流星雨の如し DISCO TEKE-TEN vol.4
85年の夏のはじめ7月にたこ八郎さんが海で亡くなった。暑い夏だった。
我らのDISCO TEKE-TENは本当に色々なことがありながらも、大きな怪我人や病人もなくなんとか店を回せていけていた。毎日の売り上げを琉球銀行の夜間金庫に入れに行くという日課も、提供してもらった部屋での快適な寝心地も細かなところは忘れてしまっていて、一瞬一瞬の静止画のようなイメージしか思い出すことが出来ない。むしろ店のソファで寝たことや、無い知恵絞り出して対応したことなどはわりと鮮明に覚えている。手作りの看板。表通りから路地を抜けてその先に怪しいTEKE-TENが現れる。オヤジがキャッチ役だったので、近所の子達とは一番仲がよかったとおもう。そのオヤジも一昨年亡くなった。ヨコちゃんは島の数年後に吸いかけのタバコを残したまま消えてしまった。残りのメンバーはまあまだ元気にやっている。
沖縄の中学生はお墓で酒盛りをするはなしもそこで教えてもらった。お墓で飲んでいるとたまに憑依されることがあるらしく、突然今では使われなくなった昔の言葉を喋り出す子とか、お墓に備えてある湯呑みが欠けているのでその部分が痛い痛いと泣き出す子まで、そういった精神や霊の世界がすぐ隣にあるのがリアルな沖縄なのだとおもう。一方で店のとなりに住んでいたおじさんは元船乗りで世界中の港に女がいるので”世界のハーフ”とみなに呼ばれていたりもする。いまは情報が簡単に手に入るけれど、その当時は本当にそこに行ってみないとわからないことだらけで、常識も何もかも違う島での生活は俺たちを何倍にも逞しくしてくれたと思う。
久米島の道は珊瑚の粉が轢いてあるので白い。それが太陽に照らされると本当に眩しくて木々や建物の影は逆に真っ黒に見える。カゲロウ立ち上り歪むその世界は今でも強烈に覚えている。白と黒の世界。そこから海に目を向けると真っ青な空と真っ青な海があり遠浅で穏やかに凪いでいる波は、小さな波頭からすぐに消えてしまう泡を吐き出していた。遠くに雷が見える。
若い男たちなので当然女性と仲良くなりたくないわけもなく、店終わりにどこかで待ち合わせをしている奴は閉店後のミーティングを早く終わらせたくてたまらなかっただろう。とはいえ一番は店なので、わりと極限状態の中で生活しながらも、店の回し方や接客方法などは対立とまではいかないが、意見を出し合った。なのでミーティング中は雰囲気が悪くなることもしばしばあった。ただ最後には
「あれ?なんか臭くないですか?」
「うんなんか匂う」
「ジョージさんの足ですよ」
「あー、、!」
でおさまるという規定演技でミーティングは終わる。
そこからは遊びに行く奴は遊びに行って、残りのメンバーは晩飯を食べに深夜までやっている定食屋に向かう、途中夜間金庫に売り上げを入れるとそこから海岸沿いの道からビーチに出てショートカットでその店を目指す。その日は恐怖のお盆がやってくる数日前の8月12日。定食屋に着くと店のテレビで速報ニュースが流れていた。携帯も、netもまだないこの時はこの店のテレビだけが唯一の情報源だった。店に入ると日航機が墜落したというNewsが流れ乗客名簿のリストがスクロールされていた。久米島の定食屋で疲れて飯を食べている俺たちには全然リアリティがなくて、
「ジョージ。ほらここにゲロゲって出ちゃってたかもよ」
などと軽口を話していた。ただずっとそのニュースが流れ消息のわからない人が数百人いることなどが分かり始めると、店の中も重い空気になっていった。
食事を終えて店を出ていつものようにビーチを散歩した。満点の星空。
「なんか今日流れ星多く無い?」
と誰かが言った。
本当だと砂浜に腰をおろして空を見上げると、見たことのないくらいの数の流れ星が空を駆けていた。雨が降っているかのように。
「もしかして今日の事故で亡くなった人かな」
誰も答えはわからない。ただずっとみんなで流星を見ていた。あの星空は今でも鮮明に覚えている。
日本中が注目したNewsも久米島では昼間あまり話題なることもなく、恐怖のお盆も過ぎ、海牛やらウニが海岸に増え始め台風がやって来る季節になった。仲良しの島の酋長と呼ばれている人の家でよくBBQとかに誘ってもらったが食べながら、ちょっと海行ってくると言って懐中電灯と水中眼鏡もっと出た酋長が20分くらいで巨大な伊勢海老を捕まえて振る舞ってくれたのは驚いたしとても美味かった。その酋長の家は台風で家は大丈夫だけど、朝起きたら屋根だけ飛んで無くなっていたらしい。酔っていて屋根が飛んだこと気が付かなかったらしい。
そしてシーズンも終わりを迎える。20日を過ぎると客も減り始め島自体もなんとなく元気がなくなるというか寂しくなってきた。ビーチにくる観光客もまばらになった8月の終わりに俺たちは店を閉めることにした。店の最終日の前日にコツコつ作った内装が完成したのはご愛嬌だ。お世話になった方達とのお別れ飲み会。仏頂面の八潮の親父さんもまた来いよと言ってくれたが、味をしめたのか翌年はさっさと別の奴らに店を貸していた。久米仙の山羊の乳割は本当に不味かったが、なるべくたくさんの方に挨拶して回った。ヤッサンやヒコちゃんや島の女の子グループ。本当にお世話になりました。あなたたちと知り合っていなかったらとてもこの島で生活は出来ていませんでした。本当に感謝しかありません。島に到着した時は真っ白だった俺も黒く日焼けしていた。
幸い帰りは全員飛行機で東京に帰れるくらいには金が溜まっていたのでみんなでとりあえず沖縄の本島に向かった。しかし那覇からの帰りに問題が発生した。墜落事故のせいでJALには誰も乗りたがらずANAの飛行機が大人気になっていたのだ。頑張ってチケットを購入したがどうしても2名はJALに乗らなくてはならない。しょうがないのでみんなをANAに乗せて俺と桜井はJALで帰ることにした。俺たち以外には数名しか乗っていないガラガラのJALで羽田へ飛んだ。こんなに空いてるんだと初めてその事故が世間に与えた影響がすごかったんだと感じた瞬間だった。羽田でみんなと合流してそれぞれの帰路についた。そこから2ヶ月怠惰な生活が続く22歳の夏は終わるのだが、俺は「次はスキー場かな」と密かに思っていた。
おわり