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ヨークシャー行き当たりバッタリ人生その3『押し寄せる不調』−落ちこぼれたくない  社会人音大生の奮闘記

昨日の夕方、先月提出した室内楽アンサンブルの試験結果が発表され、無事に合格していた。最後の課題は昨日締め切られ4週間後に結果を待つばかりとなった。
室内楽アンサブルは2年生の時に散々な目にあった。トラウマから回復しつつも不安は払拭できずにいた。次の「その4」で」詳しい経緯を書いたのでそちらを参照して欲しい。

前回は大学入学後最初の一週間のことを書いた。
最初の年のタイムテーブルは週4日で金曜日と週末は休みだった。

金曜日と土曜日は朝から出勤で午後に休憩1時間挟んで夜9時半から10時まで働いていた。
日曜日は午後3時か4時まで。その夜だけが唯一の休みだった。
大学が始まる以前から私の左手の中指の第一関節にコブが出来て妙な角度で折れ曲がり痛んだ。主治医に診てもらうとへバーデン結節という関節が変形する原因不明の病気だった。加齢や使い過ぎで軟骨が減るのが原因の一つとも言われた。治療法も無く進行も止められないという。関節の不自然な曲がり具合の見栄えは悪く関節がしくしくと痛んだ。
医者に他の指もなる可能性もあると言われ、あまりにも関節が曲がり過ぎたらクラリネットが吹けなくなるのではと恐怖であった。
その話を日本の母にすると、母の友人も罹患しているという。
母によると関節が固まれば痛く無くなるらしい。固まるまでに数年掛かる人もいるというので気長に待つ事にした。
大学に入った頃はまだ関節が固まっていなくて、時々引っ掛かるような感覚があって関節が曲がらない事もあった。幸い痛みは引いてきていた。

その頃もう一つ心配事があった。
左の肘が痛むのである。時々刺すような痛みがあった。
何故かまた左側である。クラリネットを練習していると痛くなってくる。
再び医者に掛かると、肘の軟骨にカルシウムの結晶が出来てその表面がザラザラして神経を刺激するのだという。
痛み止め軟膏を塗ってマッサージしていれば良くなると言われ、毎日塗ったら3週間ほどで良くなった。
つまるところ、シェフというのは調理をするときに同じ動作を繰り返す為、負担が掛かる場所が故障してくるのだ。全体的に身体中の関節に良くない。
そして老いの波も押し寄せる。
しかし、職場には常連客がいたし少しでも生活費を稼いでおきたかった。

そうやって学校と仕事を両立していたが、とにかく練習する時間が欲しかった。
私は明らかに他の同級生よりも全てが劣っている。和声や聴音の勉強もしなければ追いつかない。
学校まではバスで通っていた。大学があるリーズまで混んでいなければ50分弱で着いたが、朝夕のラッシュアワーは1時間半ぐらい掛かることもあった。
この時間を有効活用しない訳にいかない。
バスの中で譜読みだけで無く和声や聴音の勉強をした。
携帯電話のピアノアプリでランダムに音を弾いてインターバルを当てる練習をした。インターバル聞き取り練習アプリも見つけ、毎日それで聞き取り練習をした。
楽譜に表示された音階を認識する練習アプリでもっと早く楽譜が読めるように練習した。この練習は今も毎日欠かさずやっている。
しかし和声に関してはかなりお手上げだった。
ちゃんと理解できないまま、毎週授業が進んでいき置いてけぼり感が強くなっていた。このままでは完全に落ちこぼれだ。

和声と聴音の先生は私の祖父に似た面影があって勝手におじいちゃん先生と呼んでいた。
そんなおじいさんな年齢では無いのだが、柔和な微笑みとイギリス人らしいユーモアセンスやフレンドリーさで学生達に人気を博していた。
和声の授業は分からないし聴音もチンプンカンプンな私ではあったが、おじいちゃん先生は大好きで授業は欠かさずに出席した。
ある日、授業が終わってから先生にその日の授業で分からないところを聞きに行った。説明されても完全には理解出来ない。
その時に私があまりにも理解出来ていないことがバレたのだろう。
先生が「ノニ、カフェで補習レッスンしようか?」と。
早速数日後、学校のカフェで補習レッスンをしてもらった。
雑談になって、先生の奥さんはロシア人で、弟さんは日本で働いていると知った。
この学校に日本人は少ない。その時は他の科の3年生に一人だけ留学生がいた。
「日本人はイギリス人と同じように物事を関節的に柔和に聞くのがいいよね。うちの奥さんはロシア出身だから時々ダイレクトに物事を聞くんだよ」と言って笑っていた。
私がいつも思っていることを聞いてみた。私は他の子たちのような基礎知識も無く和声はなかなか理解出来ない。たぶんクラスで一番の落ちこぼれなのでは無いか。
すると先生が笑いながら言った。
「クラスの他の子たちも和声がわからなくて補習レッスンしているんだよ。みんな今のノニと同じこと言ってる。みんな自分がクラスで一番落ちこぼれじゃないかってね」
これはさすがに驚いた!
誰も言わないけど、本当はみんな授業が分からなくて苦しんでいる?!

