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『河内木綿史』の感想文

最近の学びということで、河内木綿について調べていたので、そのことを書いていきたいと思います。

河内木綿は、大阪の八尾市あたりで栄えた木綿です。
近所というにはだいぶ遠いのですが、私の住んでいる場所でも綿作りは広く行われた地域で、河内木綿を作っていたと母から聞きました。

日本では綿を輸入に頼っており、コロナ禍の折、マスクが生産できないというので一時大変なことになっていました。

その時、「衣食住」における「衣」をつかさどると言っても過言ではない綿をそのほとんどを外国に頼るというのは、危険かな?と思い、実際に育ててみることにしました。

ふとん屋さんで綿の種を送ってもらえることを知り、郵送していただきました。これが3年ほど前の事です。

当然畑の持ち合わせはありませんから、プランターで果物の土を購入し、そ育ててみました。素人ながら、以外とちゃんと育てることができ、翌年からは育てた綿から種を取り、栽培しています。

追肥とか水やりとか本当に専門的なことは何も知らずに始めましたが、ちゃんと育ってくれているところを見ると、案外初心者向けの植物かもしれません。

収穫した綿はできれば糸にしたいところですが、糸づくりがまたさまざまな道具が必要となるため、中断している状況ですが、スピンドルから織機まで自作したいと思っています

綿畑というのは、さすがに卸す場所がないと現実的には難しいですが、綿の育ちやすい環境ではあるのかなと思いました。

ということは、ずっと昔から日本人は綿と生活を共にしていたのだろうと思い、『河内木綿史』を読んでみました。

『河内木綿史』によると、綿作は2回頓挫していました。
1回目は桓武天皇の頃、三河国に漂着したインド人が持っていた綿の種を紀伊・淡路に栽培したときです。1年も経たずにほとんどが全滅してしまったと言います。

2回目は、1541年にポルトガル人により綿の種がもたらされたときです。
諸国に広く広まるものの、うまく育ちませんでした。

それから約50年後の1592年から1596年に、輸入された綿の種が大和・河内・山城・摂津・和泉などに植えられ、これがうまいこと育ち始めます。

特に河内に植えられた綿が河内木綿と呼ばれ、多くの人に愛される木綿となっていきました。

もっと古代から綿はあるものだと思っていたので、予想外でした。

江戸時代の始まる直前くらいから綿が作られ始めたのです。

綿農業はしだいに発展していき、綿株仲間や綿仲介業者が出てきました。
綿を河内や大和から江戸や四国、紀伊、越中、日向など各地に卸していきます。

手数料としてお金をとることで、綿株仲間は大きく発展していくことになります。

綿株仲間は1772年に三所綿問屋として綿問屋の本株18軒分を持ち、畿内の綿農家に貢租の納期に立替銀を与えるようになりました。

さらに、地方産の実綿を取引し、1分3厘の口銭を取り、阿波や紀伊、伊予、播磨などへ販売し、年に215匁の冥加銀をお上に上納していました。

仲介業を担う問屋は大きくなっていくとともに、複雑な発展を遂げます。

三郷綿株仲間ははじめは、問屋仲介・仲介仲間・小売及び綿打ち仲間の3つに分かれていました。

そこから問屋仲間と仲介仲間が分裂していき、問屋仲間は先ほどの三所綿問屋として独立していきます。

三所綿問屋は、畿内や中国地方の綿を集荷し、販売を周旋しました。

仲介仲間は三郷綿仲間として綿一式の仲介仲間として独立します。

そして摂津、河内、和泉の農家から直接繰綿や実綿を買い集め、三所綿問屋に売り込みました。


このようにして株仲間はどんどん成長しましたが、成長するとともに特権的地位が生じ、資本力は幕府の権力とずぶずぶの関係になり、綿作農家を不当に圧迫していきました。

いつの時代も同じですね。

当時の幕府は、長防征伐で軍資金が必要でした。
そこへいっぱいお金を持っている綿株仲間は、3000両の献金と毎年銀22匁の冥加金と引き換えに河内産の木綿反物類と木綿糸類の一括取り締まりを問屋株と仲介株の両方を同時に許可してもらいました。

どんどん権力を持っていく株仲間に対して、農民はめちゃくちゃ増税を強いられていました。

1781年9月に定免制が敷かれ、定免制では徴収できないと分かると、1744年に「有毛険見取法」が施行されました。

「有毛険見取法」は、摂津、河内、和泉で実施され、従来低率であった新田と綿作に対して徴税しやすいように整えられた法律でした。

このような厳しすぎる状況から、綿吉屋(西岡店)が誕生します。
綿吉屋は、綿作農家から半農半商の綿買屋となり、木綿仲介商人を経て在郷木綿問屋に成長します。

この綿吉屋の営業の歴史は、そのまま河内木綿の歴史にもなります。

逆境をはねのけ大きくなった綿吉屋でしたが、明治時代にはいると工業化の波がやってきます。

明治時代、地租改正が施行され、金納制に移行し地券を設け地価の100分の3を税金として徴収しました。

地租改正により、自作農や地主などの土地所有者にとっては、恩恵を受けるような政策でした。

鎖国が終了し、貿易優先的工業立国宣言がなされると在来綿作綿業などは崩壊していきます。

大正時代初期には、河内木綿の終焉を迎えます。


戦国時代末から大正時代初期まで、河内木綿は日本人にとって大切なものでした。



産業としてではなく、文化や技術を残していくことも大事なことだと思います。

できれば産業として興したいところですが、さすがに量もとれるアメリカの綿には価格も質もかなわないし、いっそ堺木綿で布を織って着物キットみたいなものを作って海外に売り飛ばすというのもありかな?

というわけで、最終的に堺木綿的なものを作っていけたら面白いかな?と思っています。


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