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『ギターの先生⑫』

第12練習 不倫とギターと成長期

結果から言うと、ワタシたち夫婦は別れなかった。

あれから3日経って、憔悴しきったパパが帰って来た。
「本当に申し訳なかったです。ごめんなさい」
閻魔様の形相で、おんぷが土下座するパパを蹴り上げそうになったので慌てて止めた。
「彼女とは、別れた」そうだ。
あの夜ワタシとおんぷの姿を見て、今まで胸の奥にあったけれど敢えて見ていなかった彼女の罪悪感とパパの罪悪感が頂点に達したのだそうだ。
「今すぐ許してもらえるとは思っていません。けれど、もう一度チャンスをください。お願いします」

「とりあえず、別居させてもらってもいい?」
これは本当だった。
ワタシも神様ではない。
すぐに、「はいわかったよ」とは許せる度量は持ち合わせていない。
「しばらく、悪いんだけど」
本音を言えば、顔を見たくなかった。
同じ屋根の下、同じ空間で食事することや同じお風呂に入ること、同じトイレを使うこと。
同じ玄関から出発して帰ってくること。
そのすべてが同じであることを、あの夜から煩わしく汚らわしく思った。
それに、ギスギスした2人を見せること自体、おんぷにも影響が良くない。

「そう、だね。そうする。わかった。当然だよ」
パパはスーツケースに手慣れた様子で着替えを入れていく。
出張が増えたことで思わぬ特技ができたものだ。
あっという間に荷物をまとめて、
「泊まるところが決まったら連絡する」
後ろ姿は小さくて頼りなかった。

今日が始まる。
おんぷを学校に送り出し、ワタシはこれからパン屋のパートに出かける。
パパがいないこと以外、日常は驚くほどに何も変わらなかった。
周りは気を使ってくれているけれど、ワタシはなるべく元気に振る舞うようにしている。
いや、元気なのだ。
というか、少し変だと思われるかもしれないけれど、パパが不倫をしたことが面白かった。
あんなに学生時代にモテなかったパパが、不倫!!
見くびっていた!
人間って侮れない生き物だなあと実感したのだ。
もちろん心底怒っているし、パパに対しての信頼は前のようには無いけれど、つまらない男だと思っていたのはワタシだけで、パパもきちんと男だったのだ。
そして、パパを男として見る女がいたことにも意外性を見出した。
決して負け惜しみではない。
今後もネチネチと一生今回の不倫のことを、民話を話すように喧嘩や何かの折に持ち出しながらパパと老後を暮らしていこうと計画している。
あと、おんぷと2人で行く温泉旅行代を出してもらう計画もしている。

おんぷに「ママ、こえー。でも許すってこと?信じられない」
と言われたけれど、こんな経験をしてしまったことも案外希少価値が高いのかもしれない。
それは、離婚にならずパパが大反省をした、という事実があるからに他ならないが、まあしばらく距離を置いて、パパがどのくらいワタシに遜るか、ということに期待をしているからなのだ。
パン屋の店長とよっちゃんは、1週間前は腫物に触れるような勢いで凝り固まった笑顔をワタシに終始見せていたけれど、もう今は以前と変わらない様子でいてくれている。

今日は、あの大スペクタクル夫婦修羅場があってから初めてのギターレッスン。
あと、カラオケボックスレッスンの日でもある。
みんながどんな顔をするのか。
そっちの方が緊張してきて、パートの帰り道に考え事をして自転車で軽く電信柱に突っ込んでしまった。

ギターを背負ったワタシは、見慣れた雑貨屋の前に立つ。
高級ホテルのドアマンがいるのかと思うくらいに素早くドアが開いて、マキオとチーコさんがお出迎えをしてくれた。
2人とも、なんとも言えない顔で立っている。
チーコさんは物凄いスピードでワタシを抱きしめた。
「どうせ、がんばっちゃってるんでしょ?コメコちゃんは」
チーコさんの優しいシャボンの香りに包まれたら、親戚の家に来たみたいにほっとして、あの夜からの展開を話した。