大学始まった当初は私にはあまり友達がいなかった。
昔から人に馴染めない、何故か嫌われてしまう傾向がトラウマとなって、自分から積極的に友達を作ろうとは思わなかった。さらに大学では私の年齢は同級生の二倍以上だ。
入学して最初の授業でたまたま隣に座った3人組に声をかけられ、強烈なアニメファンのこの子達とは仲良くなった。
でも授業は数グループに分かれている為、和声のクラスに親しい友人はいなかった。だから他のクラスメートも授業が理解出来ていないとは考えもしなかった。
先生のこの一言で目から鱗が落ちた。
そうなのだ。和声は一筋縄ではいかないのだ。
和声ができなくても演奏に影響は無い。そう思っていた。
それは正解で不正解だ。曲は演奏できる。でも作曲家の意図は和声の知識無しでは読み取るのが難しいのだ。和声を学び始めて作曲家たちの声がかすかに聞こえてくるようになった。彼らのメッセージは曲の中にあって、それを感じ取ることに楽しさを覚えてくるのだ。
1年生の学年末の和声筆記試験は落ちなかった。すごく良い点では無いけど勉強の成果とおじいちゃん先生の補習の効果は少し表れていた。
2年生の和声の授業はさらに覚えることが山のようにあった。
バスの中や休憩時間での勉強は続けていた。無駄にする時間は無いのだ。
レッスン終了後のオケ練が続いて帰りが遅くなると疲れが溜まってきてバスに乗った途端爆睡することも増えてきた。
でも翌朝のバスの中ではできる限り勉強した。
おじいちゃん先生に「ノニは今回は補習しなくて大丈夫なの?」と聞かれた。
カフェで誰かが先生に補習してもらっているのを頻繁に見かけるようになった。みんな必死なのだ。私も必死に勉強した。
その甲斐あってか、2年生学年末の和声試験は満足のいく点数だった。
先生からのフィードバックはmp3で戻ってくる。先生の声でフィードバックしてくれるのだ。
「ノニ頑張ったね。とても良い点数だよ」というおじいちゃん先生の声を聞いて涙出た。
聴音もインターバルが3問しか当たらなかった最初の授業から2年。
学年末試験でインターバルは書き間違えで数問外したものの和音の問題は全問正解だった。先生も喜んでくれた。

入学当初はレッスン室の予約の仕方に慣れず手間取って予約ができない日があった。
そういう時は授業やレッスンの合間はカフェで過ごすことが多かった。
コーヒー飲みながらの譜読み時間は至福の時だったので、一人で過ごすのが好きだった。そもそも友達が少ない。

ある日、空き時間にカフェに座って音楽を聞いていた。
すると突然テーブルの前に誰かがドデンっと座った。
カフェは混んでいない。空きテーブルはいくらでもある。
驚いていると、その子が言った。
「私はバイオリン奏者の2年生。さっきレッスン行く前にあなたを見かけたの。レッスン終わって戻ってきたら同じところに居る。だから、私はあなたの友達になるって今決めたの!」
こういうアプローチもあるのか!そういえば、最初の授業で友達になった3人組の一人の子もこんな感じで友達になった。
すごい行動力だ!拒否されるとかネガティブな考えは無いのか。
その子は一つ上だったから、去年卒業してしまったけど今でも友人関係は続いている。彼女が3年生の時に日本語でバイオリンで弾き語りをしたいという時も日本語の歌詞のチェックをした。
彼女の友人の声楽家の子も日本語の歌を歌うというので発音指導手伝った。
ランチタイムに日本語を習いたい子達数人と日本語会話練習もやった。
自分の知らないところで勝手に友人の輪が広がっていた。
3年生が終わる今、殆どの同級生と友人になっている。音楽での繋がりは相手の演奏の感想や賞賛をしながら絆が深くなっていくような気がした。音楽を通して相手の事がだんだん理解できるようになってくるのも興味深い。

