見出し画像

人を励まして、うれしいのは自分

高1になった長女のことで、先日はうれしいことがありました。

学校が遠く、7月に入ってからは毎日帰りが20時近くになる娘。

「今日は7時間目まであったんだけど、部活なくていつもより少し早かったから1つ前の駅で降りて歩いて帰ってきた」と、いつもの20時前に帰ってきた。

謎!

帰りは遅いし朝は早いし家での時間が足りなくて大変なのに。


うれしかったことは、夕食を食べながら聞いた話。

学校の帰りの電車で横に座った人が声がでちゃう人で、そういう病気があるって、前にテレビかなんかで見たことがあったから、そういう人なんだなと思って、あまり気にならなかったし、座っていたところ、

その人から「実は自分はこういう病気があって、声がでちゃうんです。すみません。」みたいなことを言われたらしいのです。

乗り換えの駅で一緒に降りたからその時に「私はちょっとそういう(病気の)ことを知っていたからかもしれないけれど、気にならなかったし、周りの人からどう思われるかとか気にしないで、堂々としていていいと思いますよ!」って言った。

その、「言えたことがうれしかった。」

と。

「なんか、福祉施設とかで働いている人がいて、そういう人はちゃんと知識を持っている人で理解があるから、施設の中にいたら安心なのかもしれないけど、外の世界に出るとそうじゃなくて、生きにくいのかな。社会がそういう(病気)ことをただのその人の個性として受け入れることができるような社会だったらいいのに。」

というような話をしました。

その人は娘にそういわれて、きっと勇気づけられただろうな。よかったな。

と思うと同時にそれを聞いて私が想ったことは、相手を勇気づけることができたということは、自分がうれしいということなんだということ。

喜んでもらいたいから、役に立ちたいからするのではなく、自分がうれしい気持ちになるから相手を励ますのかな。っていうこと。

自分のためなんだ。

相手のためにとか考えないで、相手が受け取るかどうかは手放して、そうやって人を励ますことができる自分でいたい。


長女が中2で学校に行かなくなったときも彼女の中に流れている「和」が乱される感覚がきっかけだった。と私は思っていて、

今、よく一緒に遊ぶ保育園時代からの友達2人は中学校に行ってなくて、高校生になった今は定時制に通っていたり、バイトしたりしている。

「学校や社会に多少合わない特性をもっていても、それはただの個性に過ぎない」「そういうことが当たり前に受け入れられる社会であればいいのに」って、いろんなところで感じているのだと思う。

そもそもですね。彼女自身はコミュニケーション力が高く、学校も好きな人ではあるが、本当にどうしてもできない。苦手なことがあり、それは自分の努力だけではどうにもならないことを受け入れている部分があるからなのかと思うよ。

時間や物の管理が著しく苦手。

親としては、「ちょっと努力して改善しようとしてほしい」と思わなくもない。ここ2週間くらいだけ考えても、忘れ物をとりに家に戻る回数多。

朝練に出るため始バスより早く出たいと5時55分に家を出て駅まで送っているが、2回に1回は駅から家まで戻っている。1度は片道1時間半の学校までその日までに提出の大事な書類を届けた。

朝起きるのも、苦手。だからと言って早く寝ることもできない。

親としては「彼女の努力だけではどうにもならない特性」なのだと受け入れる覚悟を求められる。

娘はそういう自分にダメ出ししないでゆるしてるから人にも優しくなれるのだな。きっと。

昨日はこれ(写真)を作って、玄関に貼った。
バタバタと出ていく直前のチェックのために。

画像1

7月から「忘れた!」と取りに戻って来る。または、忘れたまま学校へ行ったものたち。これまでも部屋にある大きなホワイトボードに持ち物や出発時刻を書いていたのだけれど、見ないから。玄関ドアに貼ったぞ!

こういうことされても長女は嫌がらないのだけれど、
これも、やった私がうれしい。ってことで。

相手がどう受け取ろうとも、どうでもよいのだ。私がよければ。

子どもの生きる力を育み、子どものもつ才能や輝きを引き出す教育をテーマに記事を書いています(^▽^)/