「え、わかれないの?」
マキオは目をひん剥いた。
「いいじゃない。コメコちゃんが決めたことなんだから。初犯だから、許してあげるってことよね?」
あれだけのことがあったのだから、多分そういう反応になるのだろうし、ワタシの判断は珍しいのかもしれない。
でも、老後の復讐計画を話すと、2人は「こえー」と声を合わせた。
「案外、その選択の方が別れるよりもすごいかも」
「でも、おもしろいな。その考え方」
マキオは笑った。チーコさんも笑った。ワタシもつられて笑った。
「コメコちゃんは意外性があるね。いいね」
滞りなくレッスンは終了し、ワタシはカラオケボックスへと向かった。

『カラオケ★キャニオン』の正面は全面ガラス張り(崖のシールが貼ってある)になっており、見たくなくても受付の店長を外から確認することは容易い。
また、向こうからも確認することは容易い。
今日はすぐには入らず、自動ドアの隣りのガラス窓から覗き魔店長を覗いてみた。
いつも覗かれている側だから、たまにはと思って。
一瞬でこちらに気づいた。店長はタランチュラでも見つけたかのように大きな口を開けて指さした。
人を指さすな。

「いら、いらっさ、いらっさいませー!」
自動ドアの前まで出迎えてくれた。
「コメコさんー。いらっさらないかと思っていましたー」
ワタシの名前を大発表しながらなぜか泣く店長。飲み物コーナーに飲み物を取りに来た親子が、何事かと怯えながらこちらを凝視している。
「ちょ、ちょっと店長。ワタシが泣かしているみたいになっています」

089号室に向かう。
足取りは軽い。なんなら少しスキップをしそうな勢いだ。
ドアのガラス窓から、おんぷとメッチョが楽しそうに唄っているのが見える。
するとひょっこり顔を出したミドリと目が合う。ギターを持ちながら無邪気に大きく手を振っている。
ワタシは目くばせをしてからコップにコーラを淹れて、おしぼりを取ってスムーズに身をこなす。
後ろから野菜スティックと自分のギターを持ってドタドタと付いてくる店長の足音。
そう。ワタシは立ち止らない。
立ち止っている暇はない。
今回のパパの不倫があったことで、『当たり前』が無いことが分かったのだ。
もしかしたら明日から、ワタシはおんぷのすべてを担う役割をしなければならなくなる可能性があるのだ。
だからこそ、強く図々しくちゃっかりと明るくしなくてはいけないのだ。
でも、不安はある。大人なんだから、と。頑張らなくては、と。

「おまたせしましたー」
希望のドアをガチャリと開けた。
おんぷが笑う。メッチョが笑う。ミドリも笑う。
かわいい雛鳥たちが、3羽並んで元気に。。。と、1羽増えている。
「ボクも、来てしまいました」
きちんと頭を下げて、おんぷの彼氏の殿村くんが会社員みたいな挨拶をした。
「あ、ようこそ」
あの夜、助けてくれた若い仲間たち。

「さあ、ギターレッスンやりましょうか!」
店長が大皿に盛った野菜スティックを、当たり前のようにテーブルの真ん中に置いた。
「今日はこの曲練習してみましょう」
メッチョが選択した曲が流れだすと、それに合わせてミラーボールがクルクル回り、みんなの頭の上をまんべんなく照らす。
誰の上にも、同じ光が降り注ぐ。雛鳥たちが、たくましく輝いて見えた。
応援してくれる歌詞だった。キミはステキだよって。
いつもそばにいるよって。
今流行りのバンドの曲なのだそう。
「ちょっと難しくステップアップしていくことが、ギターがうまくなるコツなんで」とメッチョは言った。

「これ、みんなで弾かない?バンドを組んで」
思わず口から零れ落ちた言葉。でも、これはうっかりではなくて計算して出した言葉。
ミドリが飛び上がって喜んだ。
「ワタシだけでは心もとないし。みんなが協力してくれれば、ワタシが奏でる頼りない音色も逞しくなる。ひとりじゃできないけれど、みんながいてくれれば強く響く音になる」

素直にお願いする。たとえ雛鳥にでも。困ったら頼ってみる。これはワタシが今回パパに教えてもらった心の成長。弱さを恥ずかしがらない。
きっとそれが、本当の強さ。

『ギターの先生⑬』|さくまチープリ (note.com)

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