いま、ここに生きる
東日本大震災から10年。
その震災における多くの尊い御霊のご冥福をお祈りし、また被災され今なおも癒えぬ時間を過ごされている多くの方々へお見舞い申し上げます。
「3.11」を語ることはできませんが、この機会に改めて死と生について、私が日頃思っていることを綴ってまいります。
死に向かって生きている
あなたは自分の死について考えることがありますか?
少なくとも1度や2度は、自分の死について考えたりすることはあるのではないでしょうか?「3.11」のような大きな災害だけでなく、最近ではコロナ感染によって、その他の身近な方の死に立ち会う中で考えさせられるテーマです。
私自身はかなり健康な身体で生まれ、小さなころから大きな怪我や病気などもほとんどなく育ってまいりました。命に関わるかもといえば、盲腸の手術や緊急帝王切開2回、3度目は予定での帝王切開手術くらいです。
死に最初に向き合ったのは、小学校を上がる前、隣に住むお姉ちゃん(14歳)の死。すぐ隣に住む色白の美人さんで優しいお姉ちゃんは、身体が弱く学校へ行っておらずいつも遊んでもらっていました。ある晩、「◯◯お姉ちゃんが危ないから」と両親と一緒に病室へ向かいましたが、すでに息を引き取った直後でした。
ただ、それは、いつもと変わらずに美しく横たわっているお姉ちゃんの姿であったことを今でもはっきりと覚えています。やはり「死」という実感はなく、その後にどうそれと向き合ったのかさえも覚えていません。後で、そのお姉ちゃんが白血病だったことを知りました。その次は、中学の同級生がバイクの事故死に遭い、また病気療養中の同級生が帰らぬ人となりました。青春真っ只中、人生これからという時の衝撃はとても大きかった事を改めて思い出します。
人はいつか必ず死ぬ
それが早いか遅いか、どんな状況で起こるかは予測がつかないことの方が多いけれど、改めて、生きている以上は死に向かっていきていることを感じました。
自分の人生を生ききったのか?
今でも「いずれくる死を前に何ができるんだろう?」とふと考えることがあります。それは特にこどもが生まれ、守るべきものが存在してから、それを思うようになった気がします。「私がいなくなってしまった時にこども達が困らないように、できることは何だろうか?」であったり、「何を残し、何を手渡していけるんだろう?」という問いです。
東日本大震災は、家族をもった後で、私が必ずしもこども達より先ではないということを改めて知らされた想定したくない出来事でした。それからしばらく経った後、9つ離れた兄がひとりぼっちで急死、その2日後に親しい叔母の事故死。人の命がこうも簡単に亡くなってしまうこと、それに対してあまりにも無力な自分を突きつけられ、しばらく塞ぎ込んでしまいました。
「兄は自分の人生を生ききったのだろうか?」
心の時計が止まったまんまの過去に生きていても、何も変わらないことにどうにか気づくことができました。同時に、生きている自分ができることは、いまあることに感謝し、今を悔いなきように生ききること、一生懸命生きることが、今できることのすべてではないかという気づきでした。
いずれ目覚めない日が来るからこそ、朝一番は「目覚めに感謝」。できるだけ笑顔で過ごす、やるなら楽しむ、そして感謝する、をより意識するようになり、それを発信するようにしています。
過去ではなく、未来でもなく「いまを生きる」
自分の人生を生ききった!といつでも言えるように。
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