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死後の世界……サマーランドの生活


死後の世界……サマーランドの生活

  幽界入りした人がまもなく気づいてよく報告してくることがあるが、それらはどれも真実であると私は確信している。それらはまた私を楽しませ、しばしば喜ばせてもくれるが、おそらくは皆さんにとっても同様であろう。
  私が重ねて力説しておきたいことは、この著書に述べていることは自分の推測ではないということである。他のことはいざ知らず、ここに述べていることはどれも死後の生活に関する文献で一度ならず述べられており、これらの詳細の大部分は再三再四目にすることができる。私が承知していることは、私が皆さんにお話しているものの中には、あまりにもうますぎて真実ではないのではないかと思われることである。私もはじめは信じられなかったので、そのことから死後の生活の詳細が交信形式および一世紀にわって積み重ねられた文献で首尾一貫していることを理解していながらも研究をつづけているわけである。すなわち信じ難い所見には再三繰り返し確証を求めているのだ!もしみなさんが信じ難いとするのであれば、ご自身で何か研究されることをお勧めする。みなさんが研究を進めれば進めるほど、あまりにも都合が良すぎるので真実ではなかろうと思われる死後の生活が、それでもなお驚くほど真実であることが一層明らかとなることであろう。
  数多くの死後に関する証言は100年もの積み重ねがあることを忘れてはなるまい。そしてわれわれと交信した人たちは1920年以前に他界されているのである。彼らのサマーランドはわれわれの考えているものではないようだ。今日までにフラッパーズ(注.1920年代に欧米で流行したファッション、生活スタイルを好んだ「新しい」若い女性とくに性的規範を軽視した若い女性を指した言葉)、ボビー・ソクサーズ(注. 1940年代の伝統的ポップ・ミュージックに熱狂した10代の女性)、ビーツ(注. 概ね1914年から1929年までの、第一次世界大戦から狂騒の20年代までに生まれた世代で、1950年代にアメリカ合衆国で台頭した社会運動および美術・音楽をふくむ数々の文化、文学運動,またはその運動を担い、社会に大きな影響を与えた作家集団)が現在までそこにおり、最年長のベイビー・ブーマーズ(注.第二次世界大戦後の出生率増加の時期の世代)はすぐにでも駆けつけるであろう。サマーランドはいかにして「偉大な世代」がバンガローを造りクラシック音楽とジャズやロックンロールが張り合うように変化しているかと思うと微笑ましい。ここに記されているサマーランドはちょっと風変わりなもののようであるが、みなさんと私がそこに着く時までには、それがわが家のように感じられるであろうから悩む必要はないのである。

  それでは、皆さんにサマーランドの生活の前触れとしていくつかの面白い事実をお教えしたい。

  ○はじめによくある質問に答えておくと、かなりの人々が自身の葬式に出席しているのではないかということである。必ずしも全ての人が出席するとは限らないが、多数の出席者はそこに同席するヘルパーたちに慰められ、必要があればその場から連れ出されるであろう。しかし愛の結びつきが強く、また死に方が比較的楽であるとすれば、われわれの多くはこの人生最後の地上のパーティーを楽しむのだという証言がある。

  ○ほとんどの死者は自分の生前の肉体について気にしてはいない。一部の人は、地上の愛する人たちが、自分たちにとって空虚な墓と考えているところへ訪れ執着してエネルギーや感情を浪費していることに、不満の気持ちを表わしている。

  ○死ぬことは本来啓発をもたらすわけではない。これは、最近亡くなった人たちをしばしば意外に思わせているところであるが、それは自分たちが生前一緒だったまさに同じ人々がいるのに気づき不満を表すことである。

  ○われわれは幽界の中間層に生活しており、そこは常に純粋の白光があり、太陽光より明るく広がりを持っており、それでいて太陽光のようにわれわれの眼に害を及ぼさない。

  ○幽界には太陽も、星も、夜もなく、また雪や雨も降ったりしない。しかし日暮れや夜や雪や雨に喜びを求めるならば、それらを手に入れることができる。気温は23℃前後、それでも冬期のスポーツは可能である。実際、スカンディナヴィアのサマーランドには雪があると一部の報告にあるようだ。

  ○ここでは呼吸が、われわれに必要なあるゆる栄養源である活力とエネルギーを含む大気で身体を満たしている。

  ○われわれは飲食を必要とはしないが、もしそれを望めば好きなものが手にはいり、望む限り宴会を楽しむことができる。われわれには消化器官がないので架空の飲食は消失する。明らかにほとんどの人はすぐに飲食がとても煩わしいことに思い至る。

