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変な私は文化遺産かもしれない。

人は自分の基準で生きている。社会の基準に揺れ動きながら・・・

小学生の頃は、周りの友達と考えていること、感じることが少しズレていることを感じていた。作文を書いても観点が違うところを担任にみんなの前で話をされ、褒められているのか、おかしいと言われているのかわからなかった。感受性がつよいと多くの人に言われた。感受性ってどういう意味なのかわからない歳だった。そんな自分を変だと思わなかったし、そういうものだと思っていた。

でもそのズレが友達からは変に見えていたのだろう。

中学2年になった時、シカトをされだし、孤独を味わった。シカトは自分の存在がこの世にないように感じるから一言だけでも言葉が欲しかった。孤独はとても怖かった。心の中でいっぱい祈る日が続いた。祈った。

新しい友達ができた。少しずつ元気を取り戻した。

高校生になった時、シカトされていたことが嘘のように思う新しい私が始まる。いっぱい笑った。友達だと人に紹介できる喜びを感じた。笑い合える、こんな幸せがあるんだと知った。でも幼い頃についた傷は、もう傷つきたくないと心に残り、「普通」という概念で私を纏うようになった。

あれから何十年経って、ふと自分を振り返ると、自分のことがよくわからないなぁと思うのだ。変な自分探しの旅に出てみたくなるが、きっと見つからないと思う。思えば社会は変な私のままだともっともっと生きづらかったかもしれない。あの時、私は私という存在を私が否定してしまったけど、社会で生きることができている。時々疲れるけど嬉しいこともある。見つからないのはだって私がここに在るから。

私はここにいる。変な私も私の中にいるよね。変だという感覚が恋しい。私の心をもっと自由に。豊かに。

これからも生き生み出すもの有形、無形 のものとと思いを馳せ、楽しむ。

アラフィフ、まだまだ面白くなるだろうか 苦笑



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