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小説「灰色ポイズン」その10-殺風景な部屋の名前

「美菜子先生、私、いくつか連絡しなければいけないところがあって……あの、私の携帯は?」

不意に起きあがろうとして腕に力を込めたがギシンと音を立てて再びマットレスに身体を沈み込ませた。

「ちょっとちょっと大丈夫?急に起き上がらない方がいいわ。まだ薬が効いてるから」
私は自分の置かれた状況が大丈夫と言えるほどの状態ではないことを自覚せずにはいられなかった。

「私...どうやらまだ大丈夫じゃないみたい」上手く呼吸ができずに息を吸いながらかすれた声でそう答えるのが精一杯だった。美菜子先生は私の首に長い指を当てて脈を確認した。
「オッケー、急に体位を変えたから脳貧血起こしただけ。もう小一時間ほど寝てたらいいわ。ね、そうなさい。これからのことは休んだ後に話し合いましょう」
そういうといつのまにか着替えていたスエットの上下の乱れを直してくれた。
母さんや治療院の予約患者さんたちのことをことを気にしつつも目を閉じた。

美菜子先生は、真っ白で殺風景な部屋を出る前に、奇妙なことを言った。

「何も掛けてあげられなくてごめんなさい。ツェレでは、院長の方針で、落ち着くまでは掛け布団を使用できないの。また後で、ゆっくり休んでね。」

ツェレって何のことだろう?
この殺風景な部屋の名前のこと?
よくわからないけど、まあいいことにしよう。
目を瞑っていたら眠れるものかしら?とりあえず動きたくないし、医者が寝てなさいと言ったのだから横になっていよう。1時間くらいしたら起きてそれから、それからだ...。ドアを閉める音の後鍵の音がガチャガチャ聞こえた。うーん、ここは閉鎖的な部屋なのかもしれない。
そんなどうでもいいようなことと、後で目が覚めて母さんに電話でなんと言ったらいいのか...咽頭炎とか扁桃炎かで熱が出てとか何とか...言えばいい...っか。ベタな言い訳になったとしても仕方がない...。色んなことを頭に浮かべながら私はフワフワと闇の世界へ誘われていった。
   ○                   ○                  ○
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめん...」

「森野さん。森野さん、大丈夫よ。目を開けてみて」
美菜子先生の声が遠くに聞こえた。

「ごめんなさ...い」
私は謝りながら声のする方を見た。目を目一杯開けようと頑張ったが開けにくい。美菜子先生がどこからかガーゼを取り出して目の周りを拭いてくれた。涙が乾いて瞼どうしがくっついていたみたい。

「はい、これでいい。森野さん、おはよう、少し眠れたみたいね」

私は何か夢を見ていたようだった。よくは覚えていないけど嫌なというかなんだか胸がギュッと重苦しくて泣きたくなるような苦しい夢。そういう感覚だけが残っていた。

「いったいどうしたのかなぁ。このカナタちゃんは」
美菜子先生は静かにそう言ってはにかむように微笑んだ。
それから、もう一度お昼を食べた後の話をしてくれた。
医局の休憩室で私が眠ったこと。声をかけたらパニック発作のようになってちょっとした錯乱状態になったこと。鎮静剤を注射してしばらく眠っていたこと。

そしてその後、ナースが私のバッグを持ってきてくれた。私はやっと、母さんと予約の患者さんたちに電話をかけることができた。

私は心臓がドキドキして声が上ずりそうになるのを懸命に抑えた。思ったよりも、まるでテレビドラマの役者がセリフを吐くように、スラスラと嘘が口から出てきた。

母さんと患者さんたちには、感染症で入院した、身の回りのことを自分でするのが面倒で知り合いの病院に頼んで入院させてもらったと伝えた。
扁桃炎で熱が高いという嘘には誰も何も言えるはずもなく電話を切った。
電話が終わると美菜子先生が
「お疲れさまでした」とねぎらってくれた。

そうして私は夕方になってからようやく美菜子先生の診察を受けることになったのだった。

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