  ○大抵の人たちがとる死後の眠りのあと、われわれは二度と睡眠を必要とはしない。サマーランドの生活は活動期間を繰り返しであり、それから一定の昼間光の下でより控えめな所業を行う期間がつづく。われわれの身体と精神は決して疲労することはない。

  ○われわれは希望通りの年齢の姿をとることができる。大抵の人は壮年期の自分を選択するが、それは彼らの考え次第である。ある人は50歳台を好み、したがって多少の皺と多少の白髪混じりとなる。またある人は大切に思っている前世の姿を選択する。われわれは自分たちに適した姿に変えられること知り、そこである人ははじめにみなさんがご憶えている生前の老ぼれジジイの姿を現し、それから段々に若返って行くようである。それら新幽界人にとって、ここでは彼らの疾病がなくなってしまうことがわかると、生前の不具・疾病をなくすことができるようになり、その後に前進と後退が徐々にすすむ。

  ○われわれは好みの衣服を纏うことができる。一部の人は生前に着ていた衣服をそのまま着続けることが大切であると思っているので、19世紀の装いやおそらくは1920年台の衣服、その他どの時代の服装の人たちも目にすることができる。大抵の人たちは結果的にどのように着ようかということに気に掛けなくなり、昔に戻って天使が着るような床まで届く長袖のチュニカ(注. 貫頭衣のようなもの)を纏っている。チュニカは大体パステルカラーで、その発光性の繊維は穏やかに輝いている。そのチュニカの色彩や手の混んだ装飾、それにベルト(特別の場合のためのケープや帽子のように他の服装も)は霊的地位を反映している。

  ○死後の界層には霊的階級があり、そこでわれわれ皆が進化しようと修業をしているが、客観的な時間という観念がないため進歩を急ぐという感覚はない。

  ○ここでは地上的階級と関係がない。イエスが言ったように、「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」(マルコによる福音書 10:31)ということがそれを意味している。

  ○大体において死後の通信手段はテレパシーである。ともかくこれは相異なる地上言語の問題を払拭するため、一度テレパシーに慣れるとわれわれが望む誰とでも会話を交わすことができる。

  ○われわれは地上に残してきた人たちの気持ちを読むことができる。そして彼らとは想念によって交信することができる。しかし、生者は滅多にわれわれのメッセージに気づかない。少数の幽界人ではあるが、ある環境のもとで、物理的に地上で声明を発することができ、ある者は神経の高ぶりでもたらすことができるが、大抵はある特有な手がかりの気配を生み出す以上のことは出来ない。生者との実際の交信は難しく十分な訓練と実践が必要であるが、地上の人たちが彼らを愛する幽界人からの便りをごく稀にしか聞こうとはしないことだけがその理由ではない。永遠の展望からすると、地上の生活は短く、われわれが残してきた人たちがうまくやっていることを確認したいと思えばいつでも確認することができる。それに対し、われわれがとても忙しいと、地上との結びつきが鈍ってくる。遠慮なく言うと、われわれの死後、自分たちの愛する人たちがそのうち自身で発見するものについて証言を送り届けようというよりも、われわれには多くのもっと刺激的な為すべきことがあるのだ。

  ○サマーランドでの色彩は可視光のスペクトルに左右されることはない。したがってここの色彩は地上の人たちにはとても想像出来ない。これは特に地上にはない色合いの多数の花に関していえることである。

  ○花はサマーランドの何処にでも咲いている。それぞれの花は不変で豪華で芳しく、また成熟した花がいっぱいの植物が植えられ、水や肥料や雑草に手をかける必要がなく、永遠に彼らを楽しませるようになっているため、園芸は楽しみとなっている。

  ○水はここではふんだんにある。地上の水と同様に水晶のように煌めいているが、実際は非常に異なっている。多くの報告によるとそれは生気にみち、植物機能に由来する敬意と活気に満ちたエネルギーとそれに精妙な音楽と同種のものを発している。水に関して、新幽界人がもっとも驚かされるものは、絹のような肌触りの点で非常に異なっており、また着物をすっかりきたまま湖で水浴し、そこから歩み出るともう乾いているという事実がある。死後世界の諸界層で水に関する記載はイエスが「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」(ヨハネによる福音書 4:10)で述べた言葉で十分と思われる。一部のクリスチャンはこれを洗礼と受け取っているが、洗礼することが死後の生活を左右する証拠はないことがわかっている。そこで「生ける水」に関する言及はイエスが個人的に死後の実体を熟知していたことの、とりわけ優れた証言であると言えよう。

