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小説『灰色ポイズン』その27-短期目標

[先回の話から]
「時々食事の味がわからなくなることもあって。二十歳の頃に過食してました。普通は味がしなくなると食欲が落ちるのでしょうけど、私の場合は味がしなくて満足できないのでたくさん食べていましたね…」

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入院4日目の朝、私は目覚めたとき、心が少し軽くなっていることに気づいた。いつもの眠りを誘う注射も打たずに、自然と眠りにつけたのは入院してから初めてのことだった。
まだ眠気が残るが、体がすっきりとした感じがする。

遅めの起床で始まった朝、看護師の吉野さんは、今日もいつものように私に笑顔を向けてくれた。朝食もしっかりと食べ、吉野さんに「食べっぷりがいいですね」と褒められると、なんだか子ども時代に母に褒められたような気分になり、少し嬉しかった。

その後、何気なく食事に関するエピソードを吉野さんに話した。過去に食事の味がわからなくなることがあり、それでも食べることを止められなかった時期のことを。二十歳の頃、過食症に悩まされていた時の話だ。「普通は味がしなくなると食欲が落ちるのでしょうけど、私の場合は味がしなくて満足できないのでたくさん食べていましたね…」と告白したとき、吉野さんはその話を院長先生にも伝えるべきだと勧めてくれた。

午後、院長先生との面接の時間が来た。緊張しながらも吉野さんに言われた通りに、自分の過去の食習慣について話した。食べ物の味がわからなくなること、苦手な食べ物をうまく食べられず、ほぼ飲み込んでしまうこと、そして実は他人と一緒に食事をするのが苦手だということを、少しずつ口にした。

院長先生は、私の話をじっと聞き、時折相槌を打ちながら、優しい目で私を見つめていた。話し終えると、
そうですか。食べ物についての課題もあるようですね。それについてもまた少しずつ話し合っていきましょう。

それから院長先生は電子カルテに何やら打ち込んだ後に私の方を向いて
「あのね、今後のことについて考えていますか?」と問いかけてきた。私は突然のことに驚いたが深呼吸を一つした。
そうだ、これからをどうするのかの短期目標について考えなければならない時が来たのだ。ここ由流里病院に診察に来て自分の今の状況ー
母親に対して一瞬だったにせよ殺意を抱いたことに対して相談に来て、パニックを起こしてそのまま緊急入院となって4日目。問題解決には至らないが少しずつ精神的には落ち着きを取り戻しつつある。私は近々社会に戻らねばならないのだ。

でも、院長先生のその問いに答えるには、あまりに頭が空っぽだった。
考えようとすればするほど、胸の奥に沈んでいた悲しみや不安が、表面に浮かび上がってくる。仕事に戻りたいという気持ちはあるが、本当にそれができるのかどうか、すべてがぼんやりとしか見えない。大体仕事もそうだが母親との関係は今後どうしていけば良いのか皆目検討がつかないのだ。家に戻って母の家を訪ねた時、私は再び殺意を抱いたりはしないでいられるのか...。色んな考えがいちどきに押し寄せてくる。
退院後の生活が今までと同じように続くとは到底思えず、未来に対する漠然とした恐怖が胸を締めつける。

「考えなければならない」と自分に言い聞かせるが、そのたびにグッと涙が込み上げてくる。目の前にある現実に立ち向かうことの重さに、心が押しつぶされそうだった。どれだけ悩んでも、結論が出るわけではない。ただ、心の中に渦巻く感情が出口を求めて暴れ回っている。

それでも、考える時間をもらうことにした。自分がどうしたいのか、本当にわかるまで、もう少しだけ時間が欲しかった。院長先生に「1日か2日、考える時間をください」と頼んだ時、先生の優しい声と共に「もちろんです」との返事が返ってきた瞬間、私はようやく息を吐くことができた。

涙がこぼれそうになるのを必死でこらえながら、私は深呼吸をして自分を落ち着けた。時間は限られている。
けれど、考えることができるというのは、今の私にとって救いのようなものだ。と思いたい。
そして、少しずつでも、私は今の状態から前に進んでいきたい。
そう心の中で決心を固めたのだった。

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