭を五丈刈りにします。「家有れども帰り得ず。涙あれども語り得ず。法あれども正しきを得ず。冤あれども誰にか訴へん。」その直後、自分に求愛する岩田愛之助から渡されたピストルで自殺未遂をおこした芳子は、病院で避妊手術を済ませ男装で日本を後にして、大連にいる兄・憲立を訪ねます。

「モンゴルの王妃」
 「あれは嫌だ」「この人は嫌いだ」結婚話を断り続けて数年後、とうとう芳子に嫌だと言わせない縁談が起こります。蒙満独立運動に駿名を謳われた蒙古王族パプチャック将軍の遺児・カンジュルジャブとの政略結婚は、関東軍元参謀長・斎藤恒の仲人により旅順のヤマトホテルで盛大に執り行われます。草原の暮らしはじめ家族になじめない芳子は数年で家出、上海公使館付武漢補佐官・田中隆吉のもとに身を寄せ、関東軍参謀・板垣征四郎の指揮下に入ります。清朝皇族の人脈と語学を活かして支那はじめ欧米の情報を引き出したり、情報提供者を保護したり、上海事変の現地工作また停戦調整に一役果たしたり、溥儀の婉容皇后を天津から旅順へ護送したりする任務に従事。満州国建国宣言が行われると、溥儀を「執政」粛親王第7王子を「内務官特使」とする「清朝復辟」とは縁遠い満洲国樹立に芳子は失望します。

「満州のジャンヌ・ダルク」
 芳子は田中隆吉を罵り始め、海軍の練磨少将と仲違いさせ襲撃させます。また時の陸軍大臣はじめ関東軍が崇める「爆弾三勇士」の実態が、自爆で突撃路を開いた英雄でなく、火縄が短すぎて起きた事故だと各国の政府要人に暴露。板垣征四郎は芳子を満州国の執政女官長に任命して上海から追い出すも芳子は1か月で舞い戻ります。東京に居を構えた兄・憲立を訪ね2千円を無心すると、その足で小説家・村松梢風を訪ね「自分は川島芳子の妹で、姉の知られざる奇しき半生を小説家して欲しい。」と訴えます。数か月寝起きを共にして完成させた小説『男装の麗人』を『婦人公論』編集部に持ち込んで連載をはじめると大ヒット、中央公論者から刊行され、舞台劇にもなります。芳子は支那通で対中穏健派の満州国軍政部最高顧問・多田俊大佐に身を寄せ、安国軍総司令官として熱河省進出に参加したり、日本人居留者数百人を監禁する東北民衆救国軍・蘇炳文との和平工作に参加、「日本に協力する清王朝王女」として盛んにマスコミに報道されます。

「東洋のマタ・ハリ」
 芳子は上海を離れ日本の麻布桜田町の満州国公使館2階に陣取り、『婦人公論』編集部に手記を渡し『動乱の蔭に 川島芳子自伝』の連載をはじめ中央公論社から刊行、『十五夜の娘』『蒙古の唄』を歌ってがコロムビア社から発売します。芳子は新聞・ラジオ・雑誌・講演会など日本のマスコミで活躍しながら公使館の自動車を走らせ銀座・赤坂・人形町などのダンスホールをまわります。新聞『国民新聞』・雑誌『日本国民』のオーナーで昭和の天一坊と騒がれる相場師・伊藤ハンニを口説いて新東洋社を結成、資産家で海軍に飛行機・飛行場を献納していた笹川良一を口説いて国粋大衆党を結成、太平洋戦争を回避するよう遊説してまわります。「外交官や軍人や特権階級流のやり方ではなく民衆レベルの握手でなくてはならぬ。」「討つ人も討たるる人も心せよ。討つも討たれるも同じ同胞。」

「東興楼の女主人」
 芳子は天津に中華料理店「東興楼」を開業、広大な屋敷に失業中の中国人百名以上を雇い入れ、庭の中庭に成吉思汗(ジンギスカン)鍋を据え、戦線に出て行ったり奥地から戻ってくる日本兵にお茶とお菓子また入浴の接待サービスを始めます。中国と日本を行き来しながら、かつて芳子の父・粛親王に死刑を減刑された国民政府重鎮の汪兆銘、芳子の義父・川島浪速とアジア連帯主義を牽引する玄洋社の頭山満、はじめ中国と日本の政界また軍部の有力者たちに日中和平会談を呼びかけます。内閣総理大臣・近衛文麿ならびに陸軍大臣・東条英機は国民政府・蒋介石との和平工作を徹底的に阻止、「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」を宣言して太平洋戦争を開始。芳子は抗日テロ集団ならびに関東軍の両方から命を狙われます。終戦後、芳子は「漢奸」として北京で国民党政府軍に捕らえられ、関係者の名前を一言も漏らすことなく銃殺刑で42歳の生涯を閉じます。ポケットに忍ばせた辞世の句は「我心誰ぞ知る。こんな分からん世の中に生きたところで何になろう。」

-『動乱の蔭に 私の半生記』川島芳子 著(時代社1940年)
-『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子 著(文藝春秋1984年)
-『川島芳子獄中記』川島芳子 著・林杢兵衛 編 (東京一陽社1949年)


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