  ○鳥や野生の小動物は文献に述べられているが、サマーランドの大きな動物はどれも誰かの愛玩動物である。動物には種属特異性の「グループ・ソウル」という集団があり死後そこに戻るのであるが、人々に可愛がられた動物たちは独立した存在になりうる。われわれの身内がそれぞれのペットの面倒を見てくれていたり、それ以外のペットはそれぞれわれわれが幽界にやってくるのを待っている間、他の同種の仲間と暮らしている。もし彼らがわれわれにとって特別に重要な存在であれば、ペットたちはわれわれの生前にもガイドとしてやってくるようだ。多くの場合、彼らは別に可愛がっていた動物たちと一緒に待ちわびており、たまにわれわれの帰幽を待っている人々が、新幽界人の彼らに挨拶をしようと心から喜びを願っている犬やネコたちの態度が理解できないようだ。人間たちのように、ペットたちは今や若く健康である。また同様に食べたり排泄をしたりしない。またわれわれを待っているイヌやネコばかりではなく、愛馬たちもここでは乗馬のためにおり、また農場があり、サーカスの動物たちもいる。もちろんここではライオンがヒツジとともに寝そべっていることは言うでもない。

  ○多数の報告によると、サマーランドではわれわれが欲しいものはなんでも手に入れることができるようだ。どんな長いこと惜しんでいていた品物、無くしてしまったオモチャ、絵画作品、衣服……われわれはそれを思いおこすだけで手に入る。その点は欲しがっていたあるいは失ったものの過去のあらゆる意識が素通りしているようであるが、われわれが最初に幽界に入ったとき単にある物を思うだけでそれが目の前にあることが素晴らしい。

  ○多くの幽界に関する報告によると、文字通り何でも読むことができる素晴らしい図書館がある。(そこには書籍より巻物がもっと多くあるようである。)

  ○再生に関する沢山の証言がある。だが、線形時間は幻覚であり、明らかにわれわれの地上生活はどうも一瞬の中に生かされている。われわれは幽界入りする前には再生の過程を理解することはとてもできない。そこでそれがどのようにおこるのかを研究し、過去世と来世の双方から事例を帰納する割合が高い。

  ○この世の歴史上のいかなる出来事も選択して体験することができるという証言がある。われわれはディノサウルス(注. 中生代の巨大爬虫類の恐竜)と一緒に歩き、フィラデルフィアの大陸会議(注. 1774年から開催されたアメリカ合衆国13州の当時各植民地代表による会議)に出席することができ、われわれの全ゆる好奇心を広く満足することができる。

  ○われわれは死後の界層の旅の方法をどうしたらよいのか教えてもらう必要がある。しかしその旅はふつう想念によって行われ、しかも瞬間的である。われわれはもしも歩こうとするならば歩き、歩きたくなければ瞬間的に何処へでも行くことができる。想念旅行は乗り物を必要としないが、生前自動車やボート、あるいは飛行機に乗って楽しんでいた人が必要と思うのであればそれらを所有して使用することができる。

  ○われわれは霊的にさらに生長すると、地上やわれわれ自身の振動レベルと同等以下のどの場所へでも旅することができる。また、高級霊の助けがあれば、自分のいる界層より高い界層を訪れ、そこでわれわれを待ち受けているもっと大きな喜びを味わうことができる。

  ○われわれの精神は肉体の物質脳の干渉を受けることがなく、進歩するにしたがって驚くほど容易に学ぶことができる。器楽の教師や絵画や種々の工芸の教師は特に需要があるようである。われわれはもっとも偉大な作曲家からピアノを学び、また伝説的芸術家から絵画を学ぶことが可能であると言われている。

  ○ここの音楽はやや取り憑かれているといえる。そこでは古代ギリシャ時代のものにそっくりの広大な円形劇場があり、各聴衆である彼または彼女は第一列目の中央に陣取っているという報告がある。われわれには地上で聴く音楽より一段と素晴らしいだけではなく、また色彩豊かな雲や姿形が演奏者の上方に見える。古典音楽が好まれているが、現代アーティストも公演し、私が会った名のある3名はフランク・シナトラ(注. [1915〜1988 ]イタリア系アメリカ人。20世紀アメリカ合衆国を代表するエンターテイナーの1人)、エルヴィス・プレスリー(注. [1935〜1977]アメリカ合衆国の成功したミュージッシャン、映画俳優)、ジョン・レノン(注. [1940〜1980 ]イギリスのシンガーソングライター、ギタリスト。ビートルズを立ち上げた1人でリーダー。平和運動家でもあった)である。(エルヴィスは出入りが自由な界層にいて自分のファンが帰幽したら、彼本人を見てもらおうと公演をつづける決心をしていると読んだことがある。それが本当かどうか確かではないが、素晴らしい話である。

