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当たり前のことは当たり前ではない

今朝偶然目に留まった、全員が黒い服を着て、今から火葬場に向かうのであろう1台のバス。

その先頭に若い男の子が遺影らしきものを抱えて座っているのを見て、突然涙が溢れてきました。

母が亡くなって16年。今年はもう泣かないかと思っていたんだけどな。



先月は母の十七回忌でした

昔はこの時期の空気感。ななかまどが赤くなり、雪虫が飛び、空気がピリッと寒くなる空気を感じるだけで、具合が悪くなっていました。

亡くなってすぐはこの世の終わりかのような気持ちで、ただただ悲しくて、悔しくて、どうしようもない気持ちでいっぱいで。

もっと何か出来たんじゃないか、もっとこうしてあげれば良かったのに、私が悪かったのかな…そんな後悔もたくさんありました。

時間が経っても街で似たような人を見かけては涙し、同世代の母娘が仲良さそうに歩いてるのを見ては涙し、テレビで人が亡くなるシーンを見ては涙し、、、


時間の経過と共に少しずつ思い出すことも、涙を流すことも少なくなり、10年くらい経った頃からでしょうか、過去のこととして考えられるようになった気がします。当時出来る最善は尽くしたとも思えます。


もう半年。まだ半年。

今から5年程前になりますが、私と同じくらいの歳の娘さんを亡くした知人が、「もう半年も経つのにいつまでもメソメソしてばかりで」と話していて、「いえいえ、まだ半年ですよ」と返しました。

大切な人が亡くなっても、世界は何事もなかったかのように普通に動いていて。自分だけがいつまでもそこから動けず、立ち止まったまま置いていかれたような感覚で。

私の場合、家族はすぐ仕事や学校に行き普通に生活しているのに、無職だった私は何もしないでただただ泣いて過ごして。

今考えれば、家族も悲しみを抱えながら精一杯普通に過ごしていたのでしょうが、当時は私一人置いていかれているように感じていました。

もちろん感じ方は人それぞれだろうし、亡くなった方の年齢や経過、関係性等によって悲しみの度合いは違ってくると思います。


当事者としては、もう3ヶ月も経ったのに、半年も、1年も、3年も、5年も…と

もうこんなに経ったのになかなか立ち直れない自分に苛立ったり、戸惑ったり、色々な感情が湧くこともあるかもしれません。

もし今大切な人を喪った悲しみを抱えている方がいたら伝えたいこと。それはあまりに普通のことですが、時間が解決してくれるよと。

あんなに悲しくて、苦しくて、辛くて、死んでしまいそうで…いつになったらこの感情から抜け出せるんだろうと思っていましたが、時間の経過と共に少しずつ軽くなっていました。



母が生きていたら

気付けば母と一緒に過ごした時間と、母が亡くなってから過ぎた時間が少しずつ近付いていることに驚きました。

最近は『母が生きていたら』と思うことはほとんどなくなりましたが、息子を育てていると

『こんなにも大変な想いをして育ててくれたのに、さも自分1人で大きくなったような顔をして。

もっと感謝の気持ちを伝えてあげれば良かった。手伝ってあげれば良かった』と思います。

また、私はどんな子だったのか、どんな風に育ててくれたのか聞いてみたかったな〜と思います。


父に聞いても、全く覚えていないそうです。いつも私達が寝てから帰って来ていたし、私が生まれた時に何していたかさえ思い出せないらしいので仕方ないです(  ;∀;)

現在仕事もしているし、認知症とかではないんですが、昔の男親とはそんなものでしょうか。



母を喪って学んだこと

それは『当たり前のことが当たり前ではない』ということ

母は滅多に風邪もひかず、いつも元気な人でした。私は当然のように、私の結婚式に出て、孫を抱き、おばあちゃんになるまで長生きするものだと思っていました。

それが1つも叶わず、病気が発覚してからわずか半年で他界してしまったのです。


大切な人が当たり前に元気でいること、一緒にいられること。それがこんなにも幸せなことだったのかと失って初めて気付きました。


私は未熟者なので、こんなにも大きな経験をしたのに何度も何度も忘れて今近くにいる大切な人への感謝が足りなくなってしまうことがあるかもしれません。

でも何度でも何度でも思い出します。
出来ることなら忘れずに、常に心に留めておきたいです。

自分も含め、いつ誰がどうなるかなんてわかりません。その時に後悔のないよう、今を大切に、感謝の気持ちを忘れずに過ごしていきたいです。

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