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雨の公園を歩く―非習慣に癒される―

雨の公園を歩くのが好きだ。
疲れた頭をスッと空っぽにして、ひんやりとした空気を、嗅覚・触覚・ 視覚・聴覚 で感じる。
自分と外界との距離を、適度なものにスルスルと整えてくれる気がする。

最近は、夏の暑さと仕事の忙しさで、しばらく公園に来ていなかった。
仕事が忙しいと、頭が完全にキャリアモードになるようで、休憩中やプライベートの時間でさえも、仕事に役立つ情報をネットサーフィンしている自分がいる。
あるいは、人生を豊かにする、より効果的なプライベートの過ごし方を求めて、ライフハック的な記事を読み漁ってしまう。
決して悪いことではないのだが、常にアドレナリンが出ている状態で、疲弊してしまう。

忙しさのあまり、そもそも私は、何がしたかったんだっけ?と、うっかり自分探しの、答えのないサークルに入り込みそうになる。
そう、答えなど無いというか、状況次第でいくらでも変わってくるので、自分がその時何を選択するか、決断するかである。
そんなことは承知している。
今更そんな悩みなど無いはずだ。

雨に価値があるのは、それがいつ訪れるか分からず、また音や匂い、空気の質感が毎回少しずつ違うからではないかと思う。
(天気予報である程度分かる、などと無粋なことは言わないでほしい)
不規則なさざめき、光の反射、葉に溜まった水が突然傘にボトボトと落ちてくる、小さな偶然。
そんな不規則性に、生物としての私たち人間の、自然の性を見出すことで安心できるのかもしれない。

ライフプランを立てることは重要だ。
習慣を見直すことで、人生がより良くなることについても、異論はない。
科学で解明されつつある、自然が人へ与えるプラスの効果を適切に日常に取り入れることにも大賛成だ。
ただ、ルールや計算されつくした"習慣"にがんじがらめにされたくないのである。

規則性とは不思議なもので、自然の中に規則を見出すものが科学であるのだから、科学は即ち自然の一部であるということもできる、不完全ではあるが。
我々は生物学・心理学・社会学などのあらゆる科学の法則を駆使して人生や日常を設計すべきであると。

一方で、科学の規則性には必ず存在する例外にこそ注目すべきで、その不完全さが即ち自然というものだと主張したがる芸術作品も多くある。
我々の心情はとかく、こちらに傾きがちではないだろうか?
とはいえ、人々が創造する直線的な事物を避け、優美でナチュラルな曲線を好んでいたら、何とフィボナッチ数列的曲線美であった、なんてことになったら皮肉でしかない。
規則性・非規則性の境界は、明確にすべきではないのかもしれない。
焦点の絞り方次第だと言われては、議論の余地もないが。

雨の公園は人がまばらで、空気の密度が濃い。
緑が、木々の一本一本が、本来の姿に戻る気がする。
そんな生命力を感じて、科学的に言うと、私の自律神経は整えられていく。
非科学的に言うと、自然との一体感が、私の魂を回復させる。

これからも、雨の公園を散歩しようと思う。
毎日ではなく、週一でもなく、ただ行きたいと思った時に。
そう、雨はいつ降るか分からないのだから。


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