  ○全ての描写のうち音楽公演の他に、われわれは演劇やタレントの出し物も楽しんでいる。また、それは必ずしも有名人の公演ばかりではなく、そこには著作や公演をしたい者は手近な聴衆を見つけることができる機会がある。

  ○ここの建造物は2つの方法で建設することができる。それは徐々に拡張して建設する方法と、あるいは高級霊の支援を得て精神的に創造できる方法がある。かつてある農夫の報告を読んだことがあるが、彼は自分の娘のためにその一家の農場の家に似た素敵な家を建ててあげようとしていた。高級霊は彼にそのデザイン作りの手助けをして、指定した時間に一緒にエネルギーを集中させ、計画通りの建物をじわじわと造りあげて行った。

  これまで私は死後の無神論者に関する報告を読んだことがない。サマーランドでは、神は幸せなことに、活力や光として認められる。私が読んだ神に関するどの話も、神が最高の界層にましまし、そのエネルギーは誰もが神に近づくには霊的に最高に発達した者でなければ不可能であるという類のものだ。神は死後の諸界層の全ての光源であり、それは最下界層では暗く、その上の界層になるにつれて徐々に明るくなっていくと言われている。神は決して姿を見せることはないので、われわれ各人が霊的に進歩を重ね、ついには皆が神とともにいるという一般的な理解が進むまで誰も気づかないのである。玉座というものはなく、顎髭もなく、復讐心に燃えた怒りもないが(そしてもちろん人間に関わる性もない)、その代わり、無限の力強い、無限の愛そして普く浸透するエネルギーであり……それがいわゆる神と言うものである。(私は無神論者たちに謝りたいがこれは私のでっち上げではない。みなさんは過去150年間に霊界旅行をした人たちの報告を幾編か読んだことがあろう。そうであれば、皆さんはご自身の死ぬ時にはどうぞ偏見を持たないようにしていただきたい。なぜならおそらくは頑迷な無神論者たちにとってはうつろな天国というものがあるからであり、そんなところへ皆さんはどうしても行きたいとは思わないであろう!)
  証言が認められなかった2つは、猛火の地獄と悪魔についてである。

PMHアトウォーターは著書「光を超えて」(改訂版2009年)で次のように述べている。臨死体験した7人に1人にとっては不快または忌まわしいものであるが、それらのほぼ全員は、悪魔のような人々の居住する圏外の暗黒界と結びつけている。猛火の地獄に関するわずかな証言は、一握りの臨死体験の報告であり、それには業火に包まれていると思っている人々がいた。しかし助けを求めるとすぐにその幻覚から覚めた。卑劣で悪魔的な人々は確かに圏外の暗黒界に地縛霊として存在しており、また臆病でありながら力も弱いのである。もしみなさんが彼らに勇敢にたち向かうなら彼らは後退りする。私が読んだどの書物からも、実際には角のある悪魔はいないし、同様に顎髭のある神様もいないのである。むしろ、われわれ人間の方が存在する全ての邪悪な存在を造り出していると高級霊は示唆している。(姿を現さないのがまさに悪魔の最高に利口なトリックであると皆さんはここを指摘し、それが正しいと思っているかも知れないが、私はそうは思わない。)
  奇妙なことに、どちらかと言うと小さな宗教の方がうつろな天国ではなく死後の界層を信奉している。私がちょっと見たところ、一部の幽界の聖職者が生前教えてきたことを訂正を強要されるように感じ、これらの問題を扱ったクラスを開いている。しかしこれらの宗教的落とし穴にはまった人々のための、サマーランドの礼拝行に対してそこかしこで照会してみても、きわめて少ないのである。そこでわたしは彼らが信仰して来たことをからかってみているが、現在では宗教を必要とせず、神をとても近くに感じているようだ。
  サマーランドは少しも宗教的実践を制約していないようであるが、ここでは科学は非常に高い地位にある。科学的修練をつんだ人々はしばしば他の科学者と研究室に加わり、そこで地上でのこれからの科学的発展のために仕事をしているという。彼らがある発見や発明をして、それに対して生者が受け取る準備ができていると思うと、地上の少数の科学者の心に印象づけるのだ。これは時々飛躍的躍進がほぼ同時に2、3カ所で起こる理由であるという。幾つかの報告によるとトーマス・エジソンは地上とサマーランド間の電話交信法を確立しようと研究を続けている。彼は生前からその研究をはじめ、死後もそれを継続しているということである。
  われわれが帰幽した後は、何物をも誤魔化すことはできない。われわれは霊格に相応しい振動レベルの場所へ連れて行かれる。そこではそれより低界層へは容易に行くことができるが、そこより高い所へ行くのは耐えられないようである。ある人の報告を見ると、その人は第四界へ進級したいと切に願っていたので、その階層に居住する生前の友人が連れて行ってくれた。しかしそこはその訪問者にとっては耐えがたく、息苦しく、謙虚な気持ちで第三界に戻り、あらためて自身の振動を高めようと修行した。後日第四界のクラスに入り、彼は振動が高められていることをわかっていても不安を感じていたが、今では気にしてはいない。
  死後の世界の中間層は第五界までで、その上はコーザル(または精神)界、そして天上界がある。そこには亜界があるようで、時々その名称や詳細について報告が色々とありしかも多少異なっている。しかし、1世紀以上にわたる死者との交信は7つの基本的な界層について一貫した叙述をしてくれている。
  コーザル界の居住者は下位の界層では教師として尊ばれており、そこではたいてい長老として現れる。文献によると、コーザル界を視察するとそこには素晴らしい諸宮殿が存在しているという高級霊の証言があり、それは喜びに溢れた精神エネルギーから構成され、物質的要素が殆どない。おそらくこれらは第五界の最高位への訪問であり、実際のコーザル界ではあるまい。あるいは恐らくは宮殿は訪問者のために一次的にコーザル界に現わしたものであろう、
  われわれは天上界については知ることはできない。(イエスに例外として知っている可能性はあるが)そこへ入る機会を得た人はかつて紛れもなくわれわれと交信していたという証言はない。死後の生活の文献とバイブルに「第七界」、すなわち「第七天上界」へ訪問する参考文献がある。しかし、どの報告もとても俗世的である。現在これらはサマーランドの最上部の訪問であって、それ以上のものではないと私は思っている。
  まさに物質的世界が大きな幻影であり、われわれが死の門をくぐってから知るその実体もまた錯覚のようなものであるに違いない。そこで生活している人々はしばしば死後の生活の実体は物質世界より実際にはもっと実在的であるとよく言っているが、ここから一層明らかに精神的創造がなされているとわれわれは考えてよいようだ。
  われわれのサマーランドの時代は地上での困難な人生を経てからの息抜きと自由活動と学びの期間となるようである。われわれが学んだ全ての課程を強化支援し、少しの幻覚もない上層界へ向けて徐々に移行させてくれる意味があるようである。
  幻覚がなくなるとわれわれがどういう存在であるかというと火花であるという証言がある。ロバート・モンローの幽体離脱は「幽体離脱の旅」(1971年)、「遠方への旅」(1985年)、「究極の旅」(1994年)が示しているように、暗闇の対局に火花としての人間についていくつか記載しているが、それは、少しも幻覚がない状態で、どれほどより大きな実体が姿を表すかということである。さらなる高級霊はこれに正常を見出しているようだが、地上生活をしていたわれわれの中には、そのように大きな変化をみてショックに陥るかも知れず、したがって幻覚の中にとどまらせることで保護されているのだ。
  一体何が起こっているのかわれわれには理解できないので解決する段階ではないと上界の霊から言われている。証言によると、われわれの粗野な惑星が基本……許し方と愛し方……を学ぶことができる一種の幼稚園であり、一度それらの技術を会得すれば初歩的な諸階級を昇る準備が整うようだ。他の幼稚園児のように、現在学ぶことに集中し、これからの数多くの等級すべてにある想像を絶するそれぞれの教科は面白く、また究極の善に対して完全な愛の下に計画されてきたと思われる体系において努力する価値があることを信ずるようにと、われわれは言われている。
  天国が崇拝する神の永遠の世界であると教えられてきた人々は、われわれが帰幽したところの実在が人間の喜びの中心にあることを信じ難いようである。しかしご自分の愛し子があなたの前で這いつくばり、あなたがいかに偉大かと自分に言わせて、来世を過ごしてもらいたいと思うであろうか。もちろんそうではなかろう。そして明らかに神も同意見である。「イエスがいう。あなたがたのうちで、自分の子がもしパンをもとめるのに、あなたは石を与えるであろうか。それとも、彼が魚を求めるのに、ヘビを与える者があろうか。このように、あなた方は悪い者であっても、自分の子どもには、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」(マタイによる福音書7:9〜11)神との再結合に向けて霊的に学び生長することは神が望みあるいは必要としているところの唯一の崇拝の対象のようである。


http://www.j-spirit.jp/oldrecord.html


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