和声や聴音は自分の努力で成果が見えるが、実技はそうはいかなかった。

最初のステージレッスンでソロ演奏をする日が来た。
ステージレッスンでは演奏だけでなく、ステージまでの歩き方、お辞儀の仕方、譜面台の置き場所やスピーチの練習までする。お作法レッスンでもある。
スピーチの声が観客席の後ろまで聞こえないとやり直しさせられる。
みんな緊張してスピーチがしどろもどろになって、自分自身をmeと言ってしまうと「〇〇 and  I って言いなさい!meじゃ無いのよ!」とチェックが入る。最初は間違えている子が続出した。

観客席に座っているのが学生とはいえ人前で演奏するのは怖い。
1年生はみんな怖くて震えていたり、緊張で音が出なくなっている。
観客席でも人ごとではなく、次の公開処刑は自分の番だ。
私も緊張で心臓がバクバクした。過呼吸になって目眩がする。
過呼吸ゆえ息が吸えずフレーズがけちょんけちょんに切れていく。
逃げたい。早く演奏終わってこの場から立ち去りたい。
聞くに耐えないボロボロの演奏しか出来なかった。また惨めな私がいた。
ランチタイムコンサートでも緊張マックスで冷や汗が出た。
同じく演奏する友人はパニックアタック起こしていた。
私もパニックアタックなりつつあった。

最初からこの演奏恐怖症に悩まされた。
グループレッスンでもいつも冷や汗で心臓がバクバクしていた。
当時3年生だった人がある時教えてくれた。
同じく3年生の子がまだ1年生の時、ステージレッスンで恐怖のあまり泣きながら走って逃げ出したそうだ。
私は涙は出たが逃げ出さなかった。足がすくんで動けなかっただけかもしれない。
この演奏恐怖症に悩まされる人は結構多かった。
2年生になっても改善されることのなかった私の恐怖症は、先生の気づくところにもなったらしくカウンセリング室からお呼び出しが掛かった。
カウンセリング室も学生の予約が満杯だったらしいが、私の場合どうやら急を要したようで特別予約を受けてくれた。

2年生のタイムテーブルはかなりキツかった。
1年次からと同じレッスンや座学の他に新たなる専攻を2つ選択しなければならなかった。私はコミュニティ・ミュージックというミュージックセラピーに近い活動を学ぶコースとオーケストレーション(編曲や楽器の特性を学ぶ)コースを取った。
以前は遊びで曲を作ったりしていた。
大学に入る前に和声の知識の無い頃だった。
いつか自分の好きな曲を作れるようになりたかった。
こんな大きな和声の壁がある事はまだ知らない平和な頃だった。

好きな事にはつい集中し過ぎてしまう癖がある。
試験課題はあるピアノ曲をフルオーケストラに編曲する事だった。
この作業が楽しくて学校のMacラボに篭った。
大学が冬休みに入っても毎日学校のMacラボへ通い続けた。
自宅にもMacはあるがソフトが高くて手が出なかった。

そうやって2年生の冬休みは学校へ通い続けて、学校がクローズになったクリスマス期間だけ自宅で音楽学やコミュニティ・ミュージックのエッセイ課題をやった。
休み明けのテクニカル試験は1年次よりさらに難しいのでクリスマスもニューイヤーも休みなく練習した。
学校再開と同時に再びMacラボへ通い編曲作品は自分では満足のいくものになった。エッセイも提出、室内楽アンサンブル試験終了。テクニカル試験も終わった。
すると急に体調がおかしくなった。異常なほどウツ状態になってしまった。
演奏しようとしても気分が乗らず、ステージが怖くて涙出た。
そして再びステージレッスンでの大コケ。泣いた。
数日後にカウンセラーさんからの呼び出しメールが来た。
個人レッスンの先生も私の様子がおかしいと心配していた。
先生やカウンセラーさんいわく、私はどうやら度を越してやりすぎてしまったらしい。
そういえば冬休みは全く休まなかった。休む事に罪悪感を感じて休めなくなっていた。仕事は週2日に減らしていたものの、休んでいる時間がもったいなくて走り続けた。そして突然壊れた。

カウンセリングや休息を取ることで少しづつ回復はしたが、気分はいつも重かった。
その頃、次の問題が発生した。
室内楽アンサンブルの編成変更である。
1年生の時からピアノとバイオリンと組んでいた室内楽アンサンブルの成績は悪くなかった。大好きなレッスンだった。
しかし、この編成変更で私はあるピアニストの子とデュオを組むことになった。
この編成変更でどん底に落とされる事になった。全くの予想外の出来事だった。

次は不運の女神に愛され過ぎてしまう話に続く。

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