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マスメディアの劣化

 「貧困が無知を誕むのじゃなくして、資本主義社会体制自体が無知を造るのだ。このことが理解出来た私は、完全なる社会的人間へと成長したと言っても僭越ではないだろう。」とかつて連続殺人犯の永山則夫は著作の『無知の涙』に綴っています。
※事件は1968年に、青森県の貧困かつ機能不全の家庭で育って、中学卒業後集団就職で上京した永山が、横須賀基地から盗んだ拳銃を使って4人を殺害して、当時19歳の未成年でありながら死刑(執行済)となったもので、判決が現在も「死刑適用🟰量刑の一般的基準」となっています。
 獄中で文学や哲学を勉強して『無知の涙』等執筆活動をしたことでも広く知られています。
 実はこれが書かれたのは1970年で、50年以上前のことですが、その当時以上に資本主義、新自由主義が進行して格差社会、切り捨て社会が深刻化していると感じられる昨今です。
 最近、今更ながらにそれを強く感じるのは、マスメディアが現体制に批判的な発言や現象をほぼスルーしてしまう反面、忖度や追従するコメンテーターを重宝する傾向が更に強まっている事実です。
 今般の東京都知事選挙に関して、かつて体制側を批判して当選した候補者を、当時は賞賛したメディアが、その後体制化してしまった現知事を批判して出場表明した候補者に対して、その政策提言の中身(現時点で未発表)を確認する前に、アンチテーゼしたことだけを捉えて批判することは、アンチテーゼそのものを否定することであり、マスメディアの批判機能を放棄していると思わざるを得ません。
 私が言及したいのは、それぞれの政治信条や政策内容云々ではなく、批判するという行為自体を排除してしまうことの問題性です。
 学校でも協調性を強調するあまり「空気が読める。」子どもが正しいような価値観になっていて、それが不登校の一要因になっていることをnoteに以前上げましたが、社会全体のその傾向が強まれば、より生きづらい世の中になってしまうと懸念します。
 コメンテーターもネットでは発言出来ても、忖度が足りないとテレビには出れなくなって、今テレビ露出が多いメンバーは、ジャーナリストや学者、タレントに限らず固定化されつつあるように思えます。
 商業主義が前提とは言え、報道機関としての公平、公正を意識した批判性も発揮していただきたいし、それが本来の使命であると